朱き決意
赤い
温い
水
後ろ
声
大切な
家族
母上?
「……えっ?」
生ぬるく湿った感触が、終の背中に広がっていく。絶えず背中に滴るそれが何なのかは、確認するまでもなく分かっていた。
声はもう聞こえない、聞こえたところで今の彼にはどうでも良かった。
「ハァ!!」
「グア!」
また、何かが切れる音がした。先程よりも鋭い、誰のものかよくわかる音だ。次いで大きな何かが倒れる音が聞こえ、その場を静寂が支配した。
後ろから聞こえる、か細い息遣い。そこに誰がいるかなど、彼には振り返らずとも分かっていた。
ふりかえりたくない
その思いと関係なく、彼の視線は、体は、彼女の姿を見ることを選んだ。
長く艶やかな黒髪。幼いころから見続けた大きな背中。
厳しく、優しく、強く、大きい
ただ一人の家族の姿
「…油断……するからだ……馬鹿息子……」
掠れた声から出るのは、かつて慣れ親しんだ言葉遣い。今と過去との違いは、そこに生気があるか否かだ。
縁の膝が折れ、地面に着く。そこには、大きな血溜まりが出来ていた。
「母上えええええ!!!!」
うつ伏せに倒れる縁。その体が倒れる寸前に、終が抱きかかえる形で支える。
縁の姿を正面から見ることになった終は、今まで感じた中でも、最も強い後悔の念を抱いた。
肩から脇腹に一直線に入った切り傷。深く切り込まれた傷は、誰の目から見ても致命傷だった。傷口からはドス黒い血が止め処なく溢れ、彼女の命の刻限を奪っていく。
「母上!しっかりしてください!母上!!」
「そう…騒ぐな……傷に響く。」
かつて、漢中に赴いた際、一人の医師と知己になった。不可思議な道術を用いるその男は、あらゆる奇病難病を治した実績を持っており、道術だけでなく相応の医学の知識もまた用していた。
何かの役に立つときはあるだろうと、触り程度には教わっていた。傷に関する知識は大まかに理解していたし、ある程度のものなら応急処置もできる。
だからわかってしまった。もうたすからないと
どれだけ手を尽くそうとも、心臓まで届く致命打を癒やす術を、終は持っていない。ただ、流れ続ける血を、何も出来ずに目にすることしかできない。
(もっと深く学んでいれば……)
もし、彼に医術を教えた人物がこの場にいたなら、僅かな可能性であっても救う手立てを思いつけたかもしれない。だが、この場には終しかいない。可能性は潰えた。
「なんで……なんでなんだよぉ」
抱き上げて初めて分かる、細く痩せ衰えた体。背中合わせに戦っている間には気付けなかった、明らかに衰弱仕切った姿。例え賊が襲って来なくとも、縁の寿命は尽きていたであろうことが、容易に分かってしまう。
「なんで病のことを隠したんだよ……なんでそんなボロボロで俺を行かせたんだよ………!」
手遅れだったのだ。ずっと前から、何もかもが遅すぎた。
それは、誰に聞いても仕方がなかったとしか言えないだろう。だがだからこそ彼にとってそれは認め難い事実だった。
当たり前だ。ただ一人の家族が、どうあがいても助からなかったなど、誰であっても認められるわけがない。
「……かっこ、つけたかったのさ。」
後悔と無力感の中、絞り出すように吐露した彼の問いに対する答えは、あまりにも単純なものだった。
「お前の前では、死ぬまで、カッコいい母でありたかったのさ。」
