悪女と呼ばれた令嬢は、傷だらけの狼を拾う
「リディア・アルヴェイン。君との婚約を破棄する」
その声が落ちたとき、大広間にはまだ楽団の最後の一音が残っていた。
弦の震えが途切れる。
次いで訪れた静けさは、音が消えたというより、そこにいた誰もが一度に息を止めたために生まれたようだった。
冬の王宮は冷える。
壁際の暖炉には惜しげもなく薪がくべられていたが、磨き抜かれた大理石の床から這い上がる冷気までは消せない。
巨大な燭台の下で、リディア・アルヴェイン公爵令嬢は立っていた。
正面には王太子クラウス。
その腕には、淡い桃色のドレスをまとった少女が縋っている。
ミレーヌ・ハルシェ男爵令嬢だった。
「君がミレーヌを階段から突き落としたことも、彼女のドレスを故意に裂いたことも、複数の証言がある」
クラウスは言った。
「未来の王妃となるべき者が、嫉妬からそのような真似をするとは思わなかった」
「しておりません」
リディアは答えた。
声は震えなかった。
十年間、それを教え込まれてきたからだ。
公の場では声を荒らげないこと。
背筋を曲げないこと。
感情を顔に出さないこと。
王妃となる女に、取り乱す自由はない。
「認めないのか」
「していないことを認めることはできません」
ミレーヌが小さく息を呑んだ。
「殿下、もうよいのです」
震える声だった。
「きっと私が悪いのです。私が殿下と親しくさせていただいたから……」
彼女の目には涙が浮かんでいた。
雫は落ちず、睫毛の上で揺れている。
よくできた涙だ、とリディアは思った。
そう考えた自分を、少しだけ嫌った。
囁きが広間を渡る。
悪女。
嫉妬深い女。
冷たい方だったもの。
やはり。
その言葉だけが、妙に耳に残った。
昨日まで人々は、同じ性質を節度と呼んでいた。
聡明である。
感情に流されない。
王族の妻に、これほどふさわしい女性はいない。
同じものを、今日は冷酷と呼ぶ。
「承知いたしました」
クラウスが眉を寄せた。
「何?」
「婚約破棄を、お受けいたします」
「……それだけか?」
「ほかに何かございますか」
クラウスの顔に苛立ちが浮かんだ。
「最後まで可愛げのない女だな」
それだけは、痛かった。
胸の奥の、どこにあるのかも知らなかった場所へ、細い針を差し込まれたようだった。
十年。
クラウスが政務を嫌えば、先に資料を読んだ。
外国の使節が来れば、相手国の事情を三枚の紙にまとめた。
彼の失言を詫び、彼が忘れた約束を覚え、彼が苦手な夜会では隣に立ち続けた。
好きな菓子も、好きな本も、好きな音楽も。
いつからか、自分自身の好みよりクラウスの好みの方をよく知っていた。
それでも足りなかったものが、可愛げだったらしい。
「それでは、失礼いたします」
リディアは礼をした。
王妃教育の教師が見れば、きっと満点をつけただろう。
そのまま背を向ける。
扉までの距離が、ひどく長かった。
誰も声をかけなかった。
*
「北へ行きなさい」
公爵邸へ戻った娘に、父はそう言った。
夜半から降り始めた雨が、書斎の硝子窓を細く伝っている。
リディアは外套も脱がずに立っていた。
「お父様も、私が王都にいるべきではないと?」
「逆だ」
父は机の向こうで目を閉じた。
この一月で急に老けた、とリディアは思った。
「お前が何もしていないことくらい、私は知っている」
「では」
「だから行け。今の王太子は正常に物を見ていない。こちらでも調べるが、事実より先に人が動く時というものがある」
父の指が、机を一度叩いた。
「その時、中央にいる者ほど危ない」
「逃げるようで嫌です」
「逃げろと言っている」
父は目を上げた。
「生き延びるために逃げるのは、恥ではない」
その声に、リディアはようやく頷いた。
