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Prologue. Letter from a stranger

 目を覚ますと、そこには異常が広がっていて。

 見上げれば、黒と白の入り交ざった不穏な空と、私のいる丘の下には、見覚えのある鮮やかな紫色の植物が、風に揺れてゆらゆらと。

 ずっと遠くに見える西洋風のお城は、暗い空にシルエットになっていて、空に突き刺さりそうに尖っていた。

 私が見ている風景は、まるで夢を見ているかのような。体の痛みもなくなっていて、私は、誰かいないかと辺りを見渡して。

 ここはどこ?

 私は分からなくて。分からなくて。どうしたらいいのかも、分からなくて。

 その場でぼぅっと、立ち尽くしていた。








「愛し合う……。ああ、そうか……。椎菜、僕は……」








「僕は、君を愛していたんだね」









SIN-CIA




Prologue. Letter from a stranger





 一人の少女が、住宅街に映える並木道を歩いている。

 紅葉並木を見上げながら、次の季節に見られるであろう、鮮やかな紅葉を想像しながら道を行く彼女は、学校指定のYシャツにスカート姿。

 自宅からほど近い県立高校に通う、普通の高校生だ。線の細い女子である。

 抱きしめればあっさりと折れてしまいそうな体を真っ直ぐに伸ばし、歩く姿には凛々しさが。女性らしいゆったりとした仕草には、危うく割れてしまいそうな儚さがある。

 袖から覗く細い腕に葉が乗って、深い茶色の髪を滑り、熱せられたアスファルトに落ちていく。

 高校二年目の夏。

 受験という言葉が現実味を帯びてくる時期である。早い人なら、もう受験へ向けて準備を始める頃。

 彼女も、箕楊椎菜みようしいなもその一人だ。

 手に持つのは、付箋がいくつも付けられた英単語帳。

 椎菜は蝉が鳴く、暑さも整った七月の空気を胸一杯に吸い込んで、単語帳を閉じて、改めて立ち並ぶ銀杏と楓の木を眺めた。まだ緑色に輝く木々は、みなぎる力を感じさせる。

 そんな並木に目を凝らす椎菜の瞳は、奥底に物憂げな色を堪えていて。深い色の茶髪が心地の良い風になびいて、椎菜は夏の冷たさに心を漂わせ。

 目線を戻して、夕方を前にまだ明るい帰路を歩み始めた。






 学校から家への帰り道、その途中。緑が眩しい山が見下ろす、小さな公園がある。

 木製の遊具が二つと、鉄棒と砂場があるその公園は、近所の子供たちのたまり場だ。

 椎菜は下校中、この公園にしばしば足を運ぶ。

 元々は、買った本を家に帰るまで待ちきれなくて、ここのベンチで読んでいたのが始まりだったのだが。その時、公園に遊びに来ていた子供たちと仲良くなってしまったことで、椎菜の読書の時間はお釈迦になった。

 今でもそのベンチで本を読みはするが、彼女の本命は集まってくる子供たちになっていた。彼らがやってくれば本を読む暇なんてある訳なくて、本末転倒にも、椎菜は本をしまって子供の相手をせざるを得ない。

 椎菜は、子供が好きだったのだ。

 無尽蔵な元気に振り回されるのも、本を読んでいる所を驚かされるのも悪い気はしない。また、集まる男の子も女の子も皆、椎菜を慕っていて。それがまた、椎菜をこの公園へと惹きつけるのだった。






 ――――ああ。今日も、来てしまった。


 いい年をして、子供を相手にはしゃぐのはどうかと自分で思いながらも、なんとなく椎菜の足は公園に向いてしまう。そもそも、高校生が一人で公園にやって来てベンチに座り、本を読んでいるというこの姿は、他人にはどう映ったものだろう。痛々しくはないだろうか。不審には見えていないだろうか。

 不安は尽きることなく、椎菜の心の中に湧き上がる。

 今日の公園には、子供の姿はまだ見受けられない。スカートの隙間に気を付けながらベンチに腰を下ろし、通学用鞄から本を取り出した。

 椎菜が読むのは何時も小説だ。昔の物から今の物まで、お話なら、何でも。学校でも、家でも、何もすることがないのなら本を読む。根っからの本好きという訳ではなかったが、気になる物があれば、借りたり買ったりして読む。その程度ではあるけれど、本を読むのは好きだった。