「そんな下らない理由で……!」
「私にとっては、それが何よりも大事だったんだ。」
実に簡潔で、実に安直な答え。しかし、そこに籠もる思いは、決して安いものではない。
カッコつける
ただそれだけのために命を張るだけの価値を、縁と言う女傑は見出した。そして、それは死を目前にした今でも護られている。顔から血の気が引き、やせ衰えた体で、それでもなお瞳から輝きを失わず死のうとする姿は、終が理想とする誇り高き武人であり、尊敬する『母』の姿だった。
だからだろう。
真実を知ってしまったから、あまりにも理想的な姿であったから、それが『演技』であったのではないかと疑ってしまったのは
「……それは、あなたと俺に血縁がないのと、関係があることですか?」
意図せずして口から出てしまった言葉に、縁は微かに目を見開く。『なぜそのことを』と言いかけ、すぐに誰から聞いたのか思い至る。
「………そうか。信が逝ったか。」
終と縁の関係を知る唯一の存在。口が堅い彼女が、彼にそのことを伝えたと言うことは、つまりそういうことになってしまったと言うことだ。終は否定も肯定もせず、ただ黙して俯く。それが彼女の問いに対する、何よりも能弁な答えだった。
ポツリと雫が一つ、縁の頬を伝う。
ぼんやりとした視界の中で、彼女の目が捉えたのは、かつてよく見た『息子』の泣き顔だった。
年相応の普通の少年。泣き虫で頼りない子供。だが、彼はそれが許される人間ではなかった。だから、理不尽と自覚できるほどに厳しく接したことが多々あった。当然それが理由で泣かれた数など今更数えきれないほどにある。
だが、それでも彼は、本心から彼女を母と慕った。恨まれても良いとさえ思っていた縁にとって、それは予想外のことであり、望外の喜びだった。
「……はっ」
懐かしさと呆れから、小さく笑みを零す。
どれだけ時が経とうとも、どれだけ強くなろうとも、終は終のままであると
この世で最も愛おしい、泣き虫で優しい自身の息子。
縁は、宥めるようにその頭に優しく掌を乗せた。
「子の前でカッコつけたいのは、親ならば誰でも思うことだ。そこに血の繋がりなんぞ関係ない。」
初めはただの責務だった。
国の未来のため、政争に破れた主のため、この赤子を強く育てる。ただそれだけの、言ってしまえば事務的な感情しか持ち合わせていなかった。
多くの苦労があった。
戦場と政争に身を起き続けた彼女にとって、子育てとは全く未知の領域であった。時や場所などお構いなく泣き、少し目を離せば何をするか分からない。生まれからは想像できないほどに、非常に手を焼く赤子であった。
何度も叱った、何度も泣かせた、良いことをすれば褒めた、落ち込めば慰めた。
常に何をさせるべきか考えた。常に何をするべきか考えた。常にどうするべきか考えさせた。どうするべきかを考えさせられた。
そうして何時しか、彼から『友』の面影を見なくなり、気がつけば、母と呼ばれることを当然のこととして受け止めていた。彼女にとって彼は、たった一人の大切な息子になっていたのだ。
「お前は、血の繋がりがないだけで、私を他人と見るのか?」
「そんなはずない!!!」
彼女の問いに、声を大にして否と答える。
当然だ
なぜなら
「母上は母上だ!!!何があろうと!!!!