「階段の件も、ドレスの件も、こちらで改めて調べる。証人を一人ずつ洗う」
「……ミレーヌ様を?」
「誰かを疑うためではない。事実を確かめるためだ」
父らしい言葉だった。
翌朝、リディアは北へ向かった。
北上するほど、空の色が薄くなった。
畑は消え、裸の木々と濃い針葉樹が増える。
道の脇には古い雪が残っていた。
馬車の車輪がその上を踏むたび、乾いた音がした。
別邸は森の縁にあった。
石造りの古い屋敷だった。
王都の公爵邸とは違い、装飾はほとんどない。
屋根は急で、窓は小さい。
夜になれば、風が森を抜けていく音が壁の向こうを渡った。
初めの二日は、ほとんど眠れなかった。
目を閉じれば、大広間が浮かぶ。
――可愛げのない女だな。
三日目の夜、リディアはとうとう寝台を抜け出した。
外には薄く雪が降っていた。
雲の切れ間に月がある。
庭は白く、森は黒い。
その境目から音がした。
低い、苦しげな呻き声だった。
リディアはランタンを持ち、そちらへ歩いた。
雪の上に黒い跡がある。
血だった。
点々と続く跡を追う。
木の根元に、大きなものが横たわっていた。
初めは犬かと思った。
近づいて、違うと分かった。
狼だった。
ただし、リディアが知るどんな狼よりも大きい。
銀灰色の毛は月明かりの下で鈍く光り、右の脇腹から後脚にかけて赤黒く濡れていた。
呼吸は浅い。
「まあ……」
狼の瞼が開いた。
黄金色の目だった。
牙が見えた。
低い唸り声が喉から漏れる。
「分かっているわ」
リディアは足を止めた。
「近づくな、と言っているのでしょう」
狼は唸った。
「でも、あなた、死にそうよ」
さらに低い声。
リディアはその場にしゃがんだ。
冷気がドレスの裾から入り込んでくる。
「困ったわね」
狼の耳がわずかに動いた。
「私も今、人間があまり好きではないの」
黄金色の目がこちらを見る。
「つい三日前まで未来の王妃だったのに、今は悪女ですって」
雪が降る。
細かな粒が狼の背に落ち、融けずに残った。
「だから安心して。あなたが性格の悪い狼だったとしても、今さら驚かないわ」
唸り声が止んだ。
リディアは手を差し出した。
狼は動かなかった。
長い間、ただ互いを見た。
やがて大きな鼻先が近づき、手袋の匂いを嗅いだ。
そして、ほんの一度だけ触れた。
「そう」
リディアは言った。
「では、助けてもよいのね」
狼は返事をしなかった。
だが、もう牙は見せなかった。
*
「刀傷ですな」
翌朝、呼び寄せた獣医が言った。
脇腹の毛を刈った下に、深い傷が三本あった。
「獣同士の争いではありません。人の刃です」
傷口を洗っていた獣医が、小さなものを摘み上げた。
黒ずんだ金属片だった。
「刃が欠けたのでしょう。珍しい鉄ですな」
「珍しい?」
「この辺りの鍛冶屋では、まず使いません。硬いが脆い。北のさらに向こうで作られるものだと聞きます」
リディアは何気なくその破片を見た。
狼は気を失ったままだった。
「助かりますか」
「今夜を越せるかどうかでしょう」
「では、越えさせてください」
獣医は少し驚いた顔をした。
「できる限りのことはいたします」
三日間、狼はほとんど動かなかった。
四日目の朝、ようやく水を飲んだ。
五日目には肉を口にした。
ただし、妙に気難しかった。
リディアが煮た鶏肉を皿に入れて持っていくと、狼は顔を背けた。
「いらないの?」
返事はない。
皿を引く。
黄金色の目だけが動く。
「食べないなら下げるわ」
狼の顔が戻った。
リディアは皿を右へ動かした。
視線も右へ。
左へ。
視線も左へ。
「欲しいのでしょう」
狼は顔を背けた。
「変なところで意地を張るのね」
耳が動いた。
「誰かに似ているわ」
もう一度、耳が動く。
「王太子殿下」
狼は露骨に嫌そうな顔をした。
リディアはしばらく黙り、それから笑った。
