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10th tale Fairy tale of Guilt

・ある少女の回想 六



 十二月の初旬のこと。

 その年、初めての雪が降った日。

 寒く、乾きと湿り気が混じり合う、季節の移りを感じたあの日。

 朝、教室に入った時点で、既に違和感があった。

 いつもと何かが違う。

 下駄箱にゴミも入れられていなかったし、机に落書きもされていない。黒板に私の悪口も書かれていない。

 何もない。

 台風の目のような、平和な日。

 今までもそんな日が無いわけではなかった。毎日毎日、何かしらの嫌がらせを受けてきたけれど、朝からたかがいたずらのために仕込みをするのは面倒だし、何より、みんなそこまで私に興味を持っていない。

 暇つぶしに私を囲む。憂さ晴らしに私を貶す。

 みんなそう。所詮、その程度の感覚しか持ち合わせていないんだ。

 がちゃがちゃとうるさく音が鳴る教室で、私は机に座り、開いた本を見つめる。

 今、この教室にいる人間の中に、誰か一人でも生きている価値のある者がいるんだろうか?

 人を虐めて生きているやつらと、それを遠目から見て笑ってるやつらと、虐めに参加しないから自分はまともだと思っているやつら。

 みんなみんな下らない。この先、生きていても録なことをしないだろう。こいつらはきっと、このまま成長して、大人になる。

 いい人のふりをして生活をして、大したことのない生きがいとか見つけて。今こうして苦しんでいる私のことを忘れて、都合よく解釈して。

 悪いことなんてしてません。したけど、反省しました。

 そんな適当な気持ちで、のうのうと生きていくんだ。将来、相応しくもない幸せを手に入れて。

 今苦しんでいる私を、無視するくせに。

 こんな腹立たしいことはない。この教室にいる私以外の全員が、今すぐ死んで然るべき。私は、何もしていないのに。

 何も、していない?

 違う。私は助けた。虐めを止めようと努力した。

 私は、ここにいる誰よりも幸せになる資格がある。私だけが、生きていく価値があるのに。

 なのに。


 どうしてこんなやつらが、まだへらへら生きてるの?



「哉沢さん、おはよー」


 来た。

 やっぱりいつも通り。いつものあの子。事あるごとに私に毒を吐く、校則違反のはずの、茶色く髪を染めた子。


「哉沢さん、今日放課後暇でしょー?私、今日日直なんだけどさー、放課後の掃除と日誌の返却、代わりにやっといてくれない?」


「……」


「いいよね?じゃあちゃんとやっといてね?言っとくけど、もしさぼったら哉沢さんのせいだから」


 普通はこんな無茶なことを頼めば、先生に叱られてしまう。

 けど、この子はクラスで一番人気がある。クラスの中心。

 だから、子供に好かれたい先生はこの子に依怙贔屓をしていた。

 結局、何も変わらない。また陰鬱な一日が始まる。

 茶髪の子は満足気にクラスメイトに挨拶をしながら、自分の机へ向かった。席について、前の席の友達に話しかけた。そばかすの目立つ、もう何時のことだったか、私が庇った女の子。その子が振り向いて、口を開いた時。


 私たちは、クラスに異変が起こっていたことを知った。



「坂井さんってさ、哉沢さんに冷たくない?」


「……、は?」


 教室中の空気が、ごっそり入れ替えられた気分だった。気持ちの悪い物から、更に気持ちの悪い物へ。


「最近坂井さん調子乗ってて、なんかうざいよ」


「坂井さんの髪って染めてるじゃん。もしかして、それ似合ってると思ってる?」


 どういう反応をすればいいのか、分からなかった。

 今まで、散々私を貶めてきた取り巻きの子たちまで、坂井さんを責め始めて。

 確かに気持ちの悪さを感じたけれど、これは。私にとって悪い状況ではない。そう思って、私は。


「坂井さんに絡まれて哉沢さんかわいそー。日直の仕事なんだから、自分でやれよ」


「その髪の色気持ち悪いんだけど。全部刈ってあげよっか?」


 誰かが言い放った提案に、坂井さんはぎくりと身を縮ませて、所在なさそうに、席に座ったまま顔を伏せた。

 私の席からでも、その唇が小刻みに震えているのが分かる。次第に唇の動きは大きくなって、伏せた顔から涙がこぼれ始めた。


「哉沢さん」


 背後から呼びかけられ、私は振り向いた。

 するとそこには、そばかすのあの子が、崎山さんがいて。

 今思えば、あんなに気持ちの悪い笑顔は見たことがなかったように思う。クラス中、みんなが笑っていた。

 みんな。そう、みんな。

 私も、笑っていた。

 そして。


「哉沢さんの家に、バリカンってある?」


 私は、自分の中に残っていた“何か”を捨てた。


「多分……、あるよ。うん」


 感じていた気持ち悪さに、私は背中から浸かっていく。

 とてつもない背徳感だった。

 あれほどの気持ち良さを、私は生まれてこの方感じたことがなくて。

 顔がにやけるのを隠しきれなかった。

 楽しくて、楽しくて、仕様がなかった。



「明日、持ってくる」








10th tale Fairy tale of Guilt








「随分、長いこと祈っていたようですね」


 黙祷を終え、合わせた両手を離した椎菜に、老人が話しかけた。

 騎士に助けられた例の老人だ。老人の体には、あちこちに手当てしきれなかった、痛々しい生傷が見えている。


「ええ……、はい」


 騎士の亡骸を棺に入れて、埋葬した簡素な墓が一つ、名も無き村の一角に作られていた。御影石に似た平たい墓石が置かれ、碑銘は刻まれていない。

 村の怪我人の手当と、村人たちの避難の準備が一段落した所で、老人が騎士の墓を作ると言い出して、余り物の墓石を工面してもらい作ったものだ。

 急ごしらえではあったが、それなりに墓としての体裁は備わっている。

 椎菜も騎士の墓を作ることに賛成し、こうしてできた騎士の墓に、花と彼の物だった剣を供え、祈っていたのだった。

 助けてくれたことにお礼を。

 死んでしまったことに哀憐を。

 姫に手を伸ばした勇気に、賛辞を。

 ただ、椎菜が祈っていたのは、騎士のためだけではなかった。

 椎菜が三十分近く墓の前に立っていたのは、もう一人の故人に対しても、祈りを捧げていたからである。


「騎士の人と一緒に……、もう一人、お祈りしたかった人がいたんです」


「……。差し出がましい様ですが、どなたかお聞きしても?」


 何と説明したものか。

 椎菜はあの魔女が方々で悪い噂になっているのは知っていた。

 この老人は魔女についてどう思っているのだろう。騎士のために作った墓に、気に入らない者への想いを捧げられたとあっては、良い気分ではないはずだ。

 どうしようか悩んだ末、椎菜は正直に話すことに決めた。


「私に優しくしてくれた、魔女のお婆さんです。その……、噂はお聞きしたことがあると思うんですけど……」


 魔女という言葉を聞いた時、一瞬老人は表情を険しくさせたが、椎菜の心情を察したらしく。


「城下町で、騎士様と同じ様に殺されてしまったと聞きました。そうですか……。あなたはあの魔女に……」


「すみません。勝手に……」


「いいえ、構いません。けれど、あなたはどうやら特別な定めをお持ちらしい」


 空を仰いだ老人の目が眩しそうに細められた。まるで、灰黒の空に隠された、何処かに確かにあるはずの太陽を見ているかのようだった。


「私は心配だ。あなたがいつか、あなた自身の優しさに押し潰されてしまわないかと」


 哀れみとも取れた。悲しみとも取れた。椎菜を見つめる老人の瞳には、一言では言い表せない感情が宿っていた。


「椎菜――――」


 一瞬、椎菜は懐かしい声が聞こえたような気がして。

 その声は、自分の中に呼び起こされた記憶であることに気が付いて。

 椎菜は、思い出してしまった。

 布団に横たわる祖母の姿。

 高校受験の日。祖母が死んでしまった日のことを。

 受験会場へ向かう前、家を出ようとする直前の光景を。

 椎菜は頭に手を当て、考えないよう努めた。


 ――――今は、駄目。これ以上思い出すのは、良くない。ヴァン・ヴァラックの危険が迫っているというのに、思い出に引きずられていては、他の人たちに迷惑がかかってしまう。


