表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/20

12th tale The Black of Terror

・ある少女の回想 八



「そのぬいぐるみ、かわいいね」


 崎山さんが私の机にやって来て、ランドセルにストラップで繋げた、クマのぬいぐるみの頭を撫でた。


「クマ、好きなの?」


「うん。かわいいでしょ?」


 ここしばらく、学校には持ってこなかったぬいぐるみ。

 元はホリーの物だったけれど、私の一番気に入っている私物。

 生まれた時からずっと、私の部屋にあった物の一つ。


「つぎはぎあるけど、綺麗」


「自分で洗ったの。貰った時にすごく汚かったから」


 私の大好きなぬいぐるみ。

 元々はホリーの物だったと知ったのは、つい最近のことで。ホリーの手垢が汚らしくこびり付いているのだと思うと、ぬいぐるみが可哀想になった。

よっぽど雑に扱われていたに違いない。

 私はぬいぐるみのこの子を洗ってあげた。洗い方を調べて、丁寧に、丁寧に。

 きっと、虐げられてきた哀れなあなた。付けられたタグに書かれた名前は、スティープス。


「ふぅん」


 崎山さんはぬいぐるみから手を離して、自分の席に戻っていった。

 崎山さんが席に着く音に反応して、崎山さんの後ろの席で狸寝入りをする坂井さんが体を強張らせる。

 休み時間中、ああして机に顔を伏せて眠る、坂井さんの気持ちを考えるだけで、私は胸が空く思いだった。

 先生が教室に入ってきて、皆が席に着いた。坂井さんは白々しく起きたふりをして、挨拶と共に授業が始まった。

 放課後。

 崎山さんに頼まれ、日直の日誌を返しに行っていた私が教室に戻ると、そこに待っているはずの崎山さんの姿は無くて。

 私は先に帰ったのだろうと思って、私も帰ることにしたのだけれど。机に置いておいた私のランドセルが無くなってしまっていた。

 これでは、帰りたくても帰れない。教室中を探し回ったのに、見つからない。

 どこ?どこ?どうして無いの?

 どれだけ探しても見つからなくて、私は泣きながら家に帰ることにした。

 ランドセルに付けてあった、ぬいぐるみのことを私は想う。

 失くしてしまう位なら、持ってこなければよかった。今日に限ってどうして、久しぶりに学校に持って行こうだなんて思ってしまったのだろう。

 あの時の私は、さぞかし暗い顔をしていたに違いない。

 私が校門に向かおうとすると、校門の外に、女子生徒が集まっているのが見えた。

 同じクラスの女の子たちだった。

 それと、崎山さんと坂井さんも一緒だった。

 私は校門に向かう足を止めて、その光景をじっと見つめた。

 何故か、私のランドセルを崎山さんが抱えていて、皆が笑っていた。坂井さんも、楽しそうに笑っていた。


「哉沢さん可哀想ー」


 ぞくり、と。

 聞こえてきた会話が、私の中に疑念を呼ぶ。

 あそこに私のランドセルがあって、あそこに坂井さんがいて。

 あちらはまだ私に気付いていないのか、話を続けていた。


「学校にこんなの持ってくるとか子供っぽすぎ。幼稚だねー、お金持ちは」


 崎山さんがぬいぐるみの頭を潰すように強く握る。

 強く、強く。

 ぬいぐるみの頭が潰れてしまいそうに、歪められる。


「うちのお父さん、哉沢さんのお父さんに脅されてるんだよ。前なんてお給料減らされたりしたし」


「うわぁ、普通じゃない。崎山さん偉いね。それで哉沢さんと仲良くしてるの?」


「そりゃそうでしょ」


 私のお父さんが、崎山さんのお父さんにそんなことを?