ほんの短い笑いだった。
自分が笑ったことに、自分で驚いた。
狼にはノクスと名をつけた。
夜を意味する古い言葉だった。
銀灰色の毛は昼には淡く見えたが、夜になると黒に近く沈む。
「ノクス」
呼ぶと振り向く。
それで十分だった。
傷が癒えるにつれ、ノクスは妙な狼になった。
人の言葉をよく理解する。
扉を開ける前には待つ。
呼べば来る。
食事の時間も覚えている。
ただし、「お手」だけはしなかった。
「ノクス。お手」
狼は窓の外を見た。
「できないの?」
黄金色の目が戻った。
「仕方ないわね」
リディアが立ち上がろうとすると、
どすん。
巨大な前脚が膝に載った。
「……できるじゃない」
狼は顔を背けた。
尻尾だけが一度、床を叩いた。
ぱたん。
「偉いわね」
頭を撫でる。
ぱたん。
「嬉しいの?」
尻尾が止まった。
リディアはまた笑った。
傷が塞がる頃には、ノクスは屋敷の主のように振る舞い始めた。
書斎で本を読んでいると、ページの上に顎を載せる。
「読めないわ」
動かない。
「退いて」
動かない。
本を横へずらす。
その上へ、また顎を載せる。
「わざとでしょう」
狼は目を閉じた。
別の日には、長椅子の八割を占領した。
夜には寝室へ入り込み、当然のように寝台の中央で丸くなっていた。
「あなたの寝床は廊下です」
片目が開く。
「降りなさい」
閉じる。
「ノクス」
無視。
結局、リディアは寝台の端で眠った。
夜半、背中が温かくなった。
目を覚ますと、巨大な狼がぴたりと身体を寄せている。
前脚が腰に載っていた。
「……重い」
狼は眠っている。
たぶん。
リディアはしばらくその横顔を眺めた。
それから、首元の毛に手を入れた。
柔らかかった。
暖かい。
王都を出てから初めて、その晩は朝まで眠った。
その数日後の夜だった。
雨が降っていた。
雪ではなく雨になったことに、リディアは春の気配を知った。
窓を細い雫が流れている。
ノクスは寝台の脇に伏せていた。
リディアは眠れず、天井を見ていた。
「ねえ、ノクス」
耳が動く。
「十年って、長いのかしら」
狼が顔を上げた。
「十年もあれば、子供が大人になるでしょう。木だって随分大きくなる」
返事はない。
「私は十年、王太子妃になるために使ったわ」
暗闇の中で、暖炉の火だけが赤かった。
「なのに、なくなるのは一晩なのね」
声が少し掠れた。
「不思議ね。あんなに頑張ったのに」
頬に何かが触れた。
自分の涙だと分かるまで、少し時間がかかった。
リディアは目を閉じた。
「私、何のためにあんなに頑張ったのかしら」
寝台が軋んだ。
ノクスが立ち上がる。
大きな頭が、そっと寝台に載った。
黄金色の目が近くにあった。
「そんな目で見ないで」
鼻先が頬に触れる。
ぺろり、と涙を舐められた。
「やめて。塩辛いでしょう」
もう一度。
リディアは笑おうとした。
失敗した。
代わりに、また涙が落ちた。
「殿下なんて大嫌い」
誰にも言ったことのない言葉だった。
「可愛げがないって……十年も隣にいた人に、最後に言われることかしら」
ノクスは何も言わない。
言えるはずがない。
ただ、じっとそこにいた。
リディアはとうとう起き上がり、大きな首へ腕を回した。
銀色の毛に顔を埋める。
「馬鹿みたい」
狼の身体は、ひどく暖かかった。
何も慰めなかった。
大丈夫だとも、君は悪くないとも言わなかった。
ただ逃げなかった。
それが、今のリディアにはありがたかった。
やがて泣き疲れて眠るまで、狼は動かなかった。
*
春は、北ではゆっくり来た。
屋根から落ちる雪解け水の音が増え、木々の根元から黒い土が覗き始める。
ノクスの傷も、ほとんど塞がっていた。
だが、不思議なことに森へ戻ろうとはしなかった。
「あなた、もう走れるでしょう」