 鞄をベンチに置いて、本を取り出そうと開くチャックにはお守りが揺れている。

 合格祈願の文字が入った錦布のお守りを椎菜は手に取って、少しの間眺めた後、鞄の中から本を取り出した。

 本をめくる手に、夕方を迎えた公園に吹く風を感じる。風に冷やされた手の温度は、やがて少し汗をかいた背中にも伝わって、暑い空気の中で火照った体に心地よい。

 椎菜は次第に本の内容に熱中していく。

 一ページ、また一ページ。

 紙に記された文字に目を通していく。


「何してんの!!」


「ひっ!!」


 本に意識を奪われているような、恰好の獲物を子供が見逃すはずがない。ベンチの後ろ、茂みの中から突然叫ばれて、椎菜は声をあげて驚いた。


「……っ!待てこの!!」


 逃げ出した子供たちを追いかけて椎菜も走る。インドアな性質ではあるものの、彼女は運動が苦手という訳ではない。小学生やら幼稚園児やらに劣るような足ではないのだけれど、子供たちの悪知恵はそれなりに嫌らしいものだ。

 椎菜の反応に満足した子供たちは笑いながら、あっという間に木に登って、椎菜の手の届かない場所へ行ってしまう。


「へいへーい」「かかってこいよ!」


「こいつら……!」


 流石に木にまで登る気は起きず、椎菜は憎々しげに子供たちを見上げることしかできない。怒りのあまり、思い切り木の幹を揺らしてやろうかと危険なことすら思いついてしまう始末である。

 良いように遊ばれる椎菜の下へ、女の子が一人やって来る。

 女の子の手には、ビニール製の跳び縄が一本。ビニールの表面に砂がこびり付いている、その使い込まれた跳び縄は、束ねた部分を女の子に振り回されて今にも千切れそうだ。


「縄跳びやる!私縄跳びやるから、見てて!」


「ああ、うん。いいよー。前言ってた二重跳び、できるようになった?」


「……、できない」


「そ、そっか……」


 この公園にやって来るのは大抵、この近くの小学校に通っている、主に低学年の子たち。女の子も男の子も集まってくる。人数の比率は、男の子の方が少し多いくらいで。


「じゃあ、普通のやつ跳んでみよっか?」


「交差跳びやる!やるから見てて!」


 元気が良すぎて、椎菜の話をろくに聞きもせずに。女の子は意気揚々と跳び始めるも、精々跳べるのは五、六回。それでも上手になった方だ。先月なんて、ただの垂直跳びもまともにできなかったのだから。


「上手に跳べるようになったねー。学校の先生なんて言ってた?」


「宿題やれって言ってた」


「駄目でしょやんなきゃ……」


 呆れながらも椎菜は笑って、女の子が何度も交差跳びを自慢気に跳んでくれるのを見守って。そんな二人に近づく男の子が何人か。男の子たちの両手には、水が詰まった水風船が握られていた。


「くらえっ!」


「冷たっ!?」


 椎菜の後頭部にぶつけられた水風船は見事に破裂した。ぐっしょりに濡れた髪から滴る水を手で拭い、椎菜は再び男の子たちを追いかけた。


「いたずらするんじゃない!」


 またも木に登られ、呆気なく取り逃がした。

 木の上で楽しそうに笑う子供たちは、躍起になる椎菜を挑発し続けている。

 今度こそ揺さぶってやろうかと木の幹に手を掛けるも、そんな危ないことはやはり良くないのではと良心が勝る。結局の所、椎菜には濡れた髪の重たさに歯ぎしりすることしかできない訳で。

 屈辱に震えつつ、少し休もうとベンチに戻り一息吐くと。何やら穏やかではない話し声が聞こえてきて、椎菜は顔を向けた。


「ねえ、ちょっと。あなた何年生?そこ、私たちがいつも使ってるんだけど」


 そこには、家屋の形をした遊具で遊んでいたらしき女の子と、その子に食って掛かる上級生であろう数人の女の子がいた。

 嫌な声だ。人を脅そうとする人の、きつい物言いのまとわりつくような声。椎菜にとって、あまり見かけない子たちだけれど、“いつも”という言葉はどれほど信用できたものだろう。


