Signs of Resonance
窓から風が吹き込む。退屈凌ぎに眺めていたいつもの光景は、変わらずに陽の光に照らされている。
鳥の囀りが微かに聞こえて、続けて車の通り過ぎる音が聞こえる。
「じゃあここの問題を……春川。答えてみろ」
不意に名前を呼ばれて顔を上げる。目に飛び込んできた計算式を何秒か見つめて、僕は答えた。
「13です」
「はい、正解」
よかった、と胸を撫で下ろす。ぼーっと外を眺めていた割には対応できている。
安堵して、再び椅子に座る。そんな僕を隣の女子が見つめている気がした。
僕と窓辺に挟まれた少女。彼女の名前は確か、篠崎雪乃さん。
変わった真っ白な髪に綺麗な目。どこか儚さを感じるような、美しい見た目をしている。それにも関わらず、僕は彼女が誰かと話しているところを見た事がない。いつも無口で、僕と同じでずっと窓の外を眺めている。
何か、話しかけてはいけない雰囲気というか、明らかに周りの人とは違うような感じがした。きっとそれを感じているのは僕だけではない。もしかしたら、彼女と話す人間がいないのはそのせいなのかもしれない。なんて考えてみながら、結局僕は彼女に何もできない。
何も言わずに目を逸らし、彼女の視線は外へと向く。
当然僕も話した事はない。
何を考えているんだろうとかそんなことすらも考えながら、僕は椅子に座る動作を再開した。
「では次の計算式を……」
言葉が流れていき、僕の身体は下がっていく。もうしばらく当てられる心配はないだろうと、僕はまた窓の外へと視線を移し、授業に向いていた集中を切れさせた。
そのとき、窓に反射した篠崎さんと目が合った。
はあ、とため息をついた後、彼女は再び前に向き直った。そんなに嫌だっただろうか。目が合うのが恥ずかしいのはわかるが、わざわざ聞こえるようにため息などをつくものか。
そんな感じで、どこか嫌われているような、彼女自身が周りの人間を拒んでいるような気がした。
……と、ここまで篠崎雪乃について考えてはみたものの、だからといって何があるわけでもない。きっとこの先僕が彼女と関わる事はないだろうし、考えるだけ無駄である。
そうだとわかっているのにどうしてか、頭から離れない。彼女のことが気になっている、といえばそれはそうなのだが、それは好きとかそういったものではなくて、ただ単純に気になっているだけで。
「いや、気になってんだから好きってことなんだろ」
額に鋭い痛みを感じて慌てて目を開ける。触れた爪は静かに、僕の頭に衝撃を響かせた。
「いった……お前……」
指で弾かれた額にまだ痛みが滲む。目の前で僕の話を聞いていた友人、涼太は悪戯に笑って僕の目を見る。
「お前、そんなふわふわした話しやがって。好きなら告っちまえよ」
「ばっ、ちが、そういうんじゃないっつってんじゃん!」
「だから、気になってるんだろ?」
間違っては、いないのだが。
頬が少し熱くなるのを感じる。
好きなわけではない、と頭の中では言っているものの、こういう事を言われると少し恥ずかしくなってしまう。
「はあ……まあ、なんでもいいんだけどさ」
そういって涼太は弁当の中の一切れを口へと運んだ。
「もうちょっと正直になってもいいと思うぜ」
「はいはいそうですかー」
適当にその言葉を流す。
昼休みの教室、いつも通りに僕らはそんなくだらない会話をしていた。
「……そういやさ、なんか事件?みたいなん知ってる?」
突然思い出したように涼太はポケットからスマホを取り出し、画面をなぞる。反射する光が映し出したのは、とあるひとつのネットニュースの記事だった。
「怪物……何、これ……?」
「俺もよくわかんねえけどな」
『一般人が突然暴走』
『身体が変形し無差別に人を攻撃』
『原因不明の爆発』
「それに……『次々と謎の減少が発生』、か……」
まるでパンデミックの前兆みたいだ。ふとした瞬間に日常が崩れ去り、非日常が侵入してくるような、そんな感覚。
「はは、フェイクニュースに決まってんだろ。第一、一般人が突然暴走し出すとか、普通に頭おかしいだろ」
乾いた笑いが漏れる。元来僕はこういった類いの話はフィクションだと割り切って、信じない派だ。こんなものを信じたところできっと騙されているだけだし、そもそも面白くない。
流すならもっと面白い嘘を流すべきだ。
「そうだと良いんだけどなぁ」