 ――――ごめんなさい。


 心の中で、そう謝って。椎菜は思い出を心の奥底へと、沈めていった。


「さて」


 椎菜が頭を悩ませていると、老人は避難準備を終わらせた村人たちの集まる場所へと歩き出した。


「さあ、私たちもそろそろ行きましょう。ヴァン・ヴァラックがこの村を見つける前に、急いでここを離れなくてはいけません」








「あ、椎菜さん!」


 村人たちの集まる中に、避難するための馬車が何台も用意されていた。

 どの馬車にも荷物が積まれ、村人たちが右往左往。あと、もう少しで出発できる、と言った所だろうか。

 慌てた様子で椎菜を迎えたホリーは出発準備を手伝っていたのか、両手に大きな麻袋を提げていた。


「大変なんです!早く!早く来て!!」


「え、なになに?」


 とりあえず、その袋を置いたらどうかと椎菜が言う暇も無く、速足で見知らぬ民家に入っていくホリーに椎菜は連れて行かれた。


「おお、来た来た」


 すると、そこには今まで姿を見せなかったライオンがいた。

 床に敷かれた、くすんだ色の綿布団に寝そべって、黒みがかったたてがみ越しに、皮膚をかゆそうに後ろ足で掻いていた。

 ライオンは背中に傷を負っているらしく、背中から腹部にかけて何重にも包帯が巻かれ、痛々しさを感じさせる。


「どうしたの、その怪我?!」


 ライオンは平気そうにしているが、包帯に滲んだ血を見る限り、尋常な傷ではない。ライオンの傍に腰掛け、心配そうにライオンを見やるホリーと同じく、椎菜も彼の様態を案じずにはいられなくて。


「たまたまヴァン・ヴァラックに出くわしてなぁ。おかげで追いつくのに時間がかかった……。なんとかここまで来てさ、村の人が手当してくれたんだ」


 ライオンはやれやれといった様子で尻尾を振り、ホリーの顔を尾先の毛房でくすぐった。毛が鼻に入ったのか、ホリーは思い切りくしゃみをして、尻尾を邪魔そうに振り払う。


「動いても大丈夫なの?これから移動しなきゃいけないのに……」


「なんか、馬車に乗っけてくれるらしいから、大丈夫だろ」


 自分の安否に関わることなのに、適当な返事であった。呆れながらも、椎菜はライオンが生きていたことに安堵する。


「怪我してるのに悪いけど、やっぱりよかった……。どこ行っちゃったのかと思ったよ」


「こっちの台詞だ。本気でお前たちが殺されたのかと思ったぞ」


 お互いに笑い合って、椎菜はまたライオンに会えたことに心底喜んだ。

 その横で、ホリーは会話に混ざれず、暇そうにライオンの尻尾の毛を三つ編みに結っていた。


「なんか食べる物持ってきてあげよっか?お腹空いてるんじゃない?」


「今はいいや。それよりさっさと馬車に乗せて欲しいね。このまま忘れて置いてかれそうな予感がビンビンするんだけど」


「はいはい。じゃあ誰か運ぶの手伝ってくれる人探してくるから、ちょっと待っててね。ホリー、行こう」


 三つ編みだらけになった尻尾を手放して、ホリーが返事をしつつ、ついてきた。ライオンはその尻尾を苦々しく見つめ、諦めたようにそのまま体をだらけさせ、寝転んだ。






 村のはずれ。赤褐色の幹が高く伸び、広がる葉は針じみて尖り、景色を埋める。

 そんな樹の下で二人の男、スティープスとディリージアは何やら話し合っていた。


「スティープス。そろそろ、お前たちには全部話すべきなのかもしれないな」


「話してくれるってこと?君の知っていること、全部」


「まあな……。気が変わったよ」


 ディリージアが思うのは、殺されてしまった魔女と騎士だ。

 その二人を見ていて、ディリージアの心持ちは少しずつだが変わってきていた。今も、村でせっせと避難の準備を手伝う椎菜が彼女たちを変えたのだ。

 遠からず、破滅してしまうとしか思えなかった魔女と騎士。

 結果としては、どちらも死んでしまったのだが。しかし、どうだろう。ディリージアには、彼女たちはただ死んでしまった訳ではないと感じられた。

 無残な最期であったにも関わらず、どうしてか。

 二人は大事な何かを取り戻したのだと、何か幸せにも似た感情を持って死んでいったのだと。ディリージアはそう思わずにはいられなかった。

 そして、ディリージアは望む。遥か彼方で未だ独り、この世界に在る彼女にも、同じことを。

 夢の中でくらい好きにさせてやればいいと、そう思っていた。けれど、もしかしたら、彼女も。


 ――――あんな風になってしまった姫だって、優しかったあの頃に戻ってくれるのかも。


 いつの間にか、ディリージアの中に淡い希望が生まれた。一度は諦めた、露と消えたはずの望みが、再び彼を突き動かす。


「それよりも、お前は椎菜に話してもいいのか?俺たちのことを」


 ディリージアが気になることがもう一つ。

 スティープスは椎菜に自身の秘密を曝すだろう。スティープスは、その行為の意味をどう取っているのか。

 ディリージアは最悪の結果を予想する。それはすなわち。


「……。そのことなんだけどね……」


 椎菜とスティープスの、今の関係が破綻してしまうのだろうということで。


「二人で話す時間をくれないかな?椎菜には、僕からちゃんと話したいんだ」


「好きにしろ。気が済むように話して来ればいい」


 折角生まれたスティープスの気持ちが無駄になってしまうであろうことが、ディリージアには辛かった。いずれはぶつかる問題であると分かっていても、どうすることもできない自分が歯痒い。


「それにしても、変な感じだな」


「何がだ」


「こうやって、君と面と向かって話してるのがさ」


 二人にとって、こうして景色のある場所で語らうのは初めてのことであった。

 彼等が顔を合わせるときは、いつだって一切の灯りがなく、体から離れた意識のみがたゆたうこの世ならざる場所でのことで。

 事実、スティープスにはディリージアとの身振り手振りや、佇まいを使った会話は慣れないものがあった。スティープスはディリージアの人柄に横暴な所があるとは常思っていたが、こうして目の前で見てみると、ディリージアの仕草には、彼の不遜な腹構えが嫌と言う程受け取れる。

 とは言っても、スティープスにはディリージアとの会話は至極楽しい。普段は、相手も自分も目に見えるリアクションを取ることができないわけで。

 話の内容は重要なことでも、スティープスはやはり楽しさを感じずにはいられない。


「そんなことで喜んでるのか。子供だな、お前は」


 むっとした。

 小馬鹿にした言葉が、スティープスを憤怒させる。ディリージアとしてはちょっとした冗談のつもりだったのだが。割とディリージアと対等なつもりでいたスティープスには、少々心外だったらしい。


「子供って!君だって僕と大差ないじゃないか!」


「いいや違うね。全然違う」


「どこが!」


「そうやってむきになってるとこがだよ」


「馬鹿にされたら誰だって怒るだろう!?そんなことも分からない君が子供だよ!」


「いやいや。年齢的にも客観的に見てもお前のがガキだね。誰に聞いてもそう言うよ」


「じゃあ、椎菜に聞いてみよう!」


「いや、駄目だ。あの女は絶対にお前を贔屓する」


「……」


「……」


「“ひいき”って何?」


「お前に甘いってことだよ。馬鹿」


 そう言うディリージアの煽り方も、大層子供じみているのだけれど。指摘する者のいない今、そんな仕様もない言葉もスティープスには突き刺さる。


「これは僕も……、怒っておかないといけないな!」


「ははっ。全然恐くない。ほんとに怒ってるのか?」


 その後も、二人は椎菜が出発の時間であることを伝えにくるまで、延々と言い合いを続けていて。

 彼等の稚気に富んだ言葉の応酬に、傍見者の椎菜には、双方共に子供であるようにしか思えず。言葉失くして、呆れ返る他ないのであった。






 何処か遠く。遥か遠い何処かで、お姫様はたったの独り。

 玉座について、虚ろに視線を漂わせ、何処を見るでも、何かを思うでもなく。ぴくりとも動かないお姫様は、人形と見紛う程無機質に。


「私は……」


 姫はそっと手を伸ばした。

 いつか、この部屋で自分と一緒にいた、見えない誰かが取ってくれたその右手。

 姫はその感触を今でも覚えている。


 ――――嬉しかった。温かかった。


「私は、どこに行けばいいの……?」


 でも、今は。

 伸ばした手はただ、冷たい部屋の空気に虚しく揺れて。


「何処にも、行っちゃいけないの……?」


 これは彼女の罰だった。彼女の罪がもたらした、巡り巡った結果の連鎖の果て。

 姫は誰も認めなかった。姫は誰も許さなかった。

 だから、姫は独りになった。

 彼女のいる城の外では、雪がしんしんと降り積もって。大勢の人がその雪を踏みならして歩いて行く。

 それぞれ、自分のいるべき場所へ。誰かと一緒に、誰かに会いに。

 城の尖塔外壁に薄っすらと見える赤い色が、雪に隠されても尚、毒々しく、気味の悪い空気を城に纏わせていた。







「椎菜、起きて。着いたよ」


 荒い道を行く馬車の揺れの中、いつの間にか眠ってしまっていた椎菜は、スティープスの声に目を覚ます。

 椎菜の肩に頭を持たせかけて、同じく眠っていたホリーも起きたようだった。

 丸一日近くの時間を、椎菜たちは馬車で移動し続けていた。

 御者に礼を言って椎菜が馬車から降りると、目が回ってしまいそうな程の人の数。岩を掘り削って作られた建物に、中東の民族模様にも見える色の深い編み物や飾りが、所狭しと付けられて。