庭を駆ける巨大な影へ声をかける。
ノクスが戻ってくる。
「いつまでいるつもり?」
狼は答えない。
「まあ、追い出すつもりはないけれど」
尻尾が一度動いた。
ある日、小さな猟犬が屋敷へ迷い込んだ。
リディアがその頭を撫でていると、ノクスが無言で間に入った。
大きな背中が視界を塞ぐ。
「何をしているの?」
動かない。
「この子を撫でているだけよ」
ノクスは座った。
「もしかして、嫉妬?」
耳がぴくりと動いた。
「あなたの方がずっと大きいでしょう」
無視。
「はいはい」
リディアは銀色の頭を撫でた。
「あなたが一番よ」
尻尾が地面を叩いた。
ぱたぱたぱたぱた。
顔だけは澄ましている。
「顔と尻尾が合っていないわ」
ぴたりと止まった。
リディアは声を立てて笑った。
その笑いを聞いて、狼が彼女を見上げる。
何かを確かめるような目だった。
*
一月ほど経った頃、公爵家から二通の書状が届いた。
一通は父からだった。
――階段の件について、当時の使用人の証言に食い違いが見つかった。
――ドレスの件についても調査を続けている。
――焦るな。こちらで進める。
リディアは長くその文面を見た。
もう一通は王都の侍女クララからだった。
――王宮に残していたお荷物の整理が、間もなく終わります。
クララには婚約者時代に使用していた王宮の部屋を片づけるため、王都に残ってもらっていた。
数日後。
今度は王宮から使者が来た。
「リディア様に、王都への出頭要請が出ております」
父からの短い書状も添えられている。
――私も同席する。恐れるな。
リディアは使者を見た。
「容疑は何ですか」
「王家の宝物庫から、戴冠式用の首飾りが盗まれました」
「それが私と?」
「リディア様の侍女クララが、盗難のあった夜、宝物庫に近い回廊を通っていたことが分かっています」
「私の居室から荷物を運び出すためでしょう」
「はい。その許可も確認されております」
「では、なぜ?」
使者は一通の紙を差し出した。
「これが見つかりました」
リディアは受け取った。
クララへ宛てた書簡だった。
王家の首飾りを持ち出すように。
その後の処理はこちらで行います。
最後には、リディアの署名。
筆跡もよく似ている。
「偽造です」
「公爵閣下もそう主張されています」
使者は頭を下げた。
「ですが、正式な聴取が必要となりました」
ノクスが低く唸った。
使者がびくりとして振り返る。
「大丈夫。この子は人を噛みません」
リディアは言った。
たぶん、と心の中で付け加えた。
「それと」
使者が続けた。
「盗まれた首飾りはまだ見つかっておりません。ただ、国境方面へ運び出された可能性があると見られています」
その言葉に。
ノクスの耳が立った。
「何か?」
使者が狼を見る。
ノクスは動かなかった。
「首飾りは、どのようなものですか」
リディアが訊いた。
「大粒の蒼玉が三つ。中央には王家の紋章を象った金細工があります。解体しても石だけで相当な価値がある品です」
ノクスが立ち上がった。
ゆっくり、使者へ近づく。
「ノクス?」
匂いを嗅いでいるわけではない。
使者の話を聞いている。
そうとしか思えない目だった。
その夜、リディアは王都へ戻る支度をした。
暖炉の前にはノクスが伏せている。
「帰らなければ」
黄金色の目が上がる。
「逃げたら、本当に罪を認めたことになるもの」
狼が立ち上がった。
大きな頭を、リディアの膝へ置く。
「大丈夫よ」
首を撫でる。
「父がいます。証拠も偽物です。きっと、何とかなるわ」
ノクスは長く彼女を見た。
その目が、ひどく人間らしく見えた。
「あなたまでそんな顔をしないで」
リディアは笑った。
「帰ってきたら、肉を二枚あげる」
尻尾が一度動く。
「三枚?」
もう一度。