「いいからどいてよ。私たちの邪魔する訳?」


 絡まれている子はおろおろとして、恐がって何も言えない。脅す側の女の子たちの声と形相は酷く威圧的で、ずっと年上で、後ろから様子を見ているだけの椎菜にも嫌な汗をかかせる。

 今にも泣き出しそうな女の子が哀れに思えてならないのに。椎菜の頭には逃げようとする考えばかりが浮かんでくる。

 見て見ぬふりをして、他の子の所へ行ってしまいたい。

 余所で遊んでいる内に、事態は自然に解決しているかもしれないし。ここで自分が行くことはないのでは。

 それに、自分が口を出して余計に波風を立たせてしまうかも。

 第一。


 ――――私には、関係ないことじゃないの?


 椎菜がその場を離れようと、踵を返そうとした時。

 虐められる女の子の目を見てしまった。涙の溜まった両目は、泣き出す寸前で。

 その目は、椎菜にすがるように、向けられて。

 そして、椎菜は思い出す。自分は、ここで逃げてはいけないということを。


「ちょっと、いい?」


 椎菜は態度の悪い女の子たちに割って入った。

 泣き出しそうな女の子の所へ歩いて行って、小さな頭を優しく撫でて。


「この子が先にここ使ってたよね?なら、この子も一緒にここで遊ばせてあげればいいでしょ?」


「えー」


「誰?この人」


「仲間に入れてあげないなら、我慢しないと。上級生でしょ?」


「はぁ?知らないし」


「うざ……」


 子供から見る年上の人間は、より大きく見えるもので。

 女の子たちは、立ち塞がる椎菜の言葉に悪態を吐きながら身を引いた。振り返り様に睨みつけられるのを椎菜は全身に感じつつ、遊具の前で固まる可哀想な女の子に声をかけた。


「恐かったね。ごめんね。もっと早く来てあげればよかったね」


 女の子は緊張が緩んだのか、思い切り泣き出してしまった。泣きながら、椎菜と遊具から離れて行って、何処かに走り去った。

 その小さな後ろ姿に、椎菜は思う。


 ――――本当に。どうしてもっと早く助けてあげなかったんだろう。


 恐れに身を任せ、逃げようとすらしたことを後悔しながら、椎菜は公園の夕日に包まれて。自分の弱さと、泣いていた女の子の気持ちを想って心を痛めた。






「おーい!みよしー!!」


 元気よく自分を呼ぶ声に、椎菜は振り向いた。公園の外、植えられた茂みの向こうからこちらを見ているのは、椎菜の友人である二人の女子だった。


「……、あれ?補講あったんじゃないの?」


「とっくに終わったよ。今何時だと思ってんの?」


 公園の時計を見れば、確かにもう時間は六時を過ぎていて。ここに来たのが何時ごろだったのか覚えてはいないが、小テストで一割の点数を連続三回取った生徒に課せられる補講を終えて、彼女たちが帰り道を歩くにはむしろ少し遅いくらいの時間である。