 一目ですこぶる賑やかな町であることが分かった。

 黄色い街だ。もし、空が一面の青を携えていたのなら、この街並みはもっと鮮やかに浮かび上がったことだろう。

 舗装されていない地面は、歩く人の後に小さく砂埃を上げる。

 村の人たちは既に皆、馬車から降りて、この街の何処かへと各々の荷物を運んでいるようだ。

 そんな村の人たちを見て、何か手伝うことはないかと椎菜が思っていた所に、例の老人がやってきた。


「皆が向かう方に、仮設の宿泊所がありますよ。どうでしょう?よろしければ、私たちといきませんか」


「いえ、私たちは大丈夫です。ここまで一緒に連れてきてもらっちゃって……。ありがとうございました」


「気にすることはありません。騎士様同様、あなた方も私たちの恩人です」


 騎士の名を出した老人の穏やかな声に、いくらか寂しさが混じっていて。

 それを聞いた椎菜には、あの騎士が生きた意味は確かに残っているのだと、思えて。椎菜はほっとした心地になった。


「あなたがたのおかげで、なんとか逃げてこられました。改めてお礼を言わせてもらいます。ありがとうございました」


「いえ、そんな……。私たちのおかげなんかじゃありません……」


 老人はやんわりと笑った。明るく、目まぐるしい喧騒の中で、椎菜にはその笑顔だけがやけに浮いているように思えた。


「あなたの未来に、幸せがありますよう。それでは」


「あ、ありがとうございました」


 老人が人波の中に去っていく。

 徐々に見えなくなっていく老人の背中を見送ってから、椎菜は白黒混じりの空を見上げた。

 気が滅入ってしまう空の色。薄っすらと輝く光は見えど、この世界に本当に青空があるのか椎菜は知らない。

 現実の青い空を思い出しそうになって、椎菜はすぐに人ごみへと目線を戻した。


“未来に、幸せがありますよう”


「おじいさんはなんて?」


「お別れの挨拶。あと、またお礼言ってたよ」


 スティープスたちの下へと戻り、宿を探す道を行く椎菜の心に、老人の言葉が妙に引っかかていた。






 ディリージアとホリーが宿から出てくるのを待っている間、椎菜はスティープスと宿の前で、人の流れをぼぅっと眺める。

 街中の華やかな飾り付けのせいだろうか。誰も彼もが浮かれているように見える。宿の受付人に聞いたところでは、近くに繁華街があるらしい。この弾んだ空気はそのせいなのかもしれない。


「ライオン君はどうしたの?」


 横切る人々を眺めるのにも椎菜は飽きて、スティープスに質問してみた。恐らく、街の外で馬車から降りたのだろうとは思ったが。


「街の外で待ってるって。あんな怪我してるから、心配だけどね」


 椎菜の予想通りであった。一声掛けて行けば良い物を、椎菜たちに気を遣い、手負いの獅子は静かに馬車を降りたのである。


「傷口、開いたりしたら大変だよね……。ちょくちょく様子見に行ってあげようか」


「この街は警備も緩いみたいだし、ちょっとぐらい街に入ってきても大丈夫かもしれないな」


「あはは。夜に街の中散歩したら喜ぶかな?ホリーは眠いかもしれないけど」


「どうかしました?」


 軋む音を響かせながら、木製である宿の扉を開けてホリーが出てきた。

 ディリ―ジアもその後に続いて宿から出てきた。扉を開けることもなく、閉まった扉を幽霊然と通り抜けながら。

 椎菜はホリーに答えた。


「ライオン君をね――――」


「俺とホリーは、今からそのライオンの所に行ってくる。お前たちは適当に時間を潰してろ」


「……、は?」


 椎菜はディリージアの強引な横槍に面食らう。

 乾いた風に、僅かに溶け出でる椎菜の怒りの気配を、スティープスとホリーは確かに感じた。椎菜の顔の筋肉が、ひくひくと怒りに震えていた。


 ――――それ、そんなに大事なこと?


「ホリー、行くぞ」


「う、うん……」


 驚きと怒りを顔に併せ持ち、言葉を探す椎菜を気の毒そうに見つめながら、ホリーはディリージアについて行った。


「僕らも行こうか、椎菜」


 離れていく二人の背中を無言で目で追っている椎菜の手を、スティープスは柔らかく握って。


「いろんなお店があるって言ってたよね。どうせだから、見に行かない?」


「え?あ、ああ……。うん」


 手袋越しに伝わるスティープスの指の感触に、あっという間に椎菜の頭からは、ディリージアの粗暴ぶりが綺麗に消え去っていった。







 ――――何これ。何これ?


 私とスティープスは、雑踏から少し離れて、建物沿いに街を歩く。

 この街には人だけではなく、ワニやら犬やらが堂々と道の真ん中を歩いている。

 視界の悪い人混みの中では、足下に注意しないとうっかり蹴り飛ばしてしまいそう。

 それにしても、こうも当然な顔で、動物が人に混じって街を行くのは見ていて面白い。

 傍目で見ていても、乾いた空気に響く賑やかな音が心地よい。

 傍目。そう、傍目で。

 他の人には姿の見えないスティープスは、雑踏の中に入っていけない。もし入れば、すぐに騒ぎになってしまうだろうから。

 だからこうして、スティープスが私の横を自然に歩ける、人の少ない裏道や、並ぶお店の軒下に入りながら街を見て回る。

 裏道は危ない気もするけれど、大丈夫。スティープスが守ってくれる。

 細身でひ弱な印象の割に、スティープスは意外と喧嘩とか、強くて。実際、今まで何度も危険から守ってもらってきた。


 ――――ああ、違う。そうじゃなくて。今、この状況。


 あれよあれよという間に二人になって、気付けばもう、話に聞いた繁華街。

 はぐれないようにと手を握られて、スティープスと並んで。


 ――――これじゃあ、これは。これって、なんだか。


 ――――デートみたい。


 繋いだ手が、急に気になり始めた。スティープスは私の手を、強過ぎず、けど離さないくらいの力で握ってくる。

 握り返す指から伝わる彼の手の温かさが、そのまま私の頭に上ってくるようで。

 異常に高まる鼓動が恐い。こんなに自分の心臓の音が大きく聞こえたことなんてない。

 もう、もう。

 恥ずかしくて、死んでしまいそうだ。


「足は大丈夫?痛くない?」


「あ、うん。もう全然、平気かな……」


「うん。ならいいんだ。一杯お店出てるね。椎菜はどんなとこが見たい?」


 スティープスが振る会話にも上手く対応できない。

 そもそも、私は周りを見ていなかったから、どんな店があったのかすら分からない。数ある露店の中には、当然食品を扱っているものもたくさんあって、私は往来に漂う香しさを今更ながらに嗅ぎ取った。


「うーん……。本屋さんとか?あとは……。あ、小物とか見たいかも」


「食べ物はいいの?」


「は?」


 それは……、どういう意味?