あなたは俺の母だ!!!!!!!」
大気を震わす、竜の咆哮
ただ一人の『家族』に向けた、親愛の心
如何なるものをも貫く鉾は、縁の中の矜持と言う盾を貫いた
「……ハハ…面と向かって言われると……ああ……存外、悪くないな……」
縁が小さく笑みを零す。自身に満ち溢れた、いっそ傲慢とも受け取れる力強い笑みではない。威厳に満ちた武人としての姿は、その一言を聞いて消え去った。
そこにあるのは何処にでもいる、子を思う優しい母だった。
雫が一つ、地に落ちる
それは数を増やし、やがて雨となった。雨は、村に着いた火をかき消すように強さを増し、血に濡れた二人の体を洗い流して行く。
「……他にも、話さなきゃいけないんだが……もう、時間がない。」
抜け落ちる血の量が減っていく。血で隠れていた大きな切り口が顔を覗かせていた。
命尽きるまで、後わずか
その時間を無駄には出来ない
「……終……皇甫嵩に……会え」
途切れそうになる意識を、持ちうる全てを込めて繋ぎ止める。途切れそうになる言葉を、戦場に居たとき以上の心持ちで、絞り出すように、だが確かに耳に届かせるように口にする。
「あいつに私の……『朱儁』のことを聞け……それで……全てがわかる。」
朱儁
それが、終の母である彼女の真の名前
その名が持つ意味を彼は知らない
分かるのは、それが母の真の名であるということだけだ。
「……はい……わかり、ました」
声が震えないように、噛み締めるようにして言葉を紡ぐ。
体に打ち付ける雨の量が増えた。
周囲の火は、既に掻き消えていた。
「……できる……ことなら……お前の旅の話を……ゆっくりと聞きたかった……」
そっと頬に手を添えられる。
とてもやさしい、女性らしい手つきで
それは常の彼女らしくない
確かな『母性』を感じさせた
「…ごめん、な……終……」
謝罪の言葉と共に浮かぶのは
達観と後悔からは程遠い
何処までも晴れやかで
何処までも穏やかな
確かにやり遂げた者がする
大いに満足しきった、優しい笑顔だった
「母上?」
糸が切れたように、頬から滑り落ちる手。
その手が地面に落ちないように、空いた手で軽く握る。
「母上」
縁に呼びかける
何度も
何度も
何度も
何度も
「はは―――」
だが、どれだけ呼びかけても、返事が返ることはなかった
「――――あ」
頬を伝ったのが雨だったのか
「ああ――――」
それとも涙であったのか
「あああ――――!」
答えを知るものは、もういない
「━━━━━━━!!!!!!!」
全てを飲み込む豪雨の中に
身を切り裂くような竜の慟哭が轟いた
音が聞こえる
懐かしい、故郷の風の音だ
肌に当たる感触はない
恐らく、天幕の中で寝かされているのだろう
(帰る家は、もうなくなったからな。)
「起きろ、バカ息子」
耳元で容赦なく放たれた罵声に、終は反射的に飛び起きた。
有り得ない
あり得るわけがない
視界に収まったその人を見ても
信じることはできなかった。
「ようやく起きたな。」
鮮やかな黒髪
女性にしては高い背丈
そして、すべてを射抜くような力強い瞳
「母上?」
己が意識を失う前、確かに腕の中で息絶えた家族が、何事もなかったかのようにそこに居た。見た目も病に侵されているとは思えないほど肌艶がよく、むしろ別れる前より元気になったように見える。
「本当に母上なのですか?」
「私以外の何に見えるというのだ。」
余りの都合の良さに出た問いは、呆れた様子を隠しもしない縁の言葉に切り捨てられる。
「帰って早々に挨拶もなしに寝た挙げ句、勝手に人の寝床を使うとは、随分と偉くなったものだ。背丈に合わせて態度もでかくなったようだな。」
次から次へと放たれる言葉は、呆れの中に若干の怒気と、近しいものだけが感じられる、喜びが込められていた。
目に涙が滲むのを感じる。
母が生きている
昔と変わらぬ姿で
自分の良く知る姿で
確かに目の前にいる
それだけで十分だったのだ。
「なんだその面は。私の顔に何かついているのか?」
なぜか泣きそうになっている終の様子には流石に面食らったのか、縁が困惑気味に心配する。初めて見る様子に、終は珍しいものが見れたと帰って早々に得をした気分になった。
「……いえ。ただ、悪い夢を見てしまっただけです。」