「どうしたー?なんか顔暗くない?」


「え?あー、うん。ちょっとね……」


「また、ここ来てたんだ。私、子供苦手だからほんと理解できないわ」


 公園から出て、帰路に戻った椎菜と並ぶ二人の友達の内、元気な方が椎菜にすり寄りじゃれついて。落ち着いた方は椎菜の顔をまじまじと見つめ回して。


「私、みよしーに乗っちゃう!」


 落ち着きのない美琴は椎菜の背中に掴まった。彼女なりに元気付けようとしているのだが、椎菜はどうにも苦しそうだ。


「佳代は授業で幼稚園遊びに行った時、ガキんちょたちに虐められちゃったもんねぇ〜」


「うるさい、黙れ」


 落ち着いた様子の佳代は美琴の一言にきつく切り返した。落ち着いているのはあくまでも外見の話である。


「でも、楽しそうだったのに。嫌いではないんだよね、子供」


「まぁ、嫌いではないけど……。とにかく椎菜程じゃないし。美琴はずっとサボって隅の方にいたけど」


「ちゃんとやってましたぁー。ガキんちょの世話してましたぁー」


「隠れて携帯いじってたよね?」


「してないしてない。覚えてないし」


 そこかしこに木が植えられた住宅街の風景は、落ちていく夕陽に涼しさを感じさせて。帰り道を行く三人は段々に暗くなっていく辺りにも気づかずに。


「そういえば、昔あそこの公園でさ」


 少しだけ前を歩いていた佳代が振り返り、何とはなしに話し始めた。


「うん?」


「私が小学校に入る前くらいなんだけど、すごく綺麗な人とあそこで会ったんだよね。金髪で外人さんかと思ったんだけど、日本語話してた」


「はぁ、金髪。金髪美女」


「いや、その人も子供だったんだけど……」


 美琴の他愛のないネタ振りに話の腰を折られた佳代に、椎菜は話を続けられるよう質問を出してあげた。


「何でそんな人と会ったわけ?」


「ああ、私の落とした家の鍵拾ってくれてさ。その時の声とか顔とかが滅茶苦茶優しくて、なんか感動した」


「へー。佳代にここまで言わせるかぁ。これが金髪美女の力」


「おい」


 美琴が茶化したくなるのも椎菜には分かる。佳代が人を邪険にすることはあれど、褒めることなんて滅多にないことで。要するに、少し気持ちが悪いのだ。


「公園の向かいの山に大きな家建ってるでしょ?確かあそこに住んでる人だって聞いたんだけど……」


「あー、あるね。あのすごく立派な家。じゃあお金持ちな人だったんだ」


「じゃあご挨拶しに行きますかぁ」


「行かねーし。でもさ……」


 佳代は大分離れてしまった公園の方を見た。恐らく、件の家を見ているのだろうと思われた。椎菜には一瞬ではあれど、佳代がなんだか悲しそうに目を細めていたように見えた。


「もうしばらく見かけないんだよね。絶対目立つ人なのに、何年も」


「……。引っ越しちゃったのかな?」


「かもねー。まぁ、そんなこともあったよって話」


 緩やかな山の中腹に建つ家を椎菜は遠目に見つめた。

 洋風で二階建ての、薄紫の屋根と石造りであると錯覚する色合いの壁が周りの緑に浮いている。

 ずっと昔、何となく気になって近くまで行ったことがあった。大きな門の先には広めの庭が広がっていて、庭には紫の実をつけた背丈の低い変わった植物が植えられていた。

 図鑑で見たことのある木だった。

 余所では見かけないその低木を彼女はたまたまではあるが知っていた。


 ――――紫式部。


 平安時代の歌人の名前を持つ植物は、大きな家の荘重さを際立たせていて。余りに綺麗だったから、自分が場違いな気がしてきて急いで坂を下りて帰ってきたのを覚えている。

 呆けながら、何時の間にか自分と一緒になって家を見つめている椎菜に佳代は小さく笑い、寂しそうに言った。


「きっと、もういないんだろうね。もし会えたらさ、お礼くらい……、言いたかったのに」






「ただいまー」


「おかえりー。ご飯もうすぐできるから、少し休んでな」


 家に着くなり椎菜は居間のソファーに倒れ込んだ。一日の疲れをソファーに体ごと埋め込むつもりで全身の力を抜く。柔らかいクッションが頬に当たって気持ちがいい。

 心地よさに眠りそうになる所へ、台所から漂ってくる良い匂いが椎菜を現実へと引き戻した。今夜はカレーらしい。


「お母さん、何か手伝うことある?」


「大丈夫ー。あ、そうだ。あんたに手紙届いてたよ?」


「手紙?」


 母が居間の机を指差して、そこにあったのは薄っすら浮かぶ装飾が綺麗な、淡い桜色の角封筒。自分の家にあるのが不自然に思えるほど、美しい封筒。差出人の住所もこちらの住所も書かれていない。

 その手紙の、差出人の名前は――――


 哉沢紫在かなさわしあ


 聞き覚えのある名前ではなかった。友達にも親戚にも、そんな名前の人はいなくて。全く知らない誰かから、こんな綺麗な手紙が届くなんて。素敵なような、不気味なような。

 椎菜は封筒の口を破かないよう、気を付けながら恐る恐る開けていく。中には、一枚の便箋が入っていて。丁寧な文体と、整った字でこう書かれていた。






 私のお友達、箕楊椎菜さんへ。


 最近暑い日が続いていますね。お体の調子は大丈夫ですか?