「美味しそうなものとかもたくさんあるよ?」


「まあ、そうだけど……。なんで食べ物なわけ?」


 どうしてわざわざ強調したのか。聞かせてもらいましょう。

 言ってみろ。


「なんとなくそういうイメージが……」


「ははぁ?」


「痛たたたたた!」


 カウント一。三までいったら、この指の爪をもっと深く突き立ててやろう。

 時間はまだまだあるんだし。あなたのことだから、きっと大変なことになっちゃうかもしれないね。


「ごめん!ごめんごめん!許して!」


 ね?スティープス。







「あ、あのお店見たい。行こ?」


 椎菜の指差すのは、上品な看板を提げた雑貨屋。

 装飾品が陳列されたショーウインドウから、店内を覗くことができる。綺麗なものから、かわいらしいものまでを取りそろえた若者向けの店だ。

 いつの間にか、手を引くのは椎菜になって、余り態度には出さないものの、内心はしゃぐ椎菜にスティープスが引きずられる格好で。


「あそこは何を売ってる所?」


 騒がしい繁華街は二人の会話を掻き消してくれる。そのおかげで、誰も一人で話しているように見える椎菜を不審に思わない。

 もし、怪しく思われたなら。

 その時は、その時だ。椎菜はそんな覚悟を決めていた。


「アクセサリーとか置物とか、多分、他にもいろいろ置いてあるよ」


「へぇ……」


「?」


 何やらスティープスの様子がおかしい。店の入り口で、スティープスの足取りが露骨に重くなった。


「どうしたの?」


「なんだろうな……。ちょっと緊張するっていうか……」


 椎菜には、スティープスの感覚に覚えがあった。

 垢抜けた人が来るような、お洒落な店に初めて入るときの、場違い感というか、負い目というか。

 ここはそこまで立派な店でもないと椎菜は思うのだが、スティープスは要するに気後れしているのだ。


「入ってみればすぐに慣れるから大丈夫。ね?」


「そうかな……。じゃあ……」


 椎菜に促されて店に入って、スティープスがまず感じたのは独特な匂い。頭がくらくらしそうな、強い匂い。スティープスは落ち着かない心地で視線が硬くなってしまう。

 どう振る舞ってよいものか、何を見ていればよいものか。


「ほらほら、スティープス。こんなのもあるよ」


 椎菜が見せたのは男物のペンダント。細い鎖に繋がれた銀細工に小ぶりの赤い石があしらわれた、安物だけれど見目の良いデザインだ。


「えっ!ちょっ!他の人に聞かれちゃうって!また変な人に間違われるよ!」


「……」


 慌てるスティープスに、椎菜は少し思考を巡らせて。思い至った風にスティープスに目をやって。椎菜は彼の首に無理矢理、ペンダントをかけた。


「……っ」


「んー……。こっちの方がいいかも」


「椎菜……?」


 椎菜は困惑するスティープスの首からペンダントを外し、別の物をスティープスにまた付けて。半歩下がって、困っている彼の全体とペンダントを面白そうに眺めながら。


「やっぱり赤かな」


 椎菜は更に別のペンダントをスティープスに付け直して、満足気に言った。


「似合ってる似合ってる!どうしよう?買っちゃおっか?」


「え、えっ。だから誰かに聞かれたら……!」


「聞かれたら?」


「え……」


「私は全然気にしない。あなたは?」


「僕はいいけど……、でも君が……」


「じゃあ問題ない。ほら、鏡見てみて」


 椎菜は近くにあった、等身大の鏡の前にスティープスを押し込むように立たせた。鏡に映ったスティープスの姿も、椎菜には見えている。


「どう?」


「どうって言われても……」


 鏡の中のスティープスが他の人にはどう見えるのか、少し椎菜は気になった。ペンダントが浮かんで見えるのか、それとも彼が身に着けた物は全て見えなくなってしまうのか。

 椎菜は見回して、他の客を探した。

 幸か不幸か、他の客は見当たらなかったが、店員が何度か驚いて顔を覗かせた。椎菜がどういうつもりなのか、流石のスティープスにも分かり始めて。

 明るく接し続けてくれる椎菜の甲斐あって、スティープスも大分、店の空気に慣れてきていた。


「……、似合うかな?」


「かっこいいよ。自分的にはどう思う?」


「どうなんだろう。うーん……、難しいな」


 スティープスの声から固さが抜けたことが、椎菜に伝わってくる。

 椎菜の顔が綻んだ。

 椎菜としては、スティープスにも楽しんでもらいたかったから。


「でも、買って帰る訳にはいかないかな。残念だけど。君以外の人が見たらびっくりするよ。これが何もないとこに浮いてるわけだから」


「そっか……」


 残念そうに俯いた椎菜に申し訳なさを感じたスティープスは、つい聞いてしまった。


「椎菜は何か欲しいの無いの?」


 この一言がきっかけとなり、椎菜により一時間近く、店内の商品の物色が行われることになる。

 椎菜が持つ不思議な財布はいくらでも金を吐き出してくれるのだが、椎菜曰く、無思慮な金遣いは身を滅ぼす種なのだとか。

 椎菜は必要以上に財布から金を出すのを嫌った。店内を行ったり来たりしながら、椎菜が目ぼしい物を見つける度に、スティープスは椎菜に感想を聞かれた。

 ついでに、スティープスは女性の買い物は基本的に長引くものであると知らなかったのである。

 己の無知故に、スティープスは何度も同じ場所を行ったり来たりさせられる、拷問に近い時間を過ごすこととなった。


「これはどう?」


「似合ってるんじゃないかな……」


 最早、店の空気に慣れるどころではない。店員の訝しんだ目つきも意に介さず、商品を漁り続けた椎菜は半ば開き直って。

 スティープスは終わることのない買い物の無間地獄に突き落とされた心地で。


「君が付ければなんでも似合うよ」


 恥ずかしさが邪魔をして言えなかった一言も、思わずこぼれてしまう心労たるや。しかし、その一言が案外効くものであって。


「……、そう?じゃあ、これにする」


 時間をかけた割に、決めるときは余りにあっさりと。椎菜は嬉しそうに紫水晶のペンダントを持って、店員の下へと向かった。







 服飾店と喫茶店の間に、他の店と同じように繁華街にありながら、繁華街の華やかさから切り離された静けさを持つ本屋があった。

 椎菜はその本屋に目を奪われ、スティープスは「入ってみる?」と問いかけた。椎菜は「うん」と返事をして、二人は本屋の扉を開けた。

 外から聞こえてくる小さな音だけが響く、静かな場所だった。

 円形の店内は、一つの環状の棚によって区切られて、円の中に円を置いた形になっていた。

 外側の円には店の入り口が。内側の円には、そのさらに内側に入るための隙間があって、その隙間から見える店の中心の空間には、本の積まれた机が置いてあり、店主であろう背中の丸い老人が座っている。


「変わった形のお店……」


 店主から見えるのは、内円の内側とその隙間から覗ける範囲だけ。不用心この上ない造りの店だった。


「“本”っていろいろあるんだね」


 スティープスは店一面に並べられた本に興味津々の御様子。しかし、その口振りはまるで、本という存在すら知らなかったとでも言うようで。


「椎菜はどんな本が好きなの?」


「よく読むのは……、うーん。やっぱり小説とか。お話を読むのが好き。あと、あんまり暗い話は好きじゃないかな」


 俗に言うバッドエンドを、椎菜は好まなかった。読み終わった後に気持ちが沈むことも、登場人物たちが苦しむ様を想像するのも辛かった。

 締め付けられるような胸の痛みが、遠い後悔を思い出させるのも、椎菜は嫌だった。 


「しばらく読んでないなぁ。この世界の本って変なのばっかりだから……。それに、ゆっくり読んでるような時間もなかったし」


「そうだね……、どうせだから、何かいいのがないか探してみようか」


 棚に並ぶ背表紙を、二人は適当に眺めていく。


“子供のしつけとダンゴムシ”。

“石の転がり方の研究”。

“いない人といらない人”。


 日本語とかけ離れた字体で書かれた文字も椎菜はとうに見慣れて。こんな落書きじみた記号の羅列を、自分が苦も無く読むことができることに何の疑問も抱かなくなっていた。

 置かれた本のジャンルもばらばらで、意味不明なタイトルの本ばかり。

 外円の棚を半分も見ないうちに、これ以上探す必要はないと椎菜は悟った。


「これとかは?」


 スティープスの差し出した本の表紙にでかでかと書かれた文字は、“友達のできる薬の作り方”。

 椎菜はそう読めるミミズ文字に絶句した。

 スティープスは適当に取っただけだと椎菜にも分かっていたが、もし他意があるのならばカウントを一つ積むことも止む無しである。

 椎菜は無言でその本を棚に戻して、話を変えることに。


「スティープスは本とか読む?」


 椎菜が想像したのは、スティープスが本を読む姿。

 男性ならば漫画の方が好きかもしれないが、椎菜としては、やはり小説がスティープスには似合うだろう、と想像力を働かせた。

 窓辺に座って、紅茶なんぞを淹れながら、落ち着いた色合いの服を着て。夢の世界では、何故かいつでも執事服を着ているが、だからこそスティープスの普段着にも椎菜は好奇心が湧いてくる。


「……」


 本屋の静けさが急に戻ってきて、静寂の中にぽつんと取り残されてしまったかの不安が椎菜の胸に訪れた。

 数秒にも満たない間であったのに、椎菜には、とてつもなくその間が恐くて。


「読んだこと……、ないんだ。紫在が読んでた本を横から見てたことならあるけど」


 スティープスの答えは常識的に考えれば有り得ない物であったけど、椎菜は自然とそれを受け入れた。


「やっぱり、変かな?」


 ――――スティープスは、今、何を悩んでいたんだろう。


 椎菜はそれが分かりそうで、分かりたくなくて。


「……、珍しいとは思うけど。本当に、一冊も読んだことないの?教科書とかは数えないとしても、雑誌くらいは……」


「本当に、何も読んだことないんだ。教科書も、雑誌も」


 スティープスの様子がいつもと違う気がした。

 いつもよりもずっと、自分のことを伝えようとしている。話したがらなかったスティープスのプライベートが、今こうして、彼自身の口から語られるのは恐らく初めてのことではなかったか。