滲んだ涙を袖で拭い、そこにある幸せを噛み締める。可笑しな奴だ、と小声で呟くも元気になった終に縁は一安心したようだ。
「まぁいい。説教ならお前の話を聞くついでに出来る。」
いたずらっぽく笑いながら、縁が大きめの瓶を終の前に出す。中からは強い酒の香りがする。
「お前もイケるようにはなったのだろう?折角だ。朝まで付き合え。」
「はい!喜んで!」
欲しかった言葉
欲しかった景色
悪夢の内容すらも忘れて
終は旅の話を縁に語り続けた
「ごめんなさい」
声を聞いた
家族ではない、大切な親友の声
後悔と哀傷の入り混じった、初めて聞く悲痛な声
何度も聞きたいものではないなと、『現実』を見るために閉じていた目を開く。
最初に目に映ったのは、見慣れた天幕の屋根だった。長旅の跡が残るそれは、自身の辿った道のりを思い出させる。肌寒さを感じる、懐かしい故郷の風が入り口から流れれば、焦げ臭さと血の香りが微かに混じった匂いが鼻の奥を擽る。外からは、墓を造っているのか、土を掘る音が絶えず聞こえてきた。
(そう、これが、現実だ。)
間に合わなかった
護れなかった
それが全て
感情が振り切れてしまったのか、終は不思議なほど冷静にその現実を受け止めていた。
「…終」
あるいは、眠っていた自分を見続けていた親友に弱みを見せたくなかったのかもしれない。
「恋……」
「………」
自身のすぐ傍で、ずっと目を覚ますのを待っていたであろう。眠れていないのか、目の下に隈が出来ている。
「……ありがとな。」
間に合わなかった。
護れなかった。
だが、それは出来る精一杯をした結果だ。
それだけで納得できるものではない。すべてを失ってしまった事実は変わらない。それでも、自身の故郷のために奮闘してくれたことに、感謝を述べないわけにはいかなかった。
「もう、大丈夫だ。」
自らに言い聞かせるようにそう言うと、終は状態を確かめるようにゆっくりと体を起こした。
「終様」
今来たのか、それともずっと入り口で待機していたのか。彼女の性分から、恐らく後者だろうと思いながら、第一の臣下に顔を向ける。
頭を深々と下げ、微かに体を震わせている。今まで眠っていた終よりも長く、彼女は村の惨状をその目で見てきた。主の生まれ故郷を護れなかった事実は、彼女の心に深く刻まれた。放置すれば自害しかねない。
「小沙良」
「……」
「状況を、教えてくれ。」
そんな彼女に、終は敢えて最も答えづらい、答えたくないことを聞いた。普段であればこのような傷口を抉るようなことはしない。そうした理由は二つ。この村にいる誰に聞こうとも大差ないと言う予測と、今この場で答えさせた方が彼女の重荷を少しは軽くさせられると考えた結果だ。
終の言葉を受け、小沙良は体を小さく震わせた。自らの失態を己の口から告げるのは、今の彼女にとっては耐え難い屈辱。当然の如く口は堅く結ばれ、本能的にその命を拒絶しかける。
「……承知しました」
だが、彼の臣下としての責務が、彼女個人の感情に勝った。深く息を吸い込み、感情を吐き出すように吐き出すと、ゆっくりと状況を語りだしていく。
「村に蔓延る賊は、悉く討ち果たしております。逃げたものも璃空殿以下数名が一人残らず討ち果たしました。その後に崩壊した村内にて生存者の捜索を行いましたが……生き残りは一人としておりません。今は、供養のために皆で墓を造っています。」
やはりと言うべきか、語られたものは耳を塞ぎたくなるようなものだった。荒れ狂う感情の波が内を駆け巡り、本能のままに暴れさせようと心を蝕む。それを無理矢理抑え込むように、終は両の手を固く握りしめる。あまりにも強く握ったため、皮が破け血が滲み出ていた。
「……それと、賊を一人捕らえております。何かしらの情報は得られると思いましたので、勝手ながら貴方様の命に背きました。」
それで全てを話したと言うように、小沙良は深々と頭を下げる。理由はどうあれ、命に逆らったことに対する罰を待っているようでもあった。
「……そうか。」
終は憤りも落胆もない、どこまでも平坦な短い言葉を返す。実際、特段気にしていなかった。明らかに数で劣る状況で、賊を殲滅するなど、冷静になって考えれば無謀であるとわかるからだ。それを実行し、先を考えた行動を取れたことは、称賛に値するものである。