そう呟いて涼太は再び画面をスクロールする。そしてまた、流れるように卵焼きを一切れ口へと運ぶ。
「でもよ、これ見てみろよ。ほら。なんとか事態は収まったって……『専門機関が対処し』ってなんだこれ。専門機関ってなんだよ」
「知らねえよ僕に聞かれたって、そんなもん」
専門機関といったらあれか。宇宙人とか地底人のの襲撃に対処したりする、あの秘密結社じみた超常組織だろうか。考えれば考えるほど馬鹿馬鹿しい。
そんな超常的なものがあるわけないだろと、また乾いた笑いが溢れる。
「だからやっぱフェイクニュースなんだって。そんなもんに騙されるとか、お前ネットリテラシー皆無かよ」
冗談混じりに涼太を笑い飛ばしてみせる。実際、こいつは少し騙されやすい所がある。
この前だってそうだ、『あなたは当然しました!』なんて怪しさ満点のメールを開いて、怪しいサイトに誘導されたり。もう騙されないぞと意気込んでおきながら、またまた騙されにいくつもりか。
「そんなんだから騙されんだよ」
「あー?今度こそきっと本当だって」
「どうだか」
はあ、とひとつ息をついて言葉を口にする。気が付けば僕はまた、隣の席へと視線をやっていた。そのときになって、始めて気がついた。篠崎さんがいない。
いつもは一人で席で何か食べているはずなのに、今日に限ってそこには篠崎さんがいない。考えてみれば、こんな事は初めてだ。
一体どこで、何をしているのだろうか。変わった景色を前に、そんな疑問が微かに浮かぶ。
別に他人の事だし、一人の人間なのだからどこで何をしていてもおかしくない。なのに僕は、彼女のことが気になって仕方がない。
「お前、何篠崎さんの席見てんだよ」
ニヤニヤしながら涼太は僕の顔を見つめる。
「いや、いないな、って……」
「そりゃいないこともあるだろうよ」
「そうなんだけど……」
そうだ。それはそうだ。何も、おかしくなんてない。
「……やっぱりお前、好きなんだろ」
「だから――」
気が付けば、口では反射的に好きじゃないと言っている。でももしかしたら、心のどこかでは……そうなのかも、しれない……という自覚は、あったりなかったりする。
でも、だからといって僕はどうすることもしない。ただまっすぐ、窓の外を眺めるだけ。それだけで、何かが変わるなんて思っていなかった。
_
次の日も、僕は変わらず涼太と弁当を食べる。
あの席には、いつも通り篠崎さんの姿があった。その光景に、僕はどうしてか安心感を覚える。これはきっと、いつも通りの景色が広がることに対してのものだ。そう自分に言い聞かせる。
「そういや、この間の怪物がさ」
「まーたその話かよ」
こちらはというと、相変わらずフェイクニュースを信じているのだった。僕もネットでいくつか情報を見ている。最近になって、同じような怪物騒ぎが増えた印象だ。
「いや、昨日またあったらしいんだよ、例の怪物騒ぎ。しかも昼頃」
やや興奮気味にスマホの画面を叩いて、僕に向けてくる。こいつ、こんなキャラだっただろうか。
「今回は動画あるんだって……ほら!」
鞄の中をまさぐるように情報を掻き分け、涼太はおもむろにその中にある再生ボタンを押した。
映し出されたのは、おおよそ人間とは思えない異形が暴れまくっている動画。よく見ると人間の面影は残っているものの、皮膚は真っ黒く鎧のようになっており、顔は爛れている。目の色は形容し難い淀んだ色に変わって、背中からは数本の腕らしきものが生えている。
これが現実に存在するなんて信じられるわけがないと、これを見て改めて感じた。
「最近のAIはすごいな、こんなリアルな映像作れるのか」
しかし何も言われずに見せられたら信じてしまいそうだ、とその映像に思わず関心してしまう。
「いや、この手ブレとかさ、これは流石にリアルの映像だろ」
「最近のAI生成がそこまで進歩してるってワケよ」
何を言われても言い返してやろうと、それくらいの気概で今涼太と相対している。
「お前、ほんとに頑なに信じないよな……」
「そらね、こんなこと本当に起こるわけ無いんだから」
言葉を吐き捨てながら、僕はAI生成の映像を見ていた。
暴れる怪物の攻撃によって周囲の車は大破し、炎が上がる。爆発に巻き込まれても、怪物には傷一つ付いていなかった。
「これだろ、ほら。爆発に巻き込まれてるのに傷一つ付いてない。これはAIだろうな」
「怪物がそこまで強靱だってことだろ」