 夢の中で、ずっとスティープスと共に過ごしてきた椎菜は察したようだった。

 どうしてあんなに強引に、ディリージアが椎菜とスティープスを二人だけにしたのか。スティープスがどんな決意を持って、あの時椎菜の手を取ったのか。


「確かに、変かもね」


 それを聞いて、スティープスが落胆するのが、椎菜には分かった。

 椎菜の言葉がスティープスに重くのしかかっているのが分かる。


「でも、スティープスのそういう変わってる所、私は好き」


 スティープスは驚いた様子で椎菜に仮面を向けた。

 スティープスは椎菜に嫌われてしまったと思っていたのだろう。そこに、“好き”と言われれば、誰だってこうなるというものだ。


「世の中にはいろんな人がいるって言うし。本を読んだことない人だって、いるのかもね」


 スティープスにとって、この話をするのは勇気のいることだったに違いない。スティープスが曝した秘密に、椎菜は彼の強い決意を感じ取っていた。

 だから椎菜は、スティープスの背中を押す。

 いつも、スティープスが椎菜にそうするように。


「あなたが変わった人だなんて、初めから分かってたよ。驚かされるのだって、慣れてます」


 冗談めかした椎菜の反応は、スティープスを深く安心させた。


「君は本当に……、優しいんだね。椎菜」


 外から聞こえる賑やかな声が、本屋の空気に染み渡る。

 二人は互いに寄り添い、再び本棚に目を戻した。

 店の中にも関わらず手を繋ぐ。慈しんで、優しく。けれど、離れないようにしっかりと。

 そんな所へ、棚の隙間から顔を出した店主がぼそりと言った。


「変なのはあんただよ」








 その後も、椎菜たちは賑やかな街を歩き回った。

 なんとなしに立ち寄った喫茶店で、いつか椎菜が飲んだやたらに辛いアイスコーヒーを見つけたり、奇妙な機械が売られている露店で、スティープスがやけに興奮したりして。

 椎菜もスティープスも、不思議と疲れを感じることも無く。そんな調子で二人が遊び回っている内に、あっという間に時間は夕方になってしまった。


「ほんと広いねー、この街……。全然回りきれない」


 地面に水をばらまき続ける噴水を眺めながら、椎菜とスティープスは広場のベンチに並んで座っていた。

 椎菜は屋台で買ったクレープのような何かを頬張る。

 てっきり椎菜はクレープかと思って買ったのだけれど、それは少し想像していたものと違った。

 味は甘いけれど、生地はケバブに使われる生地に似ている。クレープ生地より弾力があって、大きな焦げ目も付いている。

 変わっているけれど、それはそれで美味しい物だった。


「多分、まだ半分も回れてないよね。城下町以外にも、こんなに大きい街があったんだ」


 城下町。

 椎菜には城下町の大きさがどれほどのものであったか思い出せない。あそこにいたときは、椎菜は心身ともに余裕がなくて。

 城下町のことを思い出そうと頑張る椎菜を横に、スティープスは続けた。


「ここって、他の街と雰囲気が違う気がしない?なんていうか、砂っぽいっていうか」


「砂っぽいって……。まぁでも、確かにここだけ中東の国みたいな感じ」


 椎菜は地理が得意ではなかったから、その印象はただの勘だ。

 椎菜にとって、中東諸国はこんな砂漠の中に街があるイメージというだけだ。流石に、現実の中東国の建物が岩でできているとは椎菜も思っていなかったが。

 もしゃもしゃと、クレープもどきを食べながら、椎菜は広場を見回した。


「美味しい?それ?」


 スティープスに尋ねられて、椎菜はぎくりとした。

 先程、クレープもどきの屋台から漂う良い匂いに釣られて、椎菜はついつい匂いがする方へ首を回してしまった。そこを、丁度スティープスに見つかって。

 大飯ぐらいであることをスティープスに指摘されて怒った手前、椎菜はそれを買う訳にもいかず。単純に、スティープスの前で食べ物を食べることにも、椎菜は後ろめたさがあった。

 だから、慌てて屋台から目を逸らした椎菜に、スティープスが「気を遣わなくていいよ」と、そう言ってくれて。

 結局、椎菜は匂いの誘惑に負けてそれを買ってしまったのだ。


「美味しい……、結構……」


「よかったね。食べたそうだったし」


 ――――なんでそんなに、上機嫌?


 食べ物を食べることのできないスティープスが、椎菜を可笑しそうに眺めている。彼女の目には、スティープスが不可解に映った。


「ごめんね。私ばっかり食べちゃって……」


 そんなスティープスをどう捉えたら良いのか分からず、椎菜はとりあえず謝ってみた。


「気を遣わなくていいって。僕は椎菜が食べてるとこ見るのが好きなんだ」


「また……、変なこと言う……」


 しかし、スティープスからの印象が気になる椎菜は、こうじろじろと見られると中々に食べづらい。

 やっかいなことに、椎菜がクレープもどきを全部食べ終わるまで、スティープスは椎菜から目を逸らすことはなかった。

 スティープスは大きめのサイズのクレープを平らげる椎菜を、ずっと黙って、幸せそうに眺めていた。

 椎菜は忘れていた気恥ずかしさを思い出して、何か別の、話題になる物はないかと辺りを探した。

 そうして椎菜が見つけたのは、大通りに建つ大きな劇場だった。

 広場からも見える立派な外装に、椎菜はそこで公演されるであろう劇にも興味が湧いて。

 同時に、辺りが夕焼けに染まっているのに気が付いた。

 夕暮れの薄暗さに彩られて、賑やかな街に儚さが宿り始めている。

 広場に、通りに、影が落ちる。

 噴水の水が空気に散っていく音が、耳に纏わり付いて、離れない。

 いつの間に、こんなに時間が経ってしまったのだろう。


「劇……」


「え……。“げき”……、って何?」


「劇っていうのは……、役者さんが台詞を言って、それで……」


 椎菜は立ち上がり、スティープスの手を引いた。

 手を引かれ、慌てて立ち上がったスティープスに、椎菜が微笑みかける。


 ――――ホリーが心配するかもしれないから、夜までには宿に戻ろうと思っていたけど、少し遅くなっちゃうかもしれない。


 ――――後で、謝らないとね。


「見に行こう?」


 椎菜は我知らず、笑っていた。それにつられて、スティープスもまた、嬉しそうに笑うのだ。

 椎菜がスティープスを連れて、広場を出た。


 ――――本当に、不思議。この人といると、どうしてこんなに積極的になれるんだろう。


 儚さの中を、二人は小走りに進んでいく。

 繋いだ手が温かい。

 互いが傍にいるという実感が、椎菜たちには無性に嬉しくて、嬉しくて――――

 もう二人は、一緒にいるだけで、幸せだった。


 






「一名様、ご案内します」


 案内役の女性に連れてこられたのは、舞台を見下ろせるように客席がアーチ状にせり上がっていくプロセニアム形式の劇場だ。

 映画館を連想した椎菜は案内嬢の示した席に座り、スティープスは興味深気に首を回しながらその隣に座った。一応、椎菜は隣が空いている席を指定しておいたが、客の入りは定員の半数位といったところか。


「うわ、なんか緊張してきた」


「劇の間は静かにしなきゃいけないから、気を付けてね」


 劇場独特の、ほの暗い会場と静謐な空気がスティープスはお気に召したらしく、そわそわと興奮を隠しきれないでいる。

 椎菜は劇場入り口でもらったパンフレットに目を通していた。演者のプロフィールやら、簡単なあらすじ、見どころ等が載せられている。

 あらすじも見どころも、椎菜は読まないでおいた。話に触れるときは、その話の内容を全く知らない状態であることが望ましい、とは彼女の心の論である。

 けれど、そんな椎菜にも、パンフレットの表紙に書かれていることで、気になることが一つ。

 受付で確認した、この劇の演目。

 パンフレットの表紙に大きく示された演目。


「御来場いただき、誠にありがとうございます。ランケット中央劇団、第七期メンバー初日、最終公演となります。上演中はお静かに、他のお客様の御迷惑にならぬよう、お気をつけください」


 パンフレットには、こう説明書きが記されていた。


“世界中から集めた情報を元に作られたこの劇は、ここランケットから、西のウッドサイドを舞台とした御伽噺。彼らの起源はウッドサイドにあり、また、その恐怖もウッドサイドから広まっていったのです。恐怖は自己を守るためにあり、けれども自己を破滅させもする。現在、復活したヴァン・ヴァラックの脅威が身近なものとなってしまいました。そんな今だからこそ、我々も御伽噺を元に、皆様に縁のある環境を物語の舞台とさせていただきました。ヴァンの名を持つ獣たちが、どのような怪物であるのか。今一度、御伽噺の中から、私たちは学ぶ必要があるのではないでしょうか。”