「欲張りね」
その夜、ノクスは寝室へ入ってこなかった。
朝。
狼は消えていた。
裏庭から森へ続く地面に、大きな足跡が残されている。
雪はもうほとんどなかったが、湿った土にはっきり刻まれていた。
北へ向かっていた。
リディアは長くそれを見た。
「……帰ったのね」
傷が治ったのだ。
狼は狼なのだから、森へ戻るのが正しい。
そう思うのに、胸の真ん中に空いたものは、理屈では埋まらなかった。
*
ノクスは夜明け前に国境を越えた。
川沿いの森を北へ走る。
一月前とは違い、四肢には力が戻っていた。
ただし、完全ではない。
傷が塞がったことと、身体の奥まで回復したことは同じではなかった。
人の姿へ戻るには、まだ危険があった。
だから狼のまま進んだ。
王都から来た使者が話した首飾り。
三つの蒼玉。
王家の紋章。
王都から来た使者が口にした首飾りの特徴は、傷を負う前、まだ人の姿で密輸組織を追っていた頃に得た情報と一致していた。
密輸組織が「王族の持ち物」を国外へ運ぶ大口の取引を予定している。
日時までは分からなかった。
品も分からなかった。
その線を追っていた最中、国境近くで襲撃を受けた。
相手が使っていたのは、ヴァルド北部の違法鉱山から流出した黒鉄の刃。
あの夜、脇腹を裂いた刃だった。
狼の姿なら足跡を追える。
人目も避けられる。
そのため自ら偵察に出たが、待ち伏せを受けて部下とはぐれた。
任務そのものが極秘だったため、三十日間は連絡がなくとも捜索を始めないよう命じてあった。
その判断が、死にかけた自分を一月放置する結果になるとは思わなかったが。
そして負傷したまま南へ逃れ、気づけば隣国へ入り込んでいた。
そこでリディアに拾われた。
偶然だった。
だが、王家の首飾りまで同じ組織が運んでいるのなら。
もう偶然ではない。
二日後。
ヴァルド側国境の山中で、ようやく部下と合流した。
「殿下!」
騎士たちは青ざめた。
銀狼の身体に残る傷跡を見て、何があったかを察したらしい。
その夜、人の姿へ戻った。
傷が完全に開くことはなかった。
だが脇腹に焼けるような痛みが走り、立っているのがやっとだった。
「まだ早すぎます」
侍医は怒った。
「分かっている」
「ではなぜ」
「急ぐ理由がある」
王家の首飾りについて部下へ命じた。
三つの蒼玉。
王家の紋章。
国境を越える密輸品をすべて洗え。
翌日、一人の商人が捕まった。
荷馬車の底から出てきた箱には、首飾りが入っていた。
さらに帳簿。
王宮の下級役人への支払い記録。
そして、一通の指示書。
アルヴェイン公爵令嬢の侍女が通る時間を利用しろ。
手紙を残せ。
疑いを彼女へ向けろ。
署名はなかった。
だが、支払いの経路を辿れば、王都のある男爵家へつながった。
あの女は、また疑われるのか。
何もしていないのに。
今度は狼では何もできない。
「王都へ行く」
部下が目を見開いた。
「殿下、その身体で?」
「馬車を使う」
「そういう問題では」
「これは外交案件でもある。盗品が我が国へ持ち込まれた」
嘘ではない。
「正式な使節として行く」
誰も反論できなかった。
*
リディアが王都へ戻った頃には、季節は春になっていた。
北ではまだ山肌に雪が残っていたというのに、王宮の庭には白い花が咲いている。
同じ国とは思えなかった。
事情聴取には父が同席した。
クラウスもいた。
そしてミレーヌも。
「この手紙は君のものではないのか」
クラウスが問う。
「違います」
「筆跡は酷似している」
「似せたのでしょう」
「君の侍女は宝物庫に近い回廊を通っている」
父が横から書類を出した。
「王宮管理官が発行した通行許可証だ。娘の旧居室から荷物を運び出すためのものだ」
クラウスは眉間を押さえた。
「だとしても、リディアには動機がある」