だが、命を無視して勝手なことをしたのは事実。終がどう思おうと、彼女は称賛の言葉を頑として受け取らないだろう。
「連れてこい」
それが分かったから、深く追求することも否定することもせず、短く新たな命を下した。小沙良は驚いた顔で終を見るも、既に立ち上がって自身の前にいる終は、常とは比べ物にならない威圧感を放っていた。その姿を見て、彼女は口を挟むことは出来ず、ただ黙して頷くことしかできなかった。
「ひ、ひぃ!お願いします!!命だけは!!」
「大人しくしろ!」
それから少しして、賊は終の前に連れてこられた。恥も外聞もなく命乞いをしながら、身を捩ってその場から逃げ出そうとするのを、小沙良が縄の締め付けを強くすることで大人しくさせる。
「……お前に一つだけ質問をする。それに答えられたら、命だけは助けてやる。」
抜き身の剣を構え、質問する姿は正しく脅迫だ。瞳には一切の光も灯らず、感情豊かな表情も今は完全に『無』の様相を呈している。終が目覚めたことを知って、村に居た全ての人間がその場に集まっていたが、ある一定の距離から一歩を踏み出せずに遠巻きに見守ることしか出来ない。それほど、今の彼は恐ろしかった。
「い、いいますいいます!!なんでもいいます!!」
そんな彼の圧にただの賊が耐えられるわけがなく、顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら、藁にもすがる思いで答える。
「この乱を起こした首謀者がいるだろう。そいつの名前と居場所を教えろ。」
「ゆ、幽州の張純だ!!何処にいるかは知らねぇが、幽州からは出ていねぇはずだ!!」
淡々と問を投げる終に、賊は間髪入れずに答えた。恐怖に満ちた顔からは、嘘を言っている様子はない。
「反乱を起こしたのは張挙だと聞いたが、違うのか?」
「詳しいことは知らねぇ!!俺が聞いたのは張純が始めたってことだけだ!!」
捌から聞いた情報との差異を指摘するも、これもまた嘘を言っている様子はない。
(首謀者が複数いるのか、二人のどちらかなのか………)
捌の情報に絶対的な信頼を置いているため、まだ彼女が掴んでいない情報であると終は判断した。最優先で討つべき対象が一人から二人に増えただけなので、深くは考えずその名前だけを記憶する。
「なっ?正直に話しただろ?頼む!命だけは━━━」
「ああ、約束だからな。」
その言葉を聞いて、賊が安堵の表情を浮かべた刹那。終の足が賊の顎を蹴り上げた。鈍い音がその場に響き、受けた賊は数秒間空中を浮遊した後に仰向けに倒れた。
「璃空、こいつが勝手に死なねぇよう縄を噛ませろ。処罰は近場の役人に任す。」
「はっ」
約束は約束である。身動一つしていないが死んではいない。ただ、それが今か後かと言うだけのことだ。故郷を焼いた一味に掛ける情けなどない。精々、自らの行いを悔やみながら惨めな末路を迎えればいいと、普段の彼らしからぬ黒い感情を抱いていた。
「小沙良。」
「はい」
「…皆の墓まで、案内してくれ。」
先ほどまでの憎しみに満ちた声から一転して、弱々しく哀愁に満ちた声になる。感情が一定にならないその不安定さから、彼が本当の意味で立ち直っていないことは明白だ。そんな彼に追い打ちを掛けるような真似は、例え本人の願いであろうとも躊躇いを覚える。
「…承知しました。」
それでも、是以外の言葉を彼女が口にすることはなかった。自身の矮小な甘さで、彼の覚悟を邪魔するべきではない。これは、臣下としてではなく、終と言う人間を知るからこそ出せた答えだった。
〜廃村・郊外〜
351
その場に建てられた墓の正確な数だ。
彼が村を起つ際の人口が368であった。例え彼が旅立った後に人が増えていたとしても、自身の知己はほとんど死に絶えたと言える。最悪なことに、彼はその全てを見てしまっていた。ここに埋められた人が皆、自身の知己であることを理解してしまっていた。
故に悟る。もうこの目で、懐かしの景色を見ることはないと
「…この村には、な。」
抑揚のない、静かな声で、ポツリと言葉が紡がれる。
「この村には、俺の妹分がいたんだ。」