 会場の照明が完全に落とされた。ほの暗さを失って、完全な暗闇がやってきた。

 そして、金具が引きつる音を立たせながら、舞台の幕が上がっていく。

 この世界で広く知られるお話だ。言うなれば、これはこの世界のお伽噺。

 演劇として脚色された、お伽噺。

 演目。劇の題名。その名は――――



“ヴァラックとヴァッケスの胎動”






 劇の序盤は、主役の女性と、その他の登場人物たちの紹介を兼ねた日常シーンが続いた。

 綺麗な女性の役者さんが演じる主役の女性、町役場に勤めるごく普通の新人役員。“A”と呼ばれていた。

 職場にはAの同期の友達が何人か。Aは親類縁者とは仲が良く、年に何度も会っているらしい。

 それと、Aには恋人がいて、その人との逢瀬のシーンは見てて恥ずかしくなる程仲睦まじくて。椎菜は正直、気まずかった。

 話が動いたのは、劇が始まって二十分辺りのことだった。

 序盤の明るい雰囲気のせいで、「明るい話なんだ。よかった」、と。椎菜はそう思っていたのに。


「見てください!見てください!!ここが彼のヴァン・ヴァラックの言い伝えに名高い洞窟の入口です!」


 高らかに職場の友人がAに告げる。

 舞台に置かれた大きな張りぼて。場面の切り替わりの暗転に合わせて運ばれてきた、大がかりな舞台装置だ。

 友人はAに続ける。


「ヴァラックは過去何百年も暴れまわった後、この洞窟の奥で眠りについたんです!残念ながら、今は崩れて奥には行けない……」


 張りぼてをこつこつと叩いて。


「と、いうことになっています」


 他の友達たちと一緒に話を聞いていたAは尋ねる。

 Aと友達たちとの距離は、人二人分程、離れていた。


「じゃあ今も、その怪物がここに眠ってるってこと?」


「そういうことです。まあ、所詮は作り話ですから」


 舞台の上で皆が笑う。そんなものがいる訳がないでしょうと、揃って笑う。


「後はこんな話も御座います。この洞窟の前で、ヴァラックを呼ぶ呪文を唱えると、眠れる怪物が目覚めるとか」


「どんな呪文なんです?」


 Aと友人の一人の会話で話は進められていって、その二人にスポットライトが当てられる。


「洞窟の中に入って、一番奥の瓦礫に手を当てて、ヴァラックに来て欲しいと願いながら、こう唱えるんです」


“偉大なりしヴァン・ヴァラック。全てをお救い下さい。全てをお壊し下さい。”


「おい、試しにやってみないか?」


 話を聞いていた別の友人が、急にそんなことを言いだして。観客として見ている椎菜には、もう嫌な予感しかしない。

 止めて置けばいいのに、フィクションの世界でこの手の好奇心は絶対にろくな結果を呼ばないのだから。

 友人たちが次々と、洞窟の中に入って呪文を唱えては戻ってくる。次第に皆乗り気になって、A以外の全員が試し終わって、遂に、Aの番となった。


「早く行けよ。あとはお前だけなんだから」


 皆が皆行ったとあっては、自分だけ行かないというのは居心地が悪い。Aはびくつきながら洞窟へと入っていって、壁に手を置き、呪文を唱えた。


「偉大なりしヴァン・ヴァラック……。全てをお救い下さい。全てをお壊し下さい……」


 照明が極限まで薄められ、洞窟の中で一人怯えるAが、おぼろげに暗闇に浮かんでいる。Aは呪文を唱え終わると、すぐさま洞窟から飛び出した。


「ほら、やっぱり何も起こらなかった」


 血相を変えて洞窟から出てきたAを、皆は指を差して、鼠のようだと笑った。ひとしきり笑った後、皆は洞窟を離れて、Aはそれに置いて行かれないよう小走りについて行った。






 翌日からAの生活に変化が起きた。

 具体的には、Aの恋人である男が何者かに殺されてしまったのだ。全体がずたずたに痛めつけられ、体の一部が欠損していた。

 特殊メイクで演出された死体は、椎菜には少し刺激が強すぎて。椎菜は舞台から目を逸らして、縮こまってしまう。


「大丈夫?途中だけど、出ようか?」


 椎菜の様子に気づいたスティープスが小さな声で、彼女に声をかけた。


「ううん、大丈夫。折角だし、最後まで見よう?」


 スティープスは椎菜とは対照的に、劇を楽しんでいるようだった。そんなスティープスの楽しみを奪うのも、椎菜には忍びない。


 ――――折角、今日一日、楽しかったのに。


 椎菜は最後にこんな恐い目に会うとは思わっていなくて。なんとなく、「台無しになってしまったかな」、とも椎菜は思ってしまうけど。スティープスが楽しそうだから、「これはこれで」、と己を納得させる。

 それでも、恐いものは恐いのに。

 何度目だろうか、椎菜の手を包むその感触は。スティープスの手が、椎菜の手に重ねられていて。

 照れ隠しか、スティープスは舞台に視線を向けたまま。

 椎菜を心づかうスティープスの優しさだった。

 仮面の横顔をぼぅっと見つめる椎菜の顔は、ほの暗さの中、真っ赤に染まる。

 他の客から見れば、見られたとすれば、二人の関係が男女のそれとしか思えないことであろう。

 まだ劇は続いている。

 この二人と同じ部屋にいるとは信じがたい、陰鬱な流れに乗って話が進められていく。


「なんで……、なんでこんなことになったんだ!!どうして!!!」


 場面はAの恋人が死んだ翌日。Aの職場の、役所にて。

 そこで、またも死体が発見された。今度は、多数の死体が。

 叫んでいるのは職員の男。ヴァラックの洞窟に集まった時には、見なかった顔だ。

 よくよく見れば、倒れているのは皆、その時にいた面々で。


「僕らがここを離れていたのなんて、ほんの一時間ぐらいの筈だ!たったそれだけの間にこんな……!」


 叫ぶ男の隣で、Aは立ち竦んでいた。

 Aには心当たりがあったのだ。

 それは、つい先日のこと。恐ろしい怪物の言い伝えが残る洞窟でのこと。


「僕はこの辺りに、まだ怪しいやつがいないか探してくる!君は衛兵に連絡を!」


 男の指示に、Aは従った。

 とにかくここから離れたくて、走り出す口実を得たAはできる限りの力でその場を後にした。

 暗転した劇場に、Aが駆ける足音が響く。灯りの灯らぬ中、Aの独白が流れ出す。



「ヴァラックの洞窟に一緒に行った人たちが皆、あそこで死んでいた。ただ一人、私を覗いて、皆」


「こんなの、偶然だ。偶然に決まってる。だって、昔話の怪物なんて、在り得ない」


「私のせいじゃない。私のせいじゃない。私はこんなこと、望んでない。本当に、本当に」


「友達を、恋人を殺して欲しいなんて。私が思っているはずがない」


「だから、こんなの。私のせいじゃない」



 次の日、役場は衛兵たちの調査のため立ち入り禁止となった。

 事情聴取を受けたAは、衛兵に何か犯人に心当たりはないかと聞かれたが、何もないと答えた。

 役場で発見された遺体も、ほとんどが体の一部が欠けており、この事と傷痕の形から、Aの恋人を殺したものと同一犯とされた。

 その上、犯行を行ったのは人ではなく、何か巨大な肉食性の動物であるという見解まで現れた。どの遺体にも欠損が見られたのは、殺される際に噛み千切られ、そのまま飲み込まれたからであるということだった。

