テディベアな朝
いつもの駅に着いたけれど、何故だか誰もいなかった。
欠伸混じりに歩く学生も、しかめっつらで新聞を読むサラリーマンも、しわしわの顔をしたおばあちゃんも、誰もいなかった。
「……おかしいな」
平日の通勤の時間帯なのに、駅のホームにいるのは私だけ。誰もいない静かな駅は、朝のやんわりとした空気に包まれている。
友達の何人かにメールをしたけど、返信すら無かった。いつもなら起きてる時間だし、返信が帰ってこないというのも珍しい。
セカイにひとりぼっち。
そんな安っぽい表現が頭を掠めて、急に寂しくなった。
「おかしい、なぁ……」
呟きは朝の空気に消えて。
電車が来る様子も無く、本当にセカイから切り取られた錯覚すら覚えて、何と無く目頭が熱くなった。
「おねーちゃん」
そんな時だった。
舌足らずな幼い声が、静かな駅のホームに響いた。思わず振り返る。目を疑った。
「おねーちゃん」
小さなクマのぬいぐるみが、私に手を振っていた。
「テディベアな朝」
「わた、し?」
「うん。ここには、おねーちゃんしか、いないじゃん」
クマのぬいぐるみは小さかった。てこてこと短い足で私の側まで寄り添って見ると、せいぜい私の膝までの背丈だった。
フツーのクマのぬいぐるみ。茶色くて柔らかそうな体毛と、つぶらな黒い瞳。テディベアとでもいうのだろう。黒い瞳が、まっすぐに私を見ていた。
「なんでぬいぐるみが動いてるのよ……」
「いいじゃん」
「……いいの?」
「いいの。ぼくは、クマのぬいぐるみだから。……おねーちゃんの」
その言葉に突っ掛かりを覚えた。私の部屋に、こんなクマのぬいぐるみがあったかどうかは定かではない。
それに私はもう高校生だし、買うならもっと好みにあった物を買うだろう。クマのぬいぐるみは、ひどく幼く見えた。
「私、あなたみたいなぬいぐるみ持ってないけど?」
「でも、ぼくは、おねーちゃんのぬいぐるみ。おねーちゃんのなまえも、おねーちゃんがすんでるところも、おねーちゃんのことなら、なんでもしってる」
「ホントに?」
クマはコクリと頷いて、自分の胸をぽふんと叩いた。何でも聞いてみろ。そんな風に見えた。
だから私の事をいくつか聞いてみて……、それに対して全て正確に、舌足らずに答えるものだから、私はびっくりした。住所をきっちり言われた時には寒気すら覚えた。
「どう?」
「……お見それしました」
「わかればいいよ。ねぇ、おねーちゃん、おはなし、しない?」
私の足をぽかぽか叩きながら、クマはそんな風に言った。柔らかい感触が心地よくて、なんだか落ち着く。
「話?」
「おねーちゃんとおはなし。したいな? いい?」
「別にいいよ。あ、電車が来るまでなら」
駅のホームには相変わらず誰も来ない。私とクマだけがそこにいる、不思議なセカイ。
だけど私はそれが嫌じゃなくて、だからベンチに座って、クマと話す事に決めた。
クマを座らせるために抱き上げた時に感じた柔らかさは、どこか懐かしい気がした。
「おねーちゃん」
「うん?」
「おねーちゃん、ともだち、いる?」
いきなり高度な質問だったから、ちょっとだけ答えに詰まってしまった。友達。私にとっての友達。色んな人の顔が浮かんでは消え、浮かんでは消えた。
「いるよ」
「どんなひと?」
「うーん……。一口には言い切れないんだけど……。そうだね、色んな人がいる。元気だったり、不思議だったり、落ち込みやすかったり、つんつんしてたり」
「たのしい?」
「楽しいよ。あ、喧嘩とかしたりするけど、一緒にいて話したりしてると、やっぱり楽しいかな」
嘘は無い。偽りも無い。けれど自分の背中が、汗で湿った気がした。
「ねえねえおねーちゃん」
「なに?」
「おねーちゃんは、みんなのこと、すき?」
また、答えに詰まってしまいそう。無垢な瞳が私を見ていて、だから視線を外せない。まっすぐなつぶらな瞳の奥、私の顔が写っているよう。
「……嫌いなら」
「え?」
「嫌いなら、一緒にはいないよ。好きだから、一緒にいて楽しいから、私はみんなと一緒にいるんじゃないかな。アハハ、よくわかんないや」
さっき浮かんだ人達の事が、好きかどうかは分からなかった。嫌いではない。嫌いじゃない。でも、好きなんだろうか?