 いつも怒鳴り散らしているお父さん。嫌な思いをさせられるのは家にいる時だけだと思っていたのに。

 どうして、そんなことを。

 崎山さんとクラスの子たちの横で、坂井さんは相槌だけ打っていた。

 坂井さんは笑っているけれど、よく見れば、楽しそうには見えない顔をしていた。話に入っていかずに、目立たないようにしながらこの場をやり過ごそうとしているようだった。


「先生の所にも電話きたらしいよ。哉沢さんのお父さんすごい怒ってたって」


「過保護すぎるでしょ。もう、どっか別の学校行ってくれればいいのに」


 泣いている私の前を、誰かが目もくれずに歩いて行った。

 その後姿を見て、担任の先生だと分かった。

 クラスの子たちの群れが私に気付いたらしく、皆でこちらを見ていた。

 崎山さんも、坂井さんも。

 皆が、こちらに気持ちの悪い笑顔を見せびらかして、崎山さんが私のランドセルを、校門前の茂みに投げ捨てて帰って行った。

 怒鳴りつけ、私の頬を叩く父の姿を憎しみを込め思い出す。

 みんなと友達になれたと思っていたのに。やっと、取り戻せたと思っていたのに。

 私の取り戻した日常は、全て父の見せた幻想であったことを私は知った。

 涙が止まらなかった。

 私は誰もいなくなってから、茂みの中から、ランドセルとぬいぐるみを漁り出して、独りで家路に付いたけれど。

 足がもつれて、私は道の真ん中で、力無く転倒した。

 草が色を取り戻す、春先の土の匂いが、悔しかった。

 悔しかったのに、もう私には何の気力も湧いてはこなくて。

 私はもう、自分が駄目になってしまったのだと悟った。







12th tale The Black of Terror







 山の如き体躯を持ち。

 太く、鋭い爪を振りかざし。

 羊の角を生やした頭は、尖る牙を剥いていて。

 その両目は狂気を孕んで、真紅に射抜く。

 我々の家を壊し、隣人を殺し、破滅を与え。去っていく。

 誰もが知る恐怖の象徴。

 封印された筈のヴァン・ヴァラックは、数多の歳月を経て再び現れた。

 かつて、澄み切った蒼穹に輝いた空は、白と黒の不可思議な霧に覆われて、世界中には凶報が飛び交う時代が訪れた。

 ヴァン・ヴァラックの復活と共に、この世界に大きな変化がいくつも起こったのです。これ等の変化が告げる私たちの未来とは、一体どんな物であるのか。

 私たちにとって無視することのできない危機が迫っているということを、この劇を通して、御来場の方々に思い出して頂きたいと思っている次第であります。

 願わくば、世界が未来永劫平和であらんことを。


ランケット中央劇団 「ヴァラックとヴァッケスの胎動」第七期パンフレット より






 やっぱりと言うか、当然と言うか。

 ホリーもライオンも、中々反応に困っている様が顔に出ていた。

 スティープスとディリージアが見えるホリーはともかく、そうではないライオンはさぞかし悩んでいることだろう。

 椎菜としても、ライオンの苦悩が見て取れるようで。


「お前、頭おかしいんじゃないのか?」


「まあ、そうなるよね」


 ホリーの正体に関することは除いて、椎菜は一通りの説明はしたものの、それだけで受け入れられるような話ではないのは椎菜にも分かっている。

 それに、ライオンやホリーにとっては、ここが夢の中だと認めるということは――――


「大体、本当にこれが夢なら、俺たちは何なんだ?誰かのただの想像なのか?その紫在ってやつが夢から覚めたら、俺たちはどうなるんだ?」


 自分が実在しないことを認めるも同然な訳で。それを信じろと言うのは、非常に酷なことだ。


「……」


 椎菜はライオンのこの反応を想定していたし、何と言うべきか考えても置いた。

 これは、普通の夢とは違う。

 ここに住む人たちは、皆自分の意志を持って生活を送っているし、ディリージアが言うには、一旦夢が終わっても、そこにいる人たちが消えてしまう訳ではないと。

 それはつまり、この夢の世界は、現実とは違うもう一つの世界であると言える。眠りを通して出入りできる別の世界。ここに住む誰もが、決してただの空想なのではないのだ、と。

 けれど、実際言うべき時になってみれば、椎菜の口から言葉が出なくて。


“君たちは、君たちだ。空想なんかじゃない。”


 混乱するライオンの眼前に突き出されたメモ帳には、日本語でそう書かれていた。

 ディリージアと違って物に触ることができるスティープスは、この時初めて、筆談に依ってライオンと直に会話をした。


「そうは言うけどなぁ……」


“夢が終わっても、誰も消えることはないよ。夢の中と言うよりは、椎菜が来た世界とここは、別の世界なんだと思ってくれていい。”


「本当かぁ?本当に消えないかぁ?死にたくないぞ俺は」


 ライオンは納得いかない様子だ。

 ライオンからしてみれば、こんな突拍子もない話もない。加えて、自身の死活にも繋がる問題であるとすれば、尚更。


「そのディリージアってやつの言うことは、信用できるのか?ちょっとそいつにメモ帳代わってくれよ」


 スティープスが何か言いた気にディリージアの方を見た。


「ディリージアは物には触れないの」


 説明する椎菜を余所に、ディリージアはしゃがんで、ライオンのたてがみに手を伸ばし、軽く引っ張った。


「うお!?」


“彼は生きているものにしか触れないんだ。”


 ディリージアは必要以上に何度もたてがみを引っ張り、遊んでいる。それだけでは飽き足らず、ライオンの背中に腰を下ろしてくつろぎ始めた。


「いるのは分かったけど、いきなりそんなのを信じろって言うのが無理あるだろ……」


「うーん……」


「困ったね。どうしたら信じてもらえるかな」


「あのお姫様に会えば……、椎菜さんは元の世界に戻れるんですね?」


 話の流れを断ち切るように、ホリーが口を開いた。椎菜が答える前に、ディリージアが割って入った。


「確実に帰れるとは言えないが、まずは会わないことには始まらないのは、確かだ」


 スティープスが、律儀にディリージアが言ったことをメモに取って、ライオンに見せる。

 その横で、ホリーは弱弱しく言った。


「椎菜さんが元の世界に戻っても、また……、会えるんですよね?」


 椎菜にも、こうなると分かってはいた。

 ホリーを悲しませることになってしまうと、分かっていたけれど。やはり、椎菜はホリーの悲しそうな声と表情に、胸が痛むのを感じる。


「会えるよ、きっと……。ううん、絶対にまた会いに来る」


 椎菜にできる約束は、それしかなくて。

 各人が見守る中、ホリーは段々と目を潤ませて、ついに泣き出してしまった。

 ずっと我慢していた涙だった。

 ホリーの笑顔を陰らせる予感は現実となり、椎菜がホリーの前からいなくなることが、ホリーに分かってしまった。

 幼いホリーに我慢できるはずもない。小さな体に貯めこんだ不安が溢れて、大声をあげて泣いた。


「ごめんね……」


 結局、椎菜にはホリーの不安を拭ってやることができなかった。

 これは、椎菜が自分で決めたこと。椎菜の選んだ道が、ホリーを悲しませている。

 可哀想なホリーの姿に、椎菜はせめて、今だけでも寂しさが紛れるように、ホリーを抱きしめてあげた。

 椎菜の抱擁を受け入れて、ホリーは椎菜に縋るように長く、長く、泣き続けた。







 ホリーは落ち着くと、ライオンと遊びに宿の表へ繰り出した。

 部屋に残された椎菜たちは、長い説明とホリーの涙に焦り、疲れ果てていた。

 ディリージアは床に腰を下ろし、椎菜とスティープスはベッドに並んで腰かけて、がくりと頭を垂らした。


「まぁ、一応の所はこれでいいだろう」


「問題はこれからだね。どうやって紫在の所まで行こうか」


 調べたところ、ここ、ランケットの街から紫在がいると思われる城下町までは、歩いて行くには遠すぎる距離があるらしい。

 何週間もかけて歩いて行くよりは、別の移動手段を見つける方が遥かに現実的であると考えられた。


「うーん……、とりあえず、ちょっと休憩……」


 椎菜は如何にも疲れましたと言った声でそう言うと、ベッドにだらりと寝転がる。

 スティープスも椎菜を真似て寝転がり、椎菜はベッドの上で隣に倒れてきたスティープスの姿に、一人で息を詰まらせた。


「おい」


「ん~?」


 無愛想に声をかけたディリージアを、無愛想に見返しながら椎菜は起き上がり、スティープスもそれに合わせて起き上がる。


「お前は紫在を信じると言っていたな」


「……。言ったけど」


(なんだろう。まさか、今更になって、なにか文句でも言うつもり?)