もうダメだ。きっとこいつは怪物とかが強靱で凄まじい力を持っているのだろうとかそんな幻想を見ているのだろうが、第一そこに存在する実態ならばあのような爆発で外傷のひとつやふたつは付くはずである。
もう何を言っても涼太に通じる言葉はないだろう。おそらくは向こうも同じ事を思っているだろうが。
そうやって僕は何を信じる気も無く、ただ平和なこの世界を漂っていた。非日常は文字通り、この日常の中に存在するはずがないと信じていた。
昼が過ぎ、舞台は校庭に移る。体育の時間、体操服に着替えた僕らはいつものようにランニングを始める。こんなときも、僕はふとした瞬間に篠崎さんへと視線を移してしまう。彼女は普通に、周りと変わらずに足を動かしていた。何も変わらず、周りと同じように。
ひとつ言うことがあるなら、僕は何か、言いようのない違和感を感じていた。それは篠崎さん本人というより、彼女の動きについて。言葉にするのは難しいが、何か他の人間と違う気がする。まるで人ではない何かによって、身体を動かされているような感覚。
ふと、僕は昨日の昼に篠崎さんが何をしていたのかが気になった。
そういえばさっき涼太が、昨日の昼も騒ぎがあったと言っていた気が。
特に関係はないだろうとわかってはいたものの、どういうわけか僕は気になってしまった。
「怪物、と……」
僕はその場に立ち止まり、体操服のポケットからスマホを取り出してタイムラインを覗いてしまう。
「『怪物出現、十三人が重傷』……」
騒ぎがあったのは昨日の十二時半ごろ。ちょうど、僕らが弁当を食べているときのことだろうか。
「春川、何してるんだ」
「ぇ、あ、いや」
まずい。スマホを触っているのを先生に見つかってしまった。あわててポケットの中に入れようとするも時既に遅し、決定的瞬間を見られた後だった。
「授業中に触るな。ほら、預かっておくから、放課後職員室に取りに来なさい」
「はい……」
完全にやらかしてしまった。というかそもそも、あんなこと調べなくてもよかったはずだ。どうして僕は調べてしまったのだろう。
僕はスマホを先生に手渡してから、再び走路へと足を戻す。
物理的に軽くなった身体を重い心と共に弾ませながら、そのまま僕はトラックの外周を走って行った。
六限が終わり、ホームルームも終わりを迎えた。さあ帰るぞと皆が荷物を持つ中、既に篠崎さんの席だけ空っぽになっていることに気が付いた。余程帰るのが早いのだろうが、ほんの少しの違和感があった。最初からそこには誰もいなかったように感じてしまうのだ。
「篠崎さんって、普段何してるんだろうね」
通りかかった女子の話し声が、偶然耳に入った。それはおそらく、クラスの皆が気になっていること。
「綺麗だし頭もいいけど、全然話してくれないよね。人を避けてるっていうか」
うんうん、と小さく頷きたくなる。やはり思っていることは同じらしい。
「なんか不思議な感じだよね。魔法使い、とかだったりして」
「魔法使い?」
聞き慣れないその単語に、思わず僕は会話の内容に入り込んでしまう。
「うん。あの、怪物騒ぎあるじゃん。そこに出てきて、怪物を退治しちゃうんだって」
「えー、なにそれ」
なんだか、益々フィクションに近付いてきた。怪物に、魔法使い?そんなものがあるわけないだろう。鼻で笑って、僕はその会話を聞くのをやめる。どいつもこいつも、フィクションを信じすぎじゃないのか。
僕だけはインターネットに踊らされないぞと、一人で意気込んでいた。
「颯太、帰ろうぜ」
帰りの準備を終えた涼太がいつものように近付いて声を掛けてくる。
「悪い、ちょっと職員室寄らないといけなくて」
「あ、おう。なんかあったのか?」
言えるわけがないだろう、と微妙な顔になる。
適当に笑って誤魔化しながらも、先に帰っててくれとだけ伝えて僕は職員室へと向かった。
「遅かったじゃん」
「お前、待ってたのかよ」
「おう」
僕が職員室にいる間、どうやら涼太はロッカーの前でずっと待ってくれていたらしい。こんな友達を持っていて良かったと、こういう時に限っていつも思う。
「ほら、行こうぜ」
そうして僕らはいつも通り、帰り道についた。
いつもの曲がり角、僕らを覗くカーブミラー。
ふと、何か甲高い音が響いているのに気が付いた。パトカーと救急車の音だ。二つの音が混ざり合って、不安を煽ってくる。音のする方を見てみると、黄色いテープで道が封鎖されている。