朝の空気が重い。肺に満たされるそれが、ざらついているような錯覚がある。胸に手を当てて、ぎゅっと掴んだ。クマのほうは見ずに、ぎゅっと。
「わかんないの?」
「……うん」
「おねーちゃんの、ことなのに?」
「自分の事って、意外とわかんないものなのよ」
「そうなの?」
「私はそう。他のみんなは……、どうかな。多分、そうだよ」
「ねえねえおねーちゃん」
クマの手が私のスカートを叩く。見るとやっぱりつぶらな瞳。黒々と輝く瞳の奥、写る私の表情は、微かに引き攣っていた。
クマはしばらくじっと私を見ている。そして舌足らずな拙い綿菓子みたいな声で、けれどナイフみたいな言葉を、私に躊躇う事なく、突き刺した。
「じぶんのこと、すき?」
掴んだ手が、緩んだ。
「…………わたし、は」
自分の事は、どうなんだろう。自分の毎日を振り返りながら、そんな風に思う。
毎日が楽しいなんて、そんなはずはない。
不意に恐くなって泣き叫びたくなる。朝の駅で感じたみたいに、セカイで私だけがひとりぼっちなんじゃないかと、そんな風に思ったりする。
迫り来るカタチの無い将来が不安だったりする。夢は何だろう。なりたいものは何だろう。曖昧模糊にぼんやりとして、私は何なんだろうって、分からなくなってしまう。
揺れ動く気持ちに振り回される。昨日と今日の私が乖離していて、あんなに元気だった私はいったいどこに行ったんだろうと、幽体離脱したみたいに、足元が消えていく。
私。こんな私。
好き、なんだろうか。
「おねーちゃん?」
無垢な瞳。舌足らずな声。
私は……。
「ごめん。私、分からない」
「……わからないの?」
「分かるはずないの。そんなこと、多分、これからも」
「これから?」
「うん……」
これから私は大人になる。ふわふわふらふらな私のままで、私は世間に放り出させられる。
それが今は、堪らなく怖い。クマの瞳に写った私が、そう語っているのに気付いた。
「ねぇ、クマちゃん」
「うん?」
「クマちゃんは、私のこと、何でも知ってるんだよね」
「そうだよ。さっき、いったじゃん」
「じゃあ、質問」
「どーんとこい!」
「……私はいつ、楽になれるの?」
教えて下さい。
私はいつになったら、私に怯えなくて、済むようになるんでしょうか。
知りたくても見つからない。
考えれば苦しい。
分からないことが怖い。
私は、私に殺されるかもしれない。そんな風にさえ、思ってしまう。
だから知りたい。知りたかった。教えてほしい。楽になりたい。分からない。
「おねーちゃんは」
クマは答えた。
「おねーちゃんは、かわいい」
「……は?」
間の抜けるような、そんな答えだった。
「わらってるかおも、おこってるかおも、たのしそうなかおも、ないてるかおも、おねーちゃんは、ぜんぶ、かわいい」
「えっと、何を……」
「ぼくは、おねーちゃんのこと、しってるから。おねーちゃんは、かわいいよ」
クマはぴょんとベンチから下りて、私の正面に立って笑った。
ぬいぐるみに表情は無いけれど、私には、そんな風に見えた。
「だからね、おねーちゃん」
短い手を振って。
「そのままで、いいよ。いつか、だいじょうぶに、なるひが、くるから」
舌足らずな声で、クマはそう言った。
私は何も、言えなかった。
「……いかなきゃ」
「え?」
「ぼく、いかなきゃ」
それから僅かな後、クマはそう言って歩き始めた。駅のホームをてこてこと歩き、改札口の階段へ向かっていく。私はベンチから立ち上がって、なのに、追い掛けようとは思えなかった。
さっきの言葉が頭でぐるぐる回る。いつか大丈夫になる。いつか、大丈夫に。
「ねえ!!」
大きな私の声が、朝の駅に響いた。クマは歩みを止めて、振り返らなかった。
「ありがとう、ね」
「……だいじょうぶ、だから」
「うん! だから、ありがとう!」
クマが歩き出して、小さな背中はやがて見えなくなる。視界が揺れて、見えなくなったことも分からなくなる。
大丈夫。そのままで、大丈夫なんだ。私は目を強く擦って、朝の空気を思い切り吸った。ざらついてなんかいない、澄んだ空気に満たされていた。
思い出したように、ホームに人が現れる。いつもの日常が、今日も始まる。それが何だか嬉しく思えた。