「動機?」
「ミレーヌを恨んでいるだろう」
リディアはクラウスを見た。
不思議だった。
以前なら、この人に信じてもらえないことが世界の終わりのように思えた。
今はただ、遠い。
「殿下」
「何だ」
「今回も、事実より先に私が犯人だとお決めになっているのですね」
「私は証拠を見ている」
「では、その証拠を最後までご覧ください」
その時だった。
広間の外が騒がしくなった。
扉が開く。
黒い軍装の一団が入ってきた。
先頭を歩く青年を見て、リディアは息を止めた。
銀灰色の髪。
黄金色の瞳。
背が高い。
狼でしかないはずだった。
それでも。
分かってしまった。
「ヴァルド王国第二王子、ルーク・ヴァルド殿下」
廷臣の一人が名を呼んだ。
北の隣国ヴァルド。
古くから、その王族には神獣の血が流れていると伝えられている。
一族の一部は、巨大な狼の姿を取る。
昔話だと思っていた。
ルークは正式な礼をした。
「突然の訪問をお許し願いたい。ただ、貴国で盗まれた品について、我が国で押収したものがある」
騎士が箱を置いた。
蓋が開く。
中には蒼玉の首飾りがあった。
クラウスが立ち上がる。
「なぜ、それがヴァルドに?」
「国境を越えようとした密輸商人から押収した」
続いて、一人の男が連れてこられる。
王宮の宝物庫で働く下級管理官だった。
「この男は、数か月前から我が国が追っていた密輸組織へ王宮の品を横流ししていた」
ルークの声は静かだった。
「首飾りを持ち出したのも、この男だ」
「誰の命令で?」
ルークは一通の紙を置いた。
「金の流れを追った。依頼元はこちらの国のハルシェ男爵家に仕える侍女だった」
ミレーヌの顔から血の気が引いた。
「嘘です!」
「まだある」
次の紙。
「商人が所持していた指示書だ。アルヴェイン公爵令嬢の侍女が宝物庫近くを通る時間を利用し、偽造書簡を置くよう記されている」
クラウスが紙を取った。
「なぜ、こんなことを……」
「それは私が聞きたい」
今度はリディアの父が口を開いた。
「私が一月前から、階段とドレスの事件について調査を始めた。それを知った者が、娘を本物の犯罪者に仕立てる必要を感じたのではないか?」
ミレーヌの肩が震えた。
その後ろにいた侍女が、崩れるように膝をついた。
「お許しください……」
「黙りなさい」
「私は、命じられただけです」
「聞こえないのですか!」
「公爵様が昔のことを調べ始めたから、急がなければ全部ばれると……。首飾りを盗ませて、リディア様を犯罪者にしてしまえば、誰も昔のことなど信じなくなると……」
「黙りなさい!」
「階段のことも、ドレスのことも……全部、ミレーヌ様が……!」
広間が静まり返った。
クラウスがゆっくりミレーヌを見る。
「どういうことだ」
「違うのです、殿下」
「何が違う」
「私は……」
「階段から落ちたのも?」
沈黙。
「ドレスも?」
ミレーヌの唇が震えた。
「だって……」
掠れた声。
「仕方なかったのです」
誰も動かなかった。
「リディア様がいる限り、私は殿下の妃になれないではありませんか」
その言葉だけが、妙に明瞭に広間へ残った。
*
すべてが終わったあと、クラウスは廊下でリディアを呼び止めた。
「リディア」
彼の顔には疲労があった。
「すまなかった」
リディアは黙っていた。
「私は間違っていた」
「はい」
クラウスが顔を上げる。
もっと優しい返事を期待していたのだろう。
「婚約のことだが」
「戻りません」
「まだ何も言っていない」
「違いましたか」
沈黙が落ちた。
「君は十年、王太子妃になるために努力してきた」
「ええ」
「ならば、今度こそ」
「だからこそ、もう十分です」
リディアは言った。
「十年、殿下の隣に立つために生きました」
窓の外で、春の光が白い壁を照らしている。