表情に変化はなく、声は何処までも平静。
「名前は趙雲って言ってな。俺を除けば、村で敵うやつがいないほどの槍の扱いが上手いやつだった。」
かつての景色を、かつての思い出を、鮮明に思い浮かべる。
「そいつと約束してたんだ。三年したらここに戻る。そんときは、お前も一緒に連れてってやるって」
涼やかな風。立ち並ぶ家々。笑い合う人々。大切な家族。
「色々寄り道したせいで、時間を掛けちまったけど━━━━俺は、約束を守るつもりで、この村に戻ったんだ。」
懐かしの故郷。帰るべき場所。その残骸に背をむけて
「他の皆にも、母上にも、沢山土産話があった………たくさん、話したいことが、あったんだ。」
終は、351の墓を、その目に写す。
地に足を付け、墓を見る彼は、多くのものが見れば落ち着いた様子を見せていた。だが、その場にいる誰もが、それが上辺だけのものであることを知っている。
終は、折があるごとに故郷のことを良く話していた。
吹き付ける涼やかな風のこと。笑顔に溢れた人々のこと。大切な妹分と、その弟分のこと。そして、誰よりも何よりも大切な、ただ一人の家族のこと。
饒舌にそれらを語る彼の姿は記憶に新しく。楽しげに語る様子からは、どれだけ故郷を思っているのかを伺うことが出来た。故郷の良いところを紹介すると言ったのも一度や二度ではない。隣の州である幽州で乱が起こっているという情報を得たときなど、自慢話を一つ作ると言う名目で即時鎮圧する旨を言うほどだった。それだけ、彼にとってこの場所は、かけがえのない大切な場所だったのだ。
それを目の前で奪われた。そのうえで、もう二度と元には戻らないという現実も突き付けられた。軽々しいことを言って安っぽい同情を向けて良いものではない。
「……終は、どうしたいの?」
今の彼に必要なのは『導』
失ったものに変わる何かが必要だ
しかし、それは彼が自身で見つけなければならない。
恋は、そのきっかけを与える意味を込めて終に問を投げた。
「……母上は言った。皇甫嵩に会い朱儁のことを聞けと」
「……!」
朱儁の名を口にした瞬間、雪蓮が微かに驚いたような反応を示すも、誰もそれに気づくことはない。
場の空気が重くなる。他者を脅すためのそれではない。覚悟を決めた者だけが出せる、特有の威圧感と言うべきものが彼から漂い始めていた。
「では、そのようにするのですか?」
「母上の最後の言葉だ。皇甫嵩様には、何時か会いに行く。」
「……それは、今ではないと言う意味ですね。」
凛空の言葉に小さく頷きを返し、終はふと空を見上げた。
雨は止み、されど雲は晴れず、微かな隙間から指す光がその向こうに青空があることを示す。まるで、これから彼が歩む道を思わせるような空模様だ。
「今、こうしている間にも、こんなことは続いている。これを放って自分のことを優先しちまったら、それこそ母上に合わせる顔がない。」
墓に背を向け、前を見据える。
それは戻らない過去への決別を意味していた。
「一刻も速く、この乱を終わらせる。俺のことは後回しだ。」
戦の時ですら見せたことのない、陽炎を錯覚させる程の闘気を身に纏いながら、力強く宣言する。静かに放たれた言葉は、確かに彼の思いを乗せて、その場にいた全員に届いた。彼に付き従った者は皆膝を付き恭順の意を示す。その様子を見た友人二人は、彼の決断を支持するように沈黙を保った。
「恋。雪蓮。約束を破るようで悪いが、返事が長引きそうだと伝えておいてくれ。今の俺に、答えを出す余裕はない。」
「……わかったわ。」
「……(コク」
今の終の言葉に否と答えられる訳が無い。二人が短くも明確な返答を返すと次に跪く配下二人に意識を向ける。
「小沙良。璃空。」
友人と比べれば付き合いは短いながらも、この二人がどういった人間かは良く理解していた。何処であろうと、何があろうと、己の信念に従い自身に忠を尽くすと
だからこそ、本心を伝えなければならなかった。己がこれからなすことを、その真意を語らなければならないと
「……それっぽいことを言ったけどよ。本心を言えば、これは復讐だ。俺の故郷を焼き払い、母や村の人達の命を奪った連中への報復だ。そこに大義も正義もない。」
それでも付いてきてくれるか?