 折角の夏なのに風邪で寝込んでしまっては大変です。外はこんなにきれいな青空なのに、ずっと家の中にいなきゃならないなんて、つまらないですもんね。

 私はといえば、実はちょっと風邪気味です。あまり体の強い方ではないので、珍しいことではないのですが、やっぱり外に出られないのは寂しいです。

 でも、家にいるとき私はいっぱい本を読むんです。

 いろんな本を集めて、いろんなお話を読むの。暗いお話はあんまり好きじゃありません。だって、読んでて辛くなっちゃうんです。怖いお話も苦手。私の兄は怖がる私をいつも馬鹿にします。ひどいですよね?私は一人で家にいることが多いので、もしかしたら窓の外からお化けがこっちをのぞいてるんじゃないかとか想像しちゃって、もう怖くてしょうがないの。子供っぽいって思われちゃうかもしれないけど、怖くてぬいぐるみに強く抱きつきすぎて、大好きなぬいぐるみがボロボロになっちゃったりもしたんですよ。


だから私は、楽しいお話や、ハッピーエンドのお話が大好き。やっぱり、大好きになった登場人物たちには幸せになってほしいから。みんなが幸せそうにしているのを想像すると、私まで幸せを分けてもらったような気分になるんです。

 あなたも本がお好きなんですか?

 よく公園のベンチに座って本を読んでいるのを見かけます。周りで遊んでいる子供たちに読書を邪魔されて、困った顔をしたりしているあなたを見て少し笑ってしまいました。

 いえ、バカにしているんじゃないんです。ただ、本を読んでいるときの真面目なあなたの顔と、子供たちの相手をしているあなたの困ってるけど楽しそうな表情は、全く別の人みたいで。いろんな顔をするあなたが羨ましくて、私にはとても素敵に見えるんです。

 それと、実は私もうすぐ誕生日なんです。

 私の誕生日は、七月十五日。多分、この手紙があなたに届く次の日になると思います。

 もしよければ、この日に公園のベンチに来てください。いつもあなたが本を読んでいるあの場所です。時間は夕方。六時頃に。

突然こんな手紙を送ってしまってごめんなさい。でも、私あなたに伝えたいことがあるんです。


 箕楊椎菜さん。私、あなたに会いたい。






 椎菜はそっと手紙を机に置いて、どう捉えていいのか分からないその内容に身を強張らせた。


 ――――なんだろう。これは。


 どうしてこんな手紙が自分の所に送られてきたのか。哉沢紫在とは、一体誰なのか。

 名前から考えればきっと女の子だ。文体からしても可愛らしさが感じられる。それに、その可愛らしさには幼さが含まれているように思う。

 だがしかし、手紙の出だしから不気味な気配を放つ一文が。所々には、会ったことも無い自分のことを知りすぎているような一文が。

 自分と知り合いの、女の子。心当たりがない訳ではない。椎菜が通っているあの公園にやってくる子供たち。あそこで以前に会っていたと考えれば、椎菜のことを知っていたとしても不思議ではない。名前だって聞かれれば答えるし、人づてに聞くこともできるだろう。

 ただ、気になるのはどうやってこの家の場所が分かったのかということ。宛先が書かれていないこの手紙が郵便受けに入っていたのなら、直接差出人が家まで来るしかない訳で。わざわざ、手紙を送るために調べたのだろうか。

 こんな面倒なことをしなくても、いつもの時間に公園に行って直接会えば済む話なのに?