「これからは、自分が好きなものくらい、自分で決めてみたいと思います」
クラウスは何も言わなかった。
中庭へ出る。
銀髪の青年が待っていた。
ルーク。
リディアはしばらく彼を見た。
「……ノクス?」
青年の眉が僅かに動いた。
「その名は忘れろ」
「やっぱり」
「声を落とせ」
「あなたなのね」
「そうだ」
リディアは近づいた。
「どうして黙っていたのです?」
「狼の姿では話せない」
「そういう意味ではありません」
ルークは少し困ったように息を吐いた。
「あの傷では、人の姿へ戻れなかった」
「戻れなかった?」
「我が一族は姿を変える時、傷もその身体に合わせて変わる。重傷で変化すれば傷口が広がり、出血が増える。あの時に人へ戻っていれば、おそらく死んでいた」
リディアは言葉を失った。
「では、ずっと狼だったのは……」
「傷が塞がるのを待つ必要があった」
「最後の頃は、随分元気でしたけれど」
ルークが黙った。
「長椅子を占領していました」
「……」
「犬に嫉妬もしていました」
「それは関係ない」
「では、最後の数日は帰れたのでは?」
長い沈黙。
「……帰れた」
リディアは目を細めた。
「なぜ帰らなかったのですか」
ルークが顔を背けた。
狼の時も、都合が悪くなるとよくこうしていた。
「帰りたくなかった」
小さな声だった。
リディアは瞬きをした。
「え?」
「二度言わせるな」
「でも」
「傷が治ってから三日ほどは、ただ居座っていた。それで満足か」
リディアは口元を押さえた。
「笑うな」
「だって」
「笑うな」
「ごめんなさい」
全く申し訳なさそうではなかったらしい。
ルークが睨む。
「それにしても、どうしてあの傷を?」
「密輸組織を追っていた」
ルークは脇腹へ軽く手を当てた。
「我が国の違法鉱山から流出した黒鉄を使う連中だ。国境で待ち伏せされた」
「黒鉄……」
リディアは思い出した。
「獣医が傷から黒い金属片を取り出しました」
「おそらく、それだ」
「では、あの首飾りも」
「ああ。同じ組織だった」
これで全部がつながった。
雪の庭で倒れていた狼。
ミレーヌの企み。
盗まれた首飾り。
国境の密輸組織。
偶然に見えた出来事の下に、一本の細い糸が通っていた。
「助けていただいて、ありがとうございました」
「それはこちらの台詞だ」
ルークは言った。
「君が拾わなければ、私は雪の中で死んでいた」
「では、お互い様ですね」
「そういうことにしておこう」
「それにしても」
ルークの目が細くなった。
嫌な予感がしたらしい。
「狼の時とは、随分と雰囲気が違いますね」
「何が言いたい」
「もっと威厳のある方かと思っていました」
「私は王族だ」
「ベッドの真ん中を占領していましたけれど」
「狼だったからな」
「鶏肉を欲しがって、皿を目で追っていました」
「狼だったからだ」
「ほかの犬を撫でたら、間に割って入りました」
「……」
「嫉妬でした?」
「違う」
「尻尾は随分正直でしたけれど」
ルークは顔を背けた。
耳が赤い。
その横顔を見た瞬間、どうしようもなく懐かしくなった。
「お手」
反射的に右手が僅かに上がった。
二人とも止まった。
ルークがゆっくり彼女を見る。
リディアは口元を押さえた。
「今のは」
「忘れろ」
「でも」
「忘れろ」
とうとう笑いが堪えきれなかった。
リディアは声を立てて笑った。
ルークはしばらく不機嫌そうに見ていた。
だが、やがてその顔も緩んだ。
「その顔だ」
「何です?」
「君は、そちらの方がいい」
リディアは笑うのをやめた。
風が通った。
中庭の白い花が揺れる。
「北へ来ないか」
「ヴァルドへ?」
「ああ」
「なぜ」
ルークは少し考えた。
「君を拾いたい」
リディアは目を瞬いた。