「なんか、最近多くないか?ああいうの」
ジュースを口に付けながら、涼太は言う。当事者たちもこんな呑気なやつに言われたくはないだろうが、確かに思い出してみれば最近はこの音をよく耳にする。
「怪物騒ぎといい、物騒だよなー。やっぱりなんかあるんじゃないのか」
「偶然だろ」
毎回の調子で適当に言葉を返す。実際の出来事とフェイクニュースを結びつけてしまうのはよくあることだし、もしかしたらこの事件もフェイクニュースの影響で起きてしまったものかもしれないとすら考える。
ネットに嘘を流した罪は重いぞ、なんて誰かも知らない誰かに忠告するように言葉を反復していた。
「ん?」
そんなどうでもいいことを考えながら歩いていたとき、路地裏に見知った人影があった気がした。
数歩下がって、気になった方を見る。
「……篠崎さん?」
「颯太?どうかしたか?」
「ん、あ、いや、なんでもない」
急かされるように、何かを考える暇も無いままその背中を追いかける。少し歩いてから、そんなはずないだろうと考えを改め、再び涼太に着いていくことにした。
「颯太」
突然、涼太は僕を呼び止めた。突然のことに驚き、少し狼狽えてしまう。
何か少し、変な感じがした。顔色が悪く、呼吸も荒いように見える。
「おい、どうしたんだよ」
「……わかんねえ」
「具合、悪いか?」
「なんか、変なんだ」
お前はいつも変だろ、みたいな冗談を言ってあげられるほど余裕があるようには見えなかった。明らかに様子がおかしい。
「なんか、頭の中で変な声がして……」
「なんだよ、それ……」
涼太は、大きく息を吸って吐いた。深呼吸は、気を落ち着ける効果があると聞く。
しばらくして落ち着いたのか、涼太はいつもの様子に戻っていた。
「大丈夫……か?」
「ああ、なんとか落ち着いた。なんだったんだろうな……」
顔色も先ほどよりは安定しているし、呼吸も整っている。
「変なニュースの見過ぎだって……今日は早く寝て、しっかり休めよ」
「……あぁ、そうだな。じゃ、また明日な」
「……うん、明日」
手を振って別れを告げる。いつもの分かれ道で、いつも通り僕らは別々の道へと進んだ。
涼太は本当に、大丈夫なのだろうか。そんな不安を胸に、僕もいつもの道につこうとした。
しかしまだひとつ、引っかかっているものがあった。さっきの人影。どうしてもさっきの人影が気になる。
今更戻ったところで、まだいるだろうか。
特に何が起こるのを期待している訳でも無いが、僕は後を引き返して、本当にそこに篠崎さんがいたかどうかを確かめに行くことにした。
逆光が遮られ、暗い影の中からは真っ赤な夕日が空に覗く。いつもの帰り道のはずなのに、引き返すだけでこうも雰囲気が変わってしまうものなのか。
どこかに不安のようなものを憶えながら、僕は先ほどの路地裏のところで立ち止まった。その奥には、二人の人影が見える。
「あっ」
そこにはやはり篠崎さんともう一人、見知らぬスーツ姿の男がいた。
僕は二人に見つからないよう物陰に隠れ、そっと耳を澄ましてみる。
「……ですから、我々パージ・コーポレーションにご協力を頂けないかと……」
「何度も言っているでしょう。魔法は、あなたたちの道具じゃないの」
「ですが貴女は魔女……大変素敵なポテンシャルを持っていらっしゃる」
「……協力する気は無い。何を言われてもね」
「お分かりかと思いますが、エネルギー資源は年々減少しつつあります。それを、未だ未知の力、魔力で補わせていただきたいと……」
「……だから」
聞けば聞くほど混乱してくる。僕には、彼女たちが何の話をしているのかまったく理解ができない。
魔法?魔女?結局ここでも、フィクションの話しか聞こえてこない。
そんなことよりも僕は、篠崎さんの声を聞いたことの方が衝撃だった。今まで、学校で話している篠崎さんを殆ど見たことがなかったからだろうか。ふと思い返してみれば、彼女は授業中全く当てられないし、点呼でも名前を呼ばれない。まるでその存在ごと気配を消しているように。
「魔法使い、ね……」
妙な響きに、また僕は違和感を憶える。
「まさか、本当に……」
フィクションが起こるはずが無い。そんな確信の中に少しだけ、亀裂が入っていくような気がした。
「……そんなわけないか」
僕はそれを見ないふりをして、路地裏から目を背ける。
現実を見ることが出来ていないのは、一体どっちなのだろうか。