 そして、Aの事情聴取では、他にも。



「あなたは、恋人だった男性に恨みを持っていたりはしませんでしたか?弱みを握られていたりは?」


「あなたは職場で上手く溶け込めていなかったとか。仕事の環境について、何か思うこととか、御座いませんでしたか?」



「いいえ」


「何も」


「私は何も、知りません」



 そして、暗転と共に場面が切り替わり、Aが帰宅した時のことだった。

 玄関を開け、両親の待つ我が家に戻ってきたAが、安堵の息を吐いてリビングに入ると、そこには。


「あれ……?」


 黒く、巨大な影が蠢いて。

 黒く硬質な毛に覆われた、隆々とした筋肉は、何もかもを引き裂く凶器に他ならず。羊の角をかざして振り向いた怪物の口には、滴る濃血が。

 怪物の足もとに転がる何かは、果たして何であったか。

 怪物はAを見るや否や、水の様に溶けて消えてしまった。残されたのは、変わり果てた両親の姿が二つ。

 両親は、どちらも半身を食い破られていた。






「あなたが見たと言う怪物なんですがねぇ……。あなた以外に目撃者はいない訳なんですなぁ、全く」


「そりゃあ、怪物が犯人だって言う人もいるにはいますがね。犯人がそういう風に見せかけている可能性の方が、ずっと高いんです」


「被害者は皆、あなたの身辺者だ」


「知っていらしたんでしょう?恋人が他の女性に手を出していたことも。職場の人たちに、あなたが良く思われてなかったことも」


「御家族の方々とも、最近諍いがあったそうじゃないですか。まだ若い貴方が、ご老体の両親を養っていくのは大変だ」


「どうですか?Aさん」


「もうそろそろ、お互い楽になりませんか?」






 牢屋に入れられたAは、しずしずと泣いていた。

 誰にも信じてもらえないAにできることは、不信の衛兵たちに連れられて、この寒く冷たい牢獄に来ることだけだった。

 Aはここから出たいと、必死に願った。

 自分の無実を信じる誰かが助けに来てくれることを、ただただ願った。けれど、鉄格子の外には誰の姿も在りはしなくて。

 泣き疲れて眠気に身を委ねたAの耳に、どこかからか、悲鳴が届いた。

 そして、寸刻置かずに、Aのいる牢獄に轟音が響き渡った。

 気力が抜けきったAの瞳が、牢獄に開けられた大きな穴を捉える。

 Aは己が見た物を信じることができたであろうか。出ること叶わぬ煉瓦と鉄格子に切り取られ、世界から隔絶されたこの牢屋に、盛大に砕かれた壁がぽっかりと口を開けていた。

 揺れるように穴から外へ出たAは、夕方の街路を歩く。何処へ向かうでもなく、夢を見ているかの心地で歩き続けた。

 街の人たちは、誰も彼もがそんなAを避けた。

 Aが街で起きた、奇怪かつ猟奇的な事件の中心におり、それどころか事件の犯人と目されていることは、既に周知のことで。

 Aは自分を見る彼等の視線に、自らの居場所がこの世に残っていないことを悟らざるを得ないのだった。

 騒ぎの只中にいる不審なAを、衛兵が見逃すはずはない。

 牢屋に閉じ込めたはずのAを見て、衛兵たちは叫び声を上げた。Aを再び捕えようと、衛兵が集まってくる。

 Aの抵抗を警戒しながら、衛兵が一人、その手に縄を掛けようとした

 だが、縄がAの手に巻かれる寸前。

 何の変哲もない地面から、捻出する黒い巨影。呻きに震える羊の角。

 人々の背後に現れたヴァラックが、咆哮した。

 その場にいる全員を威圧して、Aを捕えようとしていた衛兵へと、巨大な腕を振るった。

 殴り飛ばされた衛兵は虫の息で、唖然とする人々に言った。


「逃げろ……!化物だ……!!逃げるんだ……!!早く!!!」


 あっという間に散っていった人々とは逆に、槍や剣を持ってヴァラックを囲むのは衛兵たちだ。爪で石畳を引っ掻いては威嚇する怪物へと、何人もの勇敢な衛兵が飛び掛かる。

 Aは、ヴァラックが自分を見ていることに気が付いた。

 体にいくつも傷をつけられながら、怪物はAに何かを伝えようとしていた。

 ヴァラックは抵抗し続ける。

 如何に凶悪な力を持っていたとしても、いくら倒しても途切れぬ衛兵の波に、次第にヴァラックは弱っていく。

 ヴァラックの奮闘を、呆然自失と眺めていたAの周りには、今や誰もいない。

 Aはその好機に、身に鞭打って走りだした。

 Aが逃げて行ったことを確認したヴァラックは、気が緩み地面に倒れ伏す。

 そこに、衛兵たちの火矢が放たれた。ヴァラックに無数の矢が突き刺さる。矢に灯された炎は、いつしかヴァラックの体に燃え移り、ヴァラックを焼き焦がして。

 恐怖の怪物から、その命を奪った。






 走る。走る。ひたすら、走る。

 街を抜け、山道を駆け上がる。誰もいない所へ逃げていく。

 Aの走る音が暗闇に響いて、暗闇の何処かからか、彼女の嘆きが聞こえてくる。

 Aが、失った日々を嘆いている。

 恋人との日々。友達との日々。両親との日々。

 Aの脚が止まった。

 何処かに着いたのだ。暗闇の中に月明かりが刺し込んで、薄く、けどはっきりと、Aの姿を照らしだす。

 Aは、ヴァラックの洞窟の前に立っていた。




「私は……」


「私は、自分を許さない」


「あの時、私はきっとあなたが来ることを望んでしまったんだ」


「もう、私には何も残っていないの。あなたが、全て壊してしまった」


「偽物でもよかった。みんな嘘でも、私の居場所だった」


 洞窟の奥へと入っていく。その最奥で、瓦礫の山に手を付いて。


「もう、私には……」


「何処にも、何も残ってない……!」


「私があなたを、呼んでしまいさえしなければ……」


「私のせいで、みんなが……、あんなに大勢の人が……、死んでしまった……」




 絶望に染められたAの祈りは、誰かへと届く。

 地面が揺れていた。

 街を、人を、揺らす地震。それは、何かの存在を世界中の皆に伝える。

 Aがいる洞窟は地震に耐えることができなくて、がらがらと崩れながら彼女を飲み込んでしまった。

 そして、舞台が暗転した後、世界中の人々は、ヴァラックの洞窟があった場所に佇む、白い巨影を見た。

 舞台を覆い尽くす、白色のその何かに物語の世界は押しつぶされて。

 Aが生きていた世界から、何もかもを奪ってしまった。


 劇場から灯りが消えた。客席も舞台も真っ暗な中、語り手の語りが一つ。


「月明かりに照らされて、破滅した世界に、一匹の怪物がそびえ立っていました。ヴァラックよりも遥かに巨大な体躯を持っている、とても恐ろしい怪物でした。山よりもずっと大きな怪物に、世界中のほとんどの人が殺されてしまいました」


「人の優しさから生まれたその怪物は、逃げ場のない人々を追いまわし、無限の力と無限の言葉で皆を殺してしまう。かつて現れたその怪物は、今でも世界中で恐れられ、それはヴァン・ヴァッケスという名で呼ばれながら、今も教訓として語り継がれているのです」




「罪の意識。それもまた、恐怖同様にあなたから全てを奪うのだと」








 椎菜たちが劇場を出ると、辺りはもう真っ暗になっていた。

 劇場の灯りに照らされた路上の砂が、乾いた風に吹き上げられて夜空へと舞っていく情景は、現実の何処かにあるであろう砂漠の中の街を思わせた。

 劇の途中から、ずっとスティープスに握られたままの手を揺らして、椎菜は未だ人通りの盛んな繁華街を行く。

 スティープスの姿が他人にも見えていたならば、今頃椎菜は恥辱に耐えられなくなっていたに違いない。椎菜は一時間近くこうしているにも関わらず、一向に慣れる気配がなくて。繋いだ手を見る度に頬を赤らめていた。