「お前を信用していない訳じゃない。ただ、聞かせて欲しいだけなんだが……。紫在に散々な目に会わされてきたお前が、何を根拠に紫在を信じる?」


「言ったでしょ?あなたたちが紫在さんを信じてるから、私も信じようって思ったの」


「それだけなのか……?本当に、それだけで?」


 ディリージアとしては、気になる所であった。ディリージアが自分で言う通り、彼は椎菜を信じていない訳ではない。

 ただ。ディリージアが椎菜を見ていて湧いてきた、本心からの興味であった。


「あなたは前に……、あの騎士の人と魔女のお婆さんが、“紫在さんの家族の象徴だ”、みたいなこと言ってたでしょ?」


 椎菜は少し悩みながらも、ぽつりぽつりと話していった。


「あの人たちは、紫在さんのことをすごく大事にしてたんじゃないかって、私は思う。ここが紫在さんの夢の中で、あの人たちを紫在さんが無意識に作ったってことは……」


 スティープスは黙って椎菜の話を聞いていた。今のスティープスには、椎菜の心中を多少なりとも想像することができる。

 魔女と騎士への優しさが、椎菜の言葉を紡いでいるのだ。


「それって、紫在さんが家族の優しさに気付いていたってことでしょ?きっと、お母さんもお兄さんも優しい人だってこと。自分を見てくれなくても、自分のことを想ってくれてるって」


 魔女と騎士の死を無駄にしたくないという一心から出た、都合の良い考えかもしれないけれど、椎菜は確信めいた物を感じていて。

 夢というのは、案外そういう心の底に隠れた想いが表れるのではないかと、そう思って。


「……。そうか。分かった」


 ディリージアの物分かりの良い態度が、椎菜には意外で。特にケチをつけることもなく話を終わらせたディリージアを、椎菜は思わず、まじまじと眺めてしまった。

 そこに、部屋のドアが軋む、妙な音が聞こえてきた。

 何かと思って警戒しつつ、椎菜がドアを開けると、ライオンが手のない体でノックしようと、手の代わりに、頭でドアをつついていた。


「……、どうしたの?」


「いや……、それが……」


 ライオンはうっかりしていたと言う風に、後ろ足で顎を掻きながら,

言った。


「城下町に楽に行けるかもしれないんだよな。もしかしたらなんだけど」







 灰色と白と黒が混ざり合う空は、今日も陰鬱な気を漂わせ、一面に広がって。

 うんざりしそうなその色にも、椎菜はすっかり慣れた。

 椎菜は見上げるのを止めて、ライオンと共に街を行く。

 鮮やかな文様があちこちに並ぶ砂の街。ランケットと呼ばれる街だ。

 椎菜がスティープスと巡った繁華街とは別の通り、行商人やら大道芸人が集まる、街の出口となったこの大通りで、ライオンが昨日知り合ったという商隊を探していた。

 ライオン曰く、その商隊はランケットを拠点に、周辺の町から城下町まで移動しながら商売を行っているという。喋ることができるのなら、街中に肉食獣が入ってくることさえ許されるこの街だけあって、ここの住民は通りを歩く獣たちをてんで怖がらない。

 ライオンは椎菜たちの泊まる宿への道を尋ね歩いている内に、商隊の長である商隊長に当たったらしい。

 獣慣れしたランケットの住民の例に洩れず、快くライオンの話を聞いてくれた商隊長は、有り難くも余計なことに、彼の身の上話を長々と始めたという。

 何故、今、椎菜たちがその商隊をこうして探しているのかと言えば、その商隊が他ならぬ今日、ここ、ランケットから城下町へと発つらしいことを、ライオンが商隊長から聞いていたからで。