「夕飯できたよー。お父さん呼んできな」


「……、はーい」


 椎菜は母親の声に我に返り、手紙を持って部屋にいる父親を呼びに居間を出た。

 気になることは、もう一つ。

 この手紙の差出人が、椎菜に会いたがっていること。

 それも、七月十五日。明日の夕方六時に。

 悶々としつつ、自分の部屋に手紙を持って行ってから、椎菜は父親の下へと向かった。






「椎菜。お風呂上がったらちゃんと電気消しな。点いたままだったよ。駄目じゃないか」


 私を叱る怒鳴り声。目を閉じて、私はかつてこの家にいたあの人のことを思い出す。


「うるさいなぁ、ちょっと消し忘れただけでしょ。そのくらいなら平気だってば」


「平気じゃない!ほら、戻ってきな!椎菜!」


 とても優しかった人。厳しかったけど、それも今思えば優しさからくる物だったに違いない。


「椎菜!!」


 ずきりと胸が痛んで、私はそっと目を開けた。






 夕食も入浴も済まし、寝るばかりの態勢でありながら私は未だ自分の部屋に戻らずにいた。

 二階建ての家である私の家の、一階にある和室。私はそこにいた。

 私の目の先には部屋に設けられた仏壇があって。仏壇に置かれた写真に写っているのは、年老いた女性。

 私の、お婆ちゃん。

 私は仏壇に線香をあげて、その正面に足を抱えて座っていた。

 例の手紙を、手に持って。


「……」


 私は祈る。死んだ人に誰もがそうするように、手を合わせることはしなくても、あなたへ向けて心の中で言葉を贈る。

 死んでしまったあなたの人柄のことだとか、父や母の最近の様子だとか、今日あった出来事だとか。

 私は尋ねる。

 今日貰ってしまった手紙のことを。もしあなたがこの手紙を貰ったのだとしたら。あなたなら、どうしますか。

 私の大好きだったあなたは。私のことをあんなに可愛がってくれていた、あなたは。

 手紙に記されている通り、差出人に会いに行く?それとも、怪しいからって無視をする?

 きっと、あなたは会いに行くんでしょうね。優しかったあなたのことですから、少しくらいの不安なんて振り払ってしまうに違いありません。この手紙の主が本当に自分に会いたがっていたとしたら、待ち合わせ場所で一人ぼっちにさせてしまうのだから。