「劇、すごかったね」


 意識を逸らそうと隣のスティープスに話しかける。すると、スティープスは勢いづいて語りだした。


「あんなのもあるんだね!段の上でみんながお話通りに動いて、ヴァラックが出てくるところとか、でっかい仕掛けがバァーって動いて!!」


 スティープスは興奮しっぱなしだ。

 ここまで気に入っていたとは。途中で出てしまわなくてよかったと、椎菜は思った。

 本物のヴァラックに追いかけられた経験のある椎菜には、同じくその場にいたスティープスのこの楽しみ振りが羨ましかったし、信じられなかった。


「内容は暗かったけど、迫力あって楽しかったなぁ。なんか今なら、僕も劇みたいにヴァン・ヴァラックを倒せそうな気がしてきたよ!」


「あはは、本当に?」


「やれるやれる!食べられそうになってる椎菜をビシッと助ける!」


 何故、自分が危機に陥っていることが前提なのか、気にはなったが。椎菜にはここまで饒舌なスティープスが珍しくて、興奮冷めやらない彼に好きなだけ話させてあげた。






 宿が近づくにつれて、熱く劇の感想を語っていたスティープスの足取りは重くなる。

 スティープスにはまだ、今日、果たさなくてはならない目的があった。

 スティープスは胸のポケットの懐中時計を確認する。時間はまだ残っている。充分であるかは怪しいが。


「少しだけ、寄り道してもいいかな?」


「いいけど……、どうしたの?」


 楽しそうに話し続けていたスティープスの声色が小さく変わった。

 スティープスは椎菜に返事をすることもなく、宿の裏に続く短い路地裏を通って、人気のない広場へと椎菜を連れて。

 スティープスの荘重な様子に、椎菜はこれから彼が話すことへの覚悟を決めた。

 広場に立つ街灯の下、暗闇の中にぽつりと照らし出されたベンチに二人は座った。

 椎菜の心臓が強く脈打つ。

 今日ずっと感じてきた鼓動とは、また違った意味を持つ強さであった。椎菜はじっと、スティープスが話し出すのを待った。


「僕はこれまで、君にずっと隠し事をしてきた」


 スティープスは慎重に、言葉を選びながら話し出す。


「ディリージアと話し合ったんだ。君に僕らと、この夢のことを教えるべきかどうか」


 椎菜は黙って、スティープスの横顔を見つめている。

 一日中、この横顔を見ていた。

 これまでスティープスがこんなにも、神妙な気を纏わせたことがあっただろうか。例え、仮面に覆われた表情は見えなくとも、今や椎菜には彼の気持ちを察することができる。


「明日、僕とディリージアは、君に知っていること全てを話す」


 霧とも雲ともとれる、夜空を隠す白と黒の無数の線が、何処かにあるはずの月を覆い隠して蠢いて。

 月明かりは届けども、その姿は誰の目にも届かせない。


「だから、その前に。君に聞いて欲しいことがある」


 スティープスは間を置いて、気持ちを整えた。

 その仮面が無ければ、気を落ち着けようと深く息を吸い込み、吐き出していたことだろう。けれど、スティープスには口がない。

 仮面が無かったとしても、口があるのと同じように喋ることができたとしても。



「僕は、僕とディリージアは。ただの……」



「ただの、おもちゃなんだ。現実では喋れもしないし、動くこともできない。ただのぬいぐるみと、城の模型なんだ」



「僕たちは、人間じゃないんだよ。椎菜」







「……」


 スティープスの言ったことを、椎菜は聞いた。

 確かに、はっきりと聞いた。

 街灯の灯りが二人を照らし続けて、夜闇に浮かび、そこに在る。

 スティープスの告白から、椎菜が口を開くまで数秒を要した。

 ずっと隠し続けてきたスティープスの秘密。

 それを聞いて、椎菜は何を思うだろう。彼女は何と答えるのだろう。


「そう……。そうなんだ……」


 そろり、そろりと唇を動かして。椎菜が言葉を紡ぐ。


「ぬいぐるみ……。だったんだ。そっか」


「今までずっと、僕は人間のように君に接してきた。僕は、君を騙していた」


 椎菜はスティープスに何か言おうとしたようだった。

 だが、椎菜は堪えた。今はまだ、聞いておかなければならないことがある。


「どうして、隠してたの?」


「君に怪しまれちゃいけないと思ってたんだ。君がこの夢から出るために、僕は君を放っておいてはいけないと思った。だから、君が僕を信じて話を聞いてくれるように、ずっと言わないできた」


 スティープスには、何度でも話す機会はあった。

 だが、話してもいい頃合でも、スティープスは言わなかった。

 直接スティープスの正体に関わることでなければ、彼は答えてきたけれど。

 いつしかスティープスの中で、このことは話してはいけないことから、話したくないことへと変わっていて。


「物を考えるぬいぐるみなんて、不気味だろう?誰も信じてなんてくれないよ」


 スティープスは顔を片手で、強く抑えていた。

 スティープスは泣きそうになっている。泣きそうになっているのを、堪えているのだ。

 涙を流す両目は無くても、彼の心が泣き出すのを、必死で。


「この前、君が見た夢のことを覚えているかい?僕は君に夢を見せた。人を夢の世界に連れて行く力が、僕にもあるんだ。ディリージアと同じ力が」


 薄まってしまった記憶ではあったが、椎菜は確かに覚えていた。丘の上に立ち、丘の周りには懐かしい景色が広がる夢の世界。

 あれは、スティープスが椎菜に試しに力を行使した結果であった。


「君は僕のことを、ずっと人間だと思っていただろうね。君は、ずっと僕に優しくしてくれた。隠し事どころか、君を騙している僕に」


 スティープスは立ち上がって、俯く椎菜の前に立った。


「ごめん、椎菜。僕は君とこんな風に一緒にいていい存在じゃあないんだ」


 椎菜は何も言わなかった。

 スティープスの言葉をひたすら受け止めて、自分の気持ちを探し回って、顔を上げることすらできなくなって。

 スティープスはその場をそっと離れようと、踵を返す。


 ――――明日、ディリージアは椎菜に全てを話すだろう。


 ――――僕がいなくても、問題はない。懐中時計の針は、もうじき零時を指す頃だ。宿は路地裏を抜けたすぐそこにある。危険なこともないだろう。もう、僕には椎菜と一緒にいる権利はない。


 ――――いや、最初から、そんなものは。


 ――――なかったんだ。


 ――――そう。人間である彼女と、物に過ぎない僕が人間のように一緒にいることが、そもそも許されるはずはなかったのだから。


 暗闇の中に足を踏み入れ、スティープスは何処かへ去っていく。椎菜から見えない、彼女の世界の外へ。


 スティープスが、さよならも言わずに、去っていく。














「スティープス」


 か細い声だった。

 夜の中に消えていくスティープスを呼び止めた、現実からやって来た一人の少女の声。

 スティープスは振り向いた。当然のことだ。椎菜が呼べば、彼は答える。スティープスが、椎菜の声に答えないはずがない。


「……、椎菜?」


「スティープス……!」


 ぶつかるように抱き付く椎菜を、スティープスは受け止めた。袖を強く掴んで、声を震わせ、涙を流す椎菜を。


「一緒にいちゃ駄目だなんて、言わないで……」


 椎菜が泣いている。


「騙してたなんて言わないで!不気味だなんて言わないで!誰にも信じてもらえないなんて、言わないで……!」


 嗚咽を堪えながら、こんなにも一生懸命に言葉を繋いでくれる。


「あなたが変なことなんて知ってる。あなたがずっと隠し事を気にしてたのだって知ってる」


 ――――湧き上がる、この想いは何だろう?


 スティープスには、まだその気持ちの呼び方が分からない。


「私は、あなたのこと信じてる……」


 けれど、スティープスは想いに動かされるままに、椎菜の体を抱きしめた。

 椎菜の言葉を余さず受け取れるよう、強く、強く抱きしめた。


「人間じゃなくたって、何も変わらないよ……?スティープス……」



「大好き。あなたのこと」




「誰よりも、私はあなたのことが好き」






「……。駄目だ……」


 椎菜が言う“好き”という言葉の本当の意味を、スティープスは捉えきれていなかった。それでも、スティープスの思うことは、決して間違いではなかったのだが。


「駄目だよ……、僕らは、一緒にはいられないんだ。君は人間で……。僕はぬいぐるみ、物なんだから」


 スティープスの心配は尽きることなく。椎菜が人間であることを考えるだけでも、彼には不安なことしかない。


「僕は君の邪魔になる。こうして話していられるのも、夢の中にいる間だけだ。君だって普通の人と普通の生活を送りたいに決まってる。だから、僕らはもう、こんな風にはいられないんだ……」


「そんなの、関係ない」


 今だけだとしても。


「なんとなく、分かってた。あなたは私とは違った人なんじゃないかって。でも、でも……。今こうして、一緒にいられるなら……、関係ないよ。夢の中だけでもいい。私はあなたと一緒にいたい」


 これは、ただの夢なのだとしても。


「あなたが一緒にいてくれるとね。私、自分でも不思議なくらい頑張れるの」


 スティープスが傍にいてくれるだけで。

 スティープスが声をかけてくれるだけで。

 椎菜は、幸せだと思える。


「だから、ねえ……。スティープス」


 だから、まだ終わりじゃない。例え、いつか離れてしまうのだと分かっていても。


「ずっと一緒にいて……。一緒にいたいよ……、スティープス……」


 椎菜の心からの言葉は、スティープスにはどう伝わっただろう。

 未だ己の気持ちすら、言葉にできないスティープスには。


「なんでだろう……。こんなこと言ったら、君は気持ち悪く思うかもしれないけど……」


 スティープスには抑えきれない想いがあった。言わずにはいられない言葉があった。


「君のことが大事だ。紫在よりも、ディリージアよりも、ホリーよりも、誰よりも、君のことが大切なんだ」


 どんなに夜が暗くても、スティープスの手は光を掴む。

 スティープスを導く綺麗な光を。

 椎菜が差し伸べる、その手を。


「嬉しい……」


 椎菜の涙は止まることなく流れていた。しかし、流れる涙に込められた想いは、悲しみから嬉しさへと変わっていく。


「あはは……、なんだろ。すごい、顔熱い。私、変かも」


「変じゃないよ。君は、いつも綺麗だ」


 スティープスの思い切った言葉に椎菜が少し驚いて。

 そして二人は、いつも以上に楽しそうに笑い合って。

 ふと、笑いが収まると。

 椎菜はそっと、スティープスの仮面に口づけた。


「あ……。え?今の、何?」


 仮面の口元に手をやって困惑するスティープスに、椎菜ははにかんで、いたずらに笑った。


「……、秘密」















10th tale End



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