「いたいた。あれだ」


 荷車が長く、大きい屋根付きの荷馬車に商品を載せている小太りの男が、ライオンの姿を見るや、両手の品を置いてこちらに歩み寄ってきた。


「昨日のライオンじゃないの。どうしたの?」


 商隊長が、鼻から出ているような妙な声で、ライオンと慣れ親しんだ様子で話しかけてきた。

 ライオンと商隊長が話す横で、椎菜は大通りにずらりと並ぶ、数えきれない荷馬車を眺める。

 どの荷馬車にも二頭ずつ馬が繋がれて、蹄を地面に擦りつける馬たちを、商隊の女性がブラッシングしていた。

 ここにある荷馬車全て、同じ商隊の物なのだろうと思われた。


「ちょっと頼みごとがあるんだけど。聞いてくれない?」


「何かね」


 ライオンが尻尾で椎菜の足を叩いた。椎菜は慌てて、商隊長に顔を向ける。


「あの、私と他にもう一人、城下町まで一緒に乗せていってもらえませんか?」


「ああ、構わんよ」


「あ、ありがとうございます!」


「俺もな。おっさん」


 他の馬車の所へ、人が乗れそうな空きがないか探しに行く商隊長に、ライオンが付け足した。


「一緒に来てくれるの?」


「ホリーが行くって言ってんのに、俺だけ行かないってのもな」


 ライオンはここが夢の中であることを、信じられないと言っていた。

 城下町へ行くことも反対していたライオンがついて行く気になったのは、他でもなくホリーの決断を聞いたことが原因であろう。


――――城下町まででも構いません。ついて行ける所まで、連れて行ってください。できるだけ……、一緒にいさせてください。



「まあ、ここまで来たら最後までついてくさ」


「……」


 椎菜ににこやかに見つめられ、ライオンは恥ずかしそうに顔を逸らした。

 遠くで商隊長が呼ぶ声がして、助け舟が来たとばかりに、いそいそそちらへ向かう獅子を椎菜は追いかけて、言った。


「ありがとう。頼りにしてるから」


「……。俺は何もしないからな。今まで通り」







「俺は、先に城に行くことにする。もう、しばらく戻ってないしな」


 一行が馬車に乗り込まんとする直前、ディリージアは短くそれだけ言い残して去っていった。

 城にいるであろう姫、紫在の様子が気になっているのか。これ以上、紫在を放って置くことに後ろめたさを感じていたのかもしれない。

 椎菜がディリージアに「またね」と、言ったのも聞こえたのかどうか。

 スティープスが引き留める暇も与えずに、ディリージアの姿は早々に世界の果てへと消え去ってしまって。

 けれど最後に、椎菜たちには、ディリージアがスティープスへ後ろ手に、小さく手を振ったのが見えた。


「スティープス」


「何?」


「いい友達だね。ディリージア」


「……、うん」


 全員が乗り込むと、御者が出発の確認をして、馬車が動き出した。

 ランケットの街を出て、城下町へと向かって馬車が走り出す。

 遥か遠くの城で何かを待ち続ける、自暴自棄に全てを苦しめ続けるm夢の主の下へ。






 草も生えるは点々と、荒地を行く荷馬車に揺られ、椎菜とホリーは向かい合って座っている。

 ライオンは床に寝転がり、スティープスは椎菜の隣に退屈そうに座す。

 御者と、いくらかの積まれた商品を除けば、この荷馬車は椎菜たちの貸切状態である。

 城下町へ行くにはこの荒野を突っ切り、終わらない紅葉の渓流を渡るのだそうだ。

 半日かけて行われるこの大移動も、商隊にとっては珍しいことではないようだった。

 椎菜たちの乗る馬車の御者は、終わらない紅葉の渓流の美しさを熱く語っていたものの、今の彼女らに藪から棒な話を聞く心の余裕はなく、話の途中で椎菜の意識は出発前に買った菓子類に移っていった。