 私が背負った後悔は、今もまだ消えません。きっとこれからも、消えることはないのでしょう。あれ以来、私は自分を許すことができないでいます。

 今、あの時と同じ痛みが、心に浮かんでいるのが分かるんです。この痛みは、私に逃げることを許しません。

 あなたがもしもまだ生きていて、こんなに悩む私を見たとしたなら。

 あなたはきっと、怒るに違いありません。この心の痛みの消し方を、教えてくれるに違いありません。

 けれど。けれど――――

 あなたはもう、何処にもいないから。

 私はこの一歩を、踏み出せずにいるんです。


「椎菜」


 お父さんの呼ぶ声が、私を思考の暗闇から連れ戻す。

 和室に入ってきたお父さんが私の隣に立っていた。和室にこもったきり、しばらく出てこなかった私を心配して、様子を見に来たのだった。


「……、椎菜は本当にお婆ちゃんが大好きだったんだな」


 そう。そう。

 大好きだった、お婆ちゃん。

 私の一番大切だった人。尊敬する人がいるかと聞かれれば祖母と答えるし、事実、とても優しくて立派な人だった。

 隣にいてくれなくても、素敵な思い出として心の中に生き続けるはずだった。

 でも、そうはならなくて。

 お婆ちゃんのことを思い出すと、脳裏に浮かぶあの日の出来事。

 お婆ちゃんが死んでしまったあの日。私は、一生の後悔を背負うこととなった。他の人からしてみれば、私が思っている程大したことではないのかもしれない。

 でも、でも。

 私は自分の小さな反抗心が招いたこの後悔を、どうしても拭うことができずにいる。

 だから、私は時折思う。

 こんなに苦しいのなら、どんなに頑張っても償うことができないのなら。


「……。お父さん」


「ん?」


 いっそ、死んでしまいたいと。


「……。なんでもない。おやすみなさい」


「おやすみ。椎菜」


 明るい部屋から暗い廊下に出た私に届いたお父さんの声が、なんだか暖かに聞こえた。






 二階にある、椎菜の部屋でのこと。

 ベッドの上で、椎菜は手紙を何度も読み返していた。夜は更け、既に朝が近づいているような時間だ。

 椎菜は眠れないまま、夜通し手紙に目を通し続けていたのだった。

 綺麗に横に揃えられた可愛らしい字は、何度見ても美しい。読みやすくはっきりした文字からは、差出人の女の子がこの手紙を一生懸命書いている姿が思い起こされる。

 不審な点は多々あれど、書き手の心遣いを確かに感じた。

 けれど、呼び出されて実際に会うとなればまた違った不安が湧き上がるわけで。

 誰かのいたずらだったり、いざ行ってみれば恐い人が待っていたり。

 漠然とした不安は尽きることなく心の底からやってくる。


「どうしよう……」


 思い悩む椎菜はベッドに身を埋め、行こうか行くまいか決めかねていた。

 明日は佳代と美琴と遊びに行く約束をしている。

 だが、遊びに行ったとしても、夕方には暇を作れないことはない。

 行こうと思えば、行けるのだ。


「……」


 でも、やっぱり。


「……、困ったなぁ……」


 この不安は、拭えない。

 心の隅で、彼女はまだ祖母のことを想っていた。死に際の祖母の顔を思い出しながらも、微睡んで。

 椎菜はやがて目を閉じて、明るくなり始めてしまった窓からの光を受けつつ、ベッドの中で眠りに落ちた。






 真っ白な世界。私は真っ白な地面に立って、真っ白な空を眺めていた。見渡す限り続く白の大地には何もなく。ただ地平線が影を背負って、遠目に在るだけの景色が広がって。

 恐くなる程静かな世界で、私は独り、そこにいた。


「泣いても、いいんだよ」


 誰かの声に振り向けば、何時の間にか背後に一人の男性が立っていて。


「逃げ出しても、いいんだよ」


 男性は真っ白なスーツに身を包み、その顔には白く濃い霧がかかって、その表情は窺がえない。


「諦めても、いいんだよ」


 男性はナイフを差し出した。

 刃も柄も白一色の異様なナイフ。

 刃を指で摘まみ、柄を掴めと言うようにこちらへ向けられたナイフは妖しく光っていた。

 私は手を伸ばした。

 男性が差し出すナイフを、手に取ろうと。

 今、この手に――――

 掴もうとしたのに、私は体の動きを止めていた。何故なら、私の服が後ろから引っ張られるのを感じたから。


「本当に?」


 私の後ろに、小さな女の子がいた。

 綺麗な金髪が目に留まって、私がその子の顔を認識する前に。


「本当に、それでいいんですか?」


 私は朝の冷えた空気と、けたたましい目覚ましのベルの音に目を覚ました。






「どしたのみよしー。なんかぼーっとしてるね、昨日から」


 美琴にそう言われるや否や、椎菜は喫茶店の看板に足をぶつけ悲痛に呻いた。

 住宅街から一時間バスに乗って駅前バス停で降りると、ここ一帯では大きめの街に着く。

 住宅街に住む人が買い物やら遊びに行くとなれば、大半の人がこの街にまで来なければならない。

 学生の身である椎菜たちも、休日になれば当然遠出をしようというもので。

 人の往来が激しい街中をひとしきり回った彼女たちは、次に行く場所も決めずにぶらついていた。