終の問いかけに二人は顔を上げる。一切の迷いのない澄んだ瞳は、はっきりと彼の姿を写していた。
「……終様。あの日、あの時、あなた様に救われたときから、この身を捧げる覚悟は出来ております。」
現地の役人すら見捨て、賊が跋扈する底辺地方。その中において、最も貧しいと言われた自身の村。ある日、運悪く賊に襲撃されたその村を、何の見返りも求めずに救ったのが終だ。
ただ一人で賊を討ち取り、勢いそのままに周辺に蔓延っていた賊すらも近隣の有力者を巻き込んで討ち果たした。地方には平穏が訪れ、賊が貯めていた財物のおかげで飢えに苦しむ事もなくなった。その恩恵は、彼女の年老いた両親にも施された。
ただ一人の行動で、多くが救われた。明日生きることにすら不安を持っていた者たちに、希望を与え、笑顔を宿した。その景色を見たとき、彼女は確信したのだ。彼こそが、自身が仕えるべき主であると
「この張任、改めてあなた様に忠を誓います。」
主の決意を全力で支えることこそ臣の務め
最初の臣としての覚悟など、とうの昔に済ましている
「…あなたには二度救われた。一度目は戦場でこの命を、二度目は天水で大切な家族をーーー」
もし、戦場で出会ったのが彼でなければ、家族を救う機会を得ることも出来ず無為に命を散らしていた。あのとき、自身の命を狙われたにも関わらず、笑って手を差し伸ばした彼の姿は、璃空の心に強く刻まれている。
「あなたに受けた恩は、まだ返しきれていない。ここで退くほど、やわな覚悟はしていない。」
元より戦場で拾われた命
今更覚悟を問うことこそ無粋というものだ
「……ありがとな。」
俺みたいな『偽物』のわがままに付き合わせて
頭に浮かんだその言葉を終は飲み込む。今ここで見せるべきは、己の弱さではないからだ。
視線を二人の背後に向ける。そこには、自分を信じて付き従った54名の戦士達の姿があった。皆一様に跪き、終の指示を待っている。
(重いなぁ)
計56名の命
それを生かすも殺すも、己次第
その重圧が己の双肩に掛かる錯覚を覚え、足が重くなる。
(全部、背負ってみせる。)
もう、弱さを見せられない
弱いままではいられない
「今から俺は、この乱を終わらせるために行動する。その決意の証として、名を変える。」
母の真の姓は朱
ならば、己の姓もまた、朱であるべきだ
「───朱竜」
そして、この名と共に誓いを立てよう
この先何があろうとも
必ず復讐を成し遂げると
散った皆に報いるために
己の道を定めるために
「姓を朱、名を竜。字は元璋。───それが今から俺の名だ。」
この名を持って、供養を終え
この名を持って、天へと誓い
この名を持って、今彼は
三国の時代へ踊りだす