「食べないの?」


「ん!?何を!!?」


 椎菜の間抜けな声に驚いたライオンが、びくりと跳ねた。


「お菓子。折角買ったんだから、食べればいいのに」


「別に……、今、お腹空いてないし。ホリーが食べるかなって思って買っただけだし」


 穏やかになってきた馬車の揺れに、うつらうつらと眠そうにしていたホリーの目が開いた。「呼びましたか」といった顔で椎菜を見やる。


「これ、食べる?」


 商隊の人に聞いて椎菜が買った、商隊おすすめの品だ。

 己の勘で買えば、まず間違いなくはずれを引くのは自明の理。地雷を丁寧に踏んで歩くより、初めから踏みならされた正解の道を歩くのが、正しい判断であると椎菜は考えた。


「いただきます」


 ホリーは向かいの席から椎菜の隣へ、揺れに気を付けながら腰を移し、饅頭に似た菓子を受け取った。

 ホリーは手渡されたその菓子を、裏に表と見回して、なんとなしに頬張った。


「んん!?」


 ホリーの歯が皮生地を差すと同時に、噴出したのは黄緑色の煙だ。

 手の平に収まる程の大きさの饅頭から、屋根と布で外気と区切られた、荷車の中を充満させる量の煙が噴き上がる。


「んー!んんー!!」


 意表を突かれたホリーは、饅頭を咥えたまま必死に助けを求めた。涙目になって、椎菜に縋りつくホリーの口から、椎菜は饅頭を引っ手繰る。

 そのまま椎菜は半ば視覚不能に陥った馬車内で、慌てて後部の布を開け、煙を外に追い出した。


「大丈夫!?」


「あ、甘くておいしいです……」


 まだ錯乱しているのか、言うことが何処かおかしいホリーに、椎菜は煙が収まった饅頭を返した。

 ホリーの細心の注意を払いながらの二口目は、何の障害も煙も無く咀嚼された後、飲み込まれていった。

 どうやら、煙が出るのは初めの一口だけらしかった。

 椎菜もホリーも結構な量の煙を吸ってしまったが、体に悪い煙ではない、と思う。

 椎菜はこの饅頭を売りつけた商隊のおやじに憤った。こうなることを分かっていて、わざと自分に売ったに違いない。

 後ろに続く馬車から笑い声が聞こえてくるようだ。なんと腹立たしいことか。


「本当においしいですよ?これ」


 落ち着きを取り戻したホリーは、続けてもう一つ饅頭を齧った。

 仕切りの布を捲り上げて、顔を外に出しながら、馬車内に入れないよう煙を出しきって、きちんと席に戻って饅頭を頬張る。

 実に美味しそうに饅頭を食べるホリーをまじまじと眺める椎菜は、その口から今にも涎が垂れ出しそうなくらいに物欲しそうだ。


「遠慮しなくてもいいのに」


 隣に座るスティープスには、椎菜のそんな欲望丸出しの横顔がばっちり見えてしまうのも必然。

 我慢する椎菜の欲望を後押ししてあげようと、スティープスは饅頭を一つ、椎菜の口元にやるのだが。


「いらないってば……」


 椎菜は意地を張って、頑なに食べようとしない。

 椎菜の鼻腔をくすぐる菓子の匂いが香しい。


 ――――食べるものか。人のことを、大食らいだと思ってからに。


 元はスティープスの気持ちを量ってのことだったのに、これでは誰のために我慢しているのか分からない。


「あーん」


「止めてよ……、みんなが見てる……」


 口では嫌がりつつも、椎菜のその口が開いていくとあっては話にならず。

 スティープスに促されるまま、饅頭を頬張らせられる椎菜の姿を、ホリーが赤らんでじっと見つめているのがまた辛い。

 様々な羞恥に震えながらも、椎菜は饅頭を奥歯でしっかりと噛み込んだ。

 強く、ぐさりと、しっかりと。


「んん!!??」


 椎菜が饅頭から吹き出す煙に目を見開けば、喉に押し入ってきた煙に咽ながら、馬車の外に顔を飛び出させ。

 馬車内はまたも煙に満ち満ちて、今度は叫び声も満ち満ちて。


「ごめん、椎菜!忘れてた!」


「なんでまた中で食うんだよ!なんも見えねえよ!」


 椎菜は一しきり咽た後、ぐったりしつつ、何処からか聞こえる笑い声に目線を泳がせた。

 目線の先には、後ろに続く馬車たちの内、手前三台の御者が、揃って椎菜に馬鹿笑いと拍手を寄越していた。

 その内の一人は、この菓子を売りつけた、憎き例の中年男であった。


 ――――許さん。貴様ら。


 怒髪天を突き、もくもくと煙る馬車に揺られながら、椎菜は菓子を売りつけた中年と、菓子を食べさせた仮装執事の男に悪の念を送り続けた。

 怒りに燃える椎菜を乗せた馬車の前方では、次第に遠目に見えていた森が近づいて、馬車から力無く身を乗り出す椎菜の視界を覆う地面も、色を変え始めていく。

 椎菜は煙の出尽くした饅頭を怒りに任せ、噛み千切った。中身の餡が程よく甘く、おいしくて、椎菜は機嫌を直した。








 遠くに見える城の中。

 遠目には、黒く染まって見える城。

 近づけばたちまち、目の不調を疑ってしまいそうな程に灰色へと色が変わって見える、不思議と言うより、不気味と言う方がしっくりくる最果ての城。

 城の頂点である不気味に歪んだ尖塔と、波打つ潮の如くうねった屋根が、気味の悪さをより一層際立たせている。

 城内の一室。

 身が凍りつくかの静寂に満たされたその部屋には、玉座が一つ。幾何学模様が蔓延る部屋の中央に置かれた、美しくも何処かおぞましさを感じさせる意匠の椅子。

 嘆きに身を震わせ、孤独に座る玉座の主は、そこにいなかった。


「紫在……?」


 ディリージアは城の主の名を呟いた。相手に届かない声だと分かっていても、心に過る予感が、ディリージアに紫在の名を呼ばせた。

 ディリージアはシャンデリアに火を灯した。

 床に落ちたシャンデリア。役目を果たすことなく、天井にぶら下がっていたはずの。

 一つ一つ点けられていく蝋燭が、明るくなっていく部屋の、変わり果てた全貌をディリージアに見せつけた。

 部屋中が亀裂と破砕した瓦礫まみれで、以前の荘重で、静謐な姿は見る影もない。

 ディリージアは部屋の様子を探りながら、崩れた幾何学模様の上を歩く。所々に傷が付いた玉座に手を付いて、ここになき姫の所在を案じた。


 ――――俺のいない間に、紫在はここで何を想っていたんだろう。


 ディリージアの中に、ちくりと痛む何かが芽生えた。

 それは、かつて感じた感情だ。

 ディリージアは、夢の中で死を見届けた、友達だった少女のことを思い出す。

 苦しみに声を掠らせて、最後まで誰かを気にかけて目を閉じた。何よりも、誰よりも、大切だったホリーのことを。



「諦めても、いいんだよ」



 ふと、ディリージアは背後に気配を感じて、振り返った。

 確かに、声が聞こえて、背後に誰かがいたような気がしたのに。

 部屋の中には、ディリージア以外に誰もいない。

 静かな密室。

 扉も閉まったままで、穴だらけの壁と瓦礫が転がっているだけだ。

 ディリージアは小走りに扉へと歩み、焦りのままに扉を開き、その先にある広間を見渡した。

 やはり、誰の姿もない。

 気のせいであったと思えばそれまでのことだ。

 それまでの……、ことなのに。

 いよいよ得体の知れぬ不安が頭を埋め尽くして、ディリージアは。


「紫在!どこだ!!」


 何処かに姿を消した、守るべき少女の名を呼び、駆け出した。








 浅黄色の葉が暖かな風に揺られて、岩の狭間を流れる川に落ちていく。

 激しい流れの合間にできた、緩やかな水面に浮かぶ落ち葉は、黄色に朱に鮮やかに。

 上も下も、何処を見ても黄色と朱だ。

 木に生える葉も、地面を覆う落葉も。

 葉の形からして、椛や楓であるようだ。

 暗い空の色とは対照的な紅葉の明るい色は、ほんのり輝きを持っているようにさえ思われた。

 終わらない紅葉の渓流。

 その呼び名に相応しく、途切れぬ落葉と、勢いを伴い流れる清水が絢爛な名所。

 休憩がてら、紅葉の見物と、商売人が余分な商品を売買するため設営されたキャンプ地で、ホリーやスティープスにライオンも、その渓流の美しさを目に焼き付けていた。


「へぇ~、じゃあこれって、すごく珍しい物なんですね!」


「そう!今となっちゃここでしか手に入らない!お嬢ちゃんは綺麗だから、相応しい綺麗なイヤリングが必要だ!」


 他の面子が美麗な景色に心を奪われる間、椎菜は一人、とある商人の広げた風呂敷の前に座って、商品自慢を聞き続けていた。

 何故、椎菜がそんな情緒に欠いた行動に走ったかは、その商人が例の饅頭を売りつけた中年であることに訳がうかがえる。


「鮮やかなすいの宝石飾りが他にない魅力だね。これは翠香核すいこうかくって宝石でね、ほら、ちょっと嗅いでご覧。花のような香りがするだろう?これを付ければ、男共は独り占め。都会の子はみんな欲しがる逸品だ。城下町に行くなら、買っといて損はないよ!」