「なんかあったの?もしかしてまた誰かに告られたとか?」


「またストーキング被害か!」


「そうなら私が追い払ってあげるよ?」


「違う違う……」


 佳代の突拍子もない心配に顔を赤くして否定した。以前椎菜に付き合ってほしいと告白し断られてしまった男子が、後日椎菜にしつこく付き纏ったことがあった。

 椎菜にとってあの時の佳代の怒りぶりは筆舌に尽くしがたく。男子を殴り蹴り、土下座させて謝らせるという、被害者の椎菜が何故か男子に同情してしまう顛末があって。

 それ以来椎菜は佳代の前ではできるだけ男子の話題を避けてきた。勿論、彼女に助けてもらった感謝はしているが。

 椎菜がぶつかったついでに喫茶店に入ることにした三人。席について一呼吸置いて、椎菜は二人に例の手紙の話をすることにした。

 二人は椎菜が鞄から取り出した手紙を見せられ、心配そうに椎菜を見た。


「怪しいなぁー。怪しいよぉー」


「大丈夫?行くの?それ」


 椎菜は暫し悩んで、答えた。


「どうしようかな……。正直まだ分かんない」


「でも、もう時間ないよ?ここからあの公園までバス使っても一時間くらいかかるでしょ?」


「うん……」


 現時刻は五時を目前にして、決断するなら今しかない。

 行くのか。それとも、行かないのか。


「別に行かなくてもいいんじゃないのー?だって知らない人なんでしょ?なんか危なそうだし」


「でも、これ書いたのが本当に女の子で、椎菜に会いたいだけだったら可哀想じゃん。待ち合わせすっぽかされる訳だから」


「いいと思うけどなー。あっちが一方的にしてきた約束だもん」


 二人の友人も意見が割れた。

 誰がなんと言おうとも、最後に決めるのは椎菜自身。椎菜の頭に浮かぶのは、二年前に死んでしまった祖母の顔だった。       

 昨夜と同じに、椎菜は祖母との記憶に答えを求める。

 椎菜はどちらを選ぶだろうか。

 の中でささやく思い出は、彼女に何と言っているだろうか。

 あの日の後悔を思い出す。

 高校受験のあの日。椎菜が受験を終え家に帰ると、そこに在ったのは魂の抜けてしまった祖母の亡骸だった。

 椎菜は永遠に忘れはしないだろう。遺体の顔に掛けられた白布を取った時の、あの心の痛みは。

 永遠に消えはしないのだから。絶対に。

 だからこそ。

 佳代と美琴が見守る中、椎菜はついに決断の一言を発した。


「私……、行ってくる」


「おお!」


「え、本当に?」


「ごめんね、せっかく遊びに来たのに……」


 佳代と美琴は顔を見合わせ、明るく笑って。


「気にしなくていいよ。でも、一応後で様子は見に行くから」


「行ってきな!」


「ありがとう。これ、お金。御釣りはいいから、払っといて!」


 机に千円札を置いて、椎菜は店から飛び出した。残された二人は店内の静けさに身を戻して、それぞれ自分のカップを傾けた。


「まぁ、行くだろうなーって気はしたけどねー。本当に行くもんねあの子は」


「なんだかんだでお人好しな性格強いから、あいつ」


 バスに乗り込む椎菜を喫茶店の窓から見送りながら、二人は世話の焼ける友人の幸運を祈った。






 時刻六時。椎菜は待ち合わせ場所の公園にいた。

 夕方の公園には珍しく子供の姿はなく、しんと静まり返った公園は嫌に空気が張りつめているように感じる。つつじの花が鮮やかに、夕暮れの中たゆたって。

 しかし公園には、まだ誰もいなかった。約束の時刻、約束のこの場所には椎菜の姿しかありはしない。

 ベンチに座り、待ち人を待つ。時間が着実に過ぎていく公園で、椎菜は何時手紙の人が来てもいいよう身構えていた。手に汗が滲む。頭の中が凝り固まっていくのが分かる。

 大きく脈打つ心臓の音を聞きながら、ベンチにて、かの差出人の正体を知るために。

 けれど。

 その人が現れることは、なかった。待ち続けること二十分弱。約束の時間はとうに過ぎ、椎菜は最早これ以上待つことは無駄であると悟った。

 落胆したような。安心したような。ベンチの背もたれに思い切り寄りかかり、椎菜は手紙の正体に改めて思いを馳せた。

 結局、誰かの悪戯だったということなのか。気合いを入れてきた自分が馬鹿みたいだ。昨日から延々と悩み続けたというのに。手の込んだ悪戯をしてくれたものだ。御陰様で、この有様じゃないか。疲れて、眠くて、仕様がない。

 ベンチの向かいに大きな山、その中腹に建つ家が目に入って。ああ、これが佳代の言っていた家か、なんて思いながら。ベンチの後ろのつつじの香りに今更気がついたりして。

 緊張から解き放たれた椎菜は、公園のベンチで思わず目を閉じてしまう。昨晩ろくに眠れなかった彼女の体力は限界で。安心した隙を突いて、全身の疲れが彼女を襲う。

 こんなところで眠ってはいけないと思ったけれど、それでも意識は眠気の底に沈んでしまって。

 そして、椎菜は。

 箕楊椎菜は。ぼやける視界に、宵の明星が輝くのを最後に見て。

 

 何者かが待つ、長い長い夢の中へと。落ちて行ったのであった。












Prologue End






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