「私は狼ではありません」
「知っている」
「拾われる予定もありません」
「では、誘う」
一歩、彼が近づいた。
「私の国へ来てほしい」
「恩返しなら、もう十分です」
「恩返しではない」
「では?」
ルークは黙った。
狼の時も、都合が悪くなると顔を背けた。
やはり同じだった。
「あなた、本当にノクスなのね」
「だから、その名で呼ぶな」
「質問に答えてください」
長い沈黙。
「好きだ」
短い声だった。
リディアは瞬きをした。
「いつから?」
「聞くのか」
「聞きます」
ルークは露骨に嫌そうな顔をした。
「君が泣いた夜」
リディアの表情が固まった。
「……泣いていません」
「泣いた」
「記憶違いです」
「私の腹に顔を埋めて」
「忘れてください」
「殿下なんて大嫌い、と」
「ルーク」
「それから、可愛げがないなんてひどい、と」
「もう結構です」
「鼻水まで」
「それ以上言ったら、ヴァルドへは絶対に行きません」
ルークは即座に口を閉じた。
「……卑怯だな」
「王妃教育で交渉術も学びましたので」
今度は、ルークが笑った。
*
半年後。
ヴァルドの秋は短い。
朝には庭の草が白く凍り、昼には融ける。
西の山はすでに頂を雪で覆っていた。
王宮の裏庭に、古い楡の木が一本ある。
リディアはその下の長椅子で本を読んでいた。
足元には巨大な銀狼が伏せている。
正式に婚約を結ぶまで半年。
父は「急ぐ必要はない」と言った。
ルークも異論を唱えなかった。
その代わり、リディアは客人としてヴァルドへ招かれた。
自分でこの国を見て、自分で決めるために。
「ノクス」
狼の耳が動く。
人のいるところではルークと呼ぶ。
だが、二人きりの時だけは昔の名で呼ぶことを許された。
最初は嫌がっていた。
今はもう、ほとんど何も言わない。
「少し詰めて」
狼は動かない。
「あなたが長椅子のほとんどを使っているのよ」
片目が開く。
「ノクス」
仕方なさそうに、ほんの少し身体をずらした。
「それだけ?」
ふん、と鼻を鳴らす。
そこへ、小さな宮廷犬が走ってきた。
リディアの足元で尻尾を振る。
「あら」
手を伸ばす。
銀色の巨大な頭が、その間に入った。
「……また?」
狼は澄ましている。
「この子を撫でたいだけよ」
動かない。
「嫉妬しているの?」
耳が動いた。
リディアは笑った。
宮廷犬ではなく、狼の耳の後ろを掻いてやる。
「はい。あなたが一番」
尻尾が動いた。
ぱたん。
ぱたん。
やがて速くなる。
顔だけは、どこまでも威厳を保っている。
「本当に変わらないわね」
遠くで風が鳴った。
乾いた葉が石畳を滑っていく。
空は低い。
冬の気配がもう近くまで来ている。
王都にいた頃の自分なら、この景色を寂しいと思ったかもしれない。
今は違う。
風の音がする。
葉が擦れる。
隣には、大きな獣の体温がある。
王都では、彼女を悪女と呼ぶ者がいた。
笑わない女。
冷たい女。
可愛げのない女。
けれど、傷だらけの狼は、そのどれも知らずに彼女の手へ鼻先を寄せた。
彼女もまた、その狼が王子であることなど知らずに手を伸ばした。
肩書きも。
評判も。
役に立つかどうかも。
何も知らなかった。
だから、よかったのだと思う。
「帰りましょうか」
狼が立ち上がった。
大きな身体が当然のように彼女の隣へ並ぶ。
リディアは銀色の首元へ手を置いた。
あの日、雪の庭で拾ったものが何だったのか、今でもよく分からない。
一匹の狼だったのか。
隣国の王子だったのか。
あるいは、自分自身の、これまでとは違う人生だったのか。
ただ、一つだけ確かなことがある。
悪女と呼ばれた令嬢は、以前よりずっとよく笑うようになった。
そして、そのたびに。
彼女の隣では、大きな狼の尻尾が、本人の意思に反して嬉しそうに揺れている。