 商人に渡されたイヤリングからは、成程、庭園の風に運ばれて香る、咲き誇る花々を幻視させる、爽やかな香りが漂っていた。

 丁寧な装飾と商人の話通りの素晴らしい宝石に、椎菜は今、手の中にあるそのイヤリングの計り知れぬ価値を感じていた。


「すごい!いくらなんですか!?」


 上品な美しさを、誇らしげに携えた宝石を見る椎菜の目は、憧れに輝いて。目の前にイヤリングをかざして、眺めまわしている。

 商人は椎菜がそれなりに小金持ちなのを知っていた。先程、菓子を買って行った椎菜の財布には、歳不相応な数の万札が詰められていたのだ。

 つまり、ある程度の高価商品を売りつける恰好の的なのである。簡単に良い所を並べれば、易々と信じてしまう。まだ、物の価値を知らぬ若者。

 まんまと、ランケットで売れ残った煙饅頭を大量に売りつけてやった。今回もこの様子なら、流行が過ぎて在庫が一つ余ったイヤリングを、嬉々として買って行くことだろう。


「元々五万を超える値で売る物なんだけども……。この美しい景色とお嬢ちゃんに免じて、特別価格で!二万で売ろう!」


「いらないです」


 ばっさりと、切り捨てた。売り文句に耳を傾ける椎菜が微笑んだ時、商人がちょろいもんだと内心ほくそ笑んだその正面で、椎菜もまた、裏の顔では嘲笑っていたに違いない。

 微笑みの口元が動いて発せられた一言は、容赦のない拒絶であった。

 呆然とイヤリングを構える商人を背に、歩き去っていく椎菜の満面の笑みは、正しく美しいと形容するに値する清々しい物であった。


「椎菜さん、何処行ってたんですか?」


「んー、ちょっとね」


 スティープス等と合流して、椎菜も渓流の観賞に加わった。

 足下に敷かれた落ち葉は踏むと少々弾力があって、落ち葉に足を取られて滑ることもあり、走るには適していない。

 これほどまでの落葉ぶりに、枝葉の数も既に大分失われてしまっている筈だと見上げても、木々の枝には綺麗に色付いた葉が、所狭しと並んでいて。

 終わらない紅葉と言うのも、至極最もだと分からせられる。

 現実のどんな秘境でも、こんな色鮮やかな紅葉はそうは見られまい。

 川の流れに乗って、滝へと落ちていく紅葉もまた趣が深く。

 椎菜は弾ける水飛沫が空気に溶けていくのを眺めながら、休める小岩に腰掛けて、翌日の出発の時間まで、どう時間を潰すか考えることにした。

 輝きを持っているのかと錯覚するほど鮮やかな紅葉は、自身をはらりはらり切り離して宙に舞う。

 膝の上に落ちた葉を手に取って、椎菜は何かを思い出しかけた。

 記憶の欠片が頭の何処かに引っかかっている。思い出せそうで、思い出せない。


 ―――なんだろう。何か思い出せそうなのに、なかなか出てこない。銀杏に似てるこの葉っぱから、目を離せない。


 ――――銀杏?


 「ああ、そうか」と椎菜は思い出す。

 この前見た、昔の夢のことだ。

 銀杏と楓を間違えて、祖母に笑われた、あの記憶。


 ――――大切な思い出なのに、こうも思い出せないなんて。


 死去した祖母に申し訳なく思いながら、椎菜はもう一つ、思い出していた。

 それは、忘れようがない事実。

 罪の意識に蝕まれた記憶。箕楊椎菜が後悔し続ける、最大の間違い。

 あれは、高校受験の日。椎菜が受験を終えて、車で会場に迎えに来てくれた父は、暗い顔で。

 受験の恐怖から解放された椎菜は浮かれていて、なんで父がそんな顔をしているのか分からなくて。けれど、車に乗って、父の第一声を聞いて、椎菜は全てを悟った。


「椎菜……。お婆ちゃんがな……。ついさっき、息を引き取ったんだ……」


 椎菜は車の中で、その言葉をずっと、頭の中でぐるぐるとかき回していた。

 受け入れたくない気持ちがあって。椎菜は自分が、とんでもない過ちを犯してしまったことを認められないでいた。

 家に帰って、寝室へ行くと。そこには布団に寝かされて、白い布を顔に被せられている祖母がいて。

 枕元には、祖母が椎菜にくれた、お守りが置いてあって。


「お婆ちゃんな、ずっとこれを握ってたよ。最期まで、ずっと」


 そっと握った、祖母の手は冷たくて。

 椎菜は――――






「椎菜さん?」


 はっと、我に返った。記憶を漂っていた思考は目の前の渓流に移って、次第に、椎菜に呼びかけたホリーへと移った。


「大丈夫ですか?顔色、悪いですよ……?」


「あ……、ううん。大丈夫。平気」


 手に持ったままだった、銀杏らしき葉を地面に置いて。少し離れた所を歩いて行くスティープスたちを、「追いかけましょう」と言うホリーに、椎菜は付いて行った。


「椎菜さんのお父さんとお母さんって、どんな人でした?」


 滝壺を見下ろしながら、和気藹々と筆談で会話するスティープスとライオンを観察していた所へ、出し抜けにホリーが尋ねた。

 ホリーの問いは単純な物だったけど、椎菜はそれ故に、答え辛くて。


「どうって言われても……。普通の人、って言っちゃうのも、良くないか」


 そんなに給料が良くない会社員の父。

 近所のスーパーで、パートタイマーとして働いてる母。

 どちらも極普通の大人だ。特別な仕事をしているでもなく、おかしな性格をしているでもなく。


「普通だけど、優しくて立派な人たちかな。よく褒めてくれたし、よく叱ってくれた」


 途端、椎菜は目が潤んで。

 ホリーに見つからないように顔をあらぬ方へ向け、急いで涙を拭いた。

 気付かぬうちに、椎菜はできるだけ現実の家族や友達のことを、思い出さないようにしていたのかもしれない。

 思い出すと、どうしても、無性に会いたくなってしまうから。


「椎菜さんの両親ですもんね。いいな。私も会って見たかったです」


 何か言いたそうなホリーは、壮麗な景色を余所に、灰黒の空を見つめ続ける。

 椎菜はそんなホリーの寂しそうな横顔に、彼女の境遇を憂いた。

 ホリーの家族は、紫在の家族。

 紫在の分身と言えど、ホリーには記憶がない。


「私、家族のこと、何にも覚えてないんです。変、ですよね……。スティープスとディリージアのこと以外、何も思い出せなくて……」


「……」


「どんな人だったんだろ……、私のお父さんと、お母さん……」


 涙ぐむホリーの横顔に、椎菜は胸が締め付けられるのを感じた。

 幼いホリーが抱える辛さを想うと、椎菜の体が自然と動いて、ホリーを強く抱きしめる。


「ねえ、ホリー」


「え?え?なんですか?」


 慌てるホリーの耳元で、椎菜はそっと囁いた。


「不安なら、いくらでも私に頼ってくれていいからね?あなたが心細いなら、私が傍にいてあげる」


「椎菜さん……」


 ――――大好きなホリー。とても優しい、素直な子。


 椎菜の心を満たす感情が、ホリーへの言葉に変わっていく。


「あなたが辛いときは、いつだって私が力になるよ」


 そんな椎菜の言葉に、ホリーは恥ずかしそうで、けれど嬉しそうでもあり。

 椎菜の胸の温かさに安らぎながらも、ホリーは少し興奮気味に言った。


「椎菜さんって、本当にかっこよくて美人で……、すごいなって思います!」


「いや……、そんな……」


 照れて謙遜する椎菜も、ホリーにとっては、誰よりも素敵に思える憧れの存在であった。

 誰よりも美しく、強い心を持つ、人を助けることのできる力を持つ人なのだと。


「私……、私!ずっと信じてます!」


 ホリーは本気で、椎菜に心の底から憧れていた。


「椎菜さんなら、私がどんなことになっても絶対に助けに来てくれるって、信じてます!」


「どうしたの?何の話?」


 何時の間にか、スティープスとライオンが目の前にいた。

 椎菜は、何を言うべきか答えが見つからない所へ、スティープスたちが来てくれたことを有り難く思う自分が情けなかった。


「えっと、ホリーのね……」


「何でもない。それより、なんでライオンさんはそんなに濡れてるの?」


 椎菜が改めて見てみれば、本当にライオンが全身から水を滴らせていて。

 たてがみから尻尾の毛までぐっしょりと、水を吸った毛が、重たそうに垂れ下がっていた。

 大方予想はついていたが、とりあえず椎菜は尋ねた。


「なんで?」


「落ちた……」






 翌日。

 商隊の人が出発の時間だと呼びに来て、椎菜たちが荷馬車へと戻ると、いくつも広げられていた風呂敷はすっかりなくなっていた。

 また椎菜たちは空いた馬車へと乗せてもらい、各々が席へ座る。

 商品をいそいそと運ぶ人ごみを外れた木々の影で、商隊長と誰かが深刻な顔で、何やら相談しているのが椎菜には見えた。

 聞き耳を立てるにも少し遠く、悪い予感を身に受けながら、椎菜は馬車の仕切り布を下ろした。

 人目を避けて話し込む商隊長たちの足下には、巨大な生き物の物と思われる足跡が、紅葉が映える森の中へ深々と、点々と続いていた。








「この辺りにヴァン・ヴァラックがいるかもしれないとのことで。まあその、一応伝えとくようにと」


 ホリーが眠りについたのを見計らって、御者は椎菜とライオンに、商隊長から指示された通りに伝えた。

 椎菜の横で寝息を立てるホリーが恐がらないよう、御者の気遣いである。


「いくつかの馬車に見張り役を決めて、乗せています。もしあの怪物が見つかったら、うちの男衆で引き付けますんで。お客さん等は心配しないでください」


「嘘だろ……」


 ヴァン・ヴァラック。

 黒い巨体に、鋭い爪と剥かれた牙。

 実際にも、劇でも見た、御伽噺の怪物。

 何もかもを壊してしまう、この世界最悪の恐怖。


「僕が探してみようか?ヴァラックぐらい大きいなら、空からすぐに見つけられると思う」


「そうか……。うん。お願い」


 椎菜が後部の仕切り布を上げると、スティープスはそこから飛び立っていった。

 布を開けたまま椎菜は席に戻って、御者に尋ねた。


「ヴァン・ヴァラックって、どういう生き物なんですか?」


「ヴァラックはヴァラックですよ。恐いやつです。劇じゃあ人間に殺されたりしますがね、本物はそうはいきません」


 御者は辺りの森を真剣に見渡しながら答えた。何時、森の奥から怪物が飛び出してくるか気が気でないらしい。


「私、ランケットでその劇を見たんです。御伽噺にもなってるし、どれくらい昔からいるのかなって」


「んー、どうだったっけなぁ……。御伽噺自体はずっと昔からあったんですけどもねぇ。初めて実際に出たって聞いたのは七、八年前でしたか」


「御伽噺の怪物が……、実際に?」


「ええ。あん時はびっくりしましたぁ。世界の終わりだと、みんな本気で信じてましたから」


 椎菜は記憶を手繰る。

 劇は、最後に現れたヴァッケスという怪物が、世界を滅茶苦茶にしてしまう。そんな終わり方であった。


「ランケットの劇は有名ですが、今期のあれは今時の人間関係に当てはめてる割に、中々御伽噺に忠実に作られてますねぇ。ええ。よくできています」


「劇だと最後に別の怪物が出てきますよね?そっちは実際には出てこなかったんですか?」


 馬車隊の列は森の半ばへと差し掛かり、彼らの行く先に一本の橋が見えてきた。

 渓流に架かる橋。

 流れが速く、多数の巨石によって形作られた渓流を渡るために作られた、アーチ式の石橋である。


「出てきませんでしたねぇ。だから私らも、こうやって生きているわけなんで。ああでも、出てきたって言い張ってた人はいましたなぁ」


「みんなが見てないのにですか?山よりも大きい怪物なのに?」


「そうなんですよ。そんな怪物を誰も見逃す筈ないんです。まあ、見たって言う人が変わり者でして」


 先頭を走る馬車では、誰かが大声を上げていた。そこの御者は後方に向け、手を振ってはしゃいでいる風に見えた。


「聞いたことあるでしょう?ウッド・サイドのあたりに住んでた魔女ですよ。その人がねぇ、丘の上に白い渦が出ていたとか、それがヴァッケスに違いないって、しばらくうるさかったそうですよ」


 前方の馬車が、何かへし折れるような音を立て、車体が大きく揺れ動いた。

 そして。

 その馬車が、椎菜の視界から消えた。


「なん、なんだぁ!?」


 慌てて馬車を止めた御者の判断は正しかった。

 最前を走っていた馬車は、木々の影に潜んでいた“何か”に殴り飛ばされ、森の木にぶつかって潰れてしまった。

 その馬車から後方のいくつかの馬車馬は、飛び散る馬車の破片と轟音に怯え、恐怖に暴れ出した。

 制御の効かなくなった馬車たちは、木にぶつかり、川に落ちていってしまった。

 椎菜は音に驚いて起き上がったホリーを連れ、馬車を降りた。

 それに続き、御者とライオンも馬車から降りると、椎菜たちは馬車を完膚なきまでに破壊した、その“何か”を見た。


「出た……。出やがった……」


 知らぬ者がいるものか。

 それは恐怖。破滅の黒色。

 誰にも止めることのできない、最凶の獣。

 御伽噺のヴァン・ヴァラック。

 怪物は吠え猛る。

 何時かと同じく、椎菜に血走った真紅の瞳を向けながら。

 恐怖に意識を捕らわれたホリーを守るため、ホリーの手を握り、椎菜は森の中へと入ろうとする。

 けれど。

 血塗られた爪が、尖る怪物の腕が、振るわれて。

 椎菜を引き裂こうとした爪は、彼女の周りに現れた黒い花に受け止められた。

 漆黒の魔法。

 椎菜を守る誰かの願い。

 椎菜の意思に準じて、願いを果たす。

 例え、最凶の獣が相手であろうとも。

 ヴァン・ヴァラックは、突如現れた花に驚くこともなく、再び一撃を繰り出した。

 もう一度、もう一度、もう一度。

 花が歪む。

 花の形がひしゃげていき、次第に形すらも失って、黒い霧となり散っていく。

 椎菜は花びらを槍と変えてヴァラックを貫こうとするも、ヴァラックの素早い動きは、花にそんな猶予も与えない。

 ヴァラックの猛攻に、漆黒の魔法は耐え続ける。その形が崩れても、椎菜を守る。

 やがてm魔法の花は形を失くして、霧散した。

 そこに残ったのは、怯えるホリーと、ヴァラックを気丈に睨む椎菜の二人。


 ――――逃げ切れない。魔法ももう保てない。


 でもまだ、椎菜は不思議と絶望していなかった。

 なぜなら。

 まだ、椎菜には“彼”がいる。

 ヴァラックの牙が椎菜に向けてかざされた。

 今、本物の破滅が、椎菜の目前に、迫る――――


「離れろ!!」


 噛み砕かれんとする椎菜の前に、何処から持ってきたのか、細身の剣を振りかざした仮面の青年が立ち塞がった。

 椎菜とホリーを守るように、ヴァラックに向け剣を構えるスティープス。

 椎菜が危なくなれば、彼は何時だって助けに来てくれる。どんな怪物が相手でも、勇気あるぬいぐるみの男は立ち向かう。


「椎菜、怪我は!?」


「大丈夫……。うん、大丈夫!」


 椎菜はスティープスを信じている。どんな困難をも、彼とならば乗り越えられると信じている。

 仮面を被った、黒き執事の仮装の男。スティープスはヴァラックと対峙して、剣を構え、切りかかる。

 今は亡き騎士の、見よう見まねでスティープスが振るう剣は、怪物に僅かではあるが傷を与えた。

 しかし、これでは致命傷には成り得ない。

 ヴァラックにはスティープスの姿は見えていない。しかし、ヴァラックの鋭敏な五感は、目視できないスティープスの居場所を瞬時に捉える。

 スティープスは大きく剣を振りかざし、ヴァラックの眉間に振り下ろした。

 だが、剣はヴァラックに届くことなく、ヴァラックが一薙ぎした羊の角で、スティープスの手から弾き飛ばされた。


「くそっ!」


 ヴァラックがスティープスへと顎を開き、牙を突き刺そうと突進する。

 剣が弾かれた際、腕の痛みによろけたスティープスは、怪物の進撃を避けきれない。

 勇気あるスティープスが、ついに怪物の牙にかかる時。

 ヴァラックの頭が、地に叩きつけられた。

 上方からヴァラックの頭を蹴りつけ、スティープスの危機を救ったのは、彼と瓜二つの、白い執事の仮装の男。


「夢の中ですら、壊す気か。その力で、人の心も何もかも」


 ヴァラックが唸る。

 圧倒的な暴力と、威嚇する咆哮はあらゆる人の心を砕く。

 ディリージアには見えるのだ。猛る獣の存在そのものに、彼の大事な人たちを苦しめ続けた男の影が。


「やるぞ、スティープス。殺す気でな」


 夢の中、遠い昔に息を引き取った、とある少女の後悔を前に。白い彼が――――

 守るべき者を背に獣に立ち向かう。黒い彼が――――


「……、ああ!」


 決して超えられぬ壁を超えるため、偉大なる破滅の前に、彼らは集った。















12th tale   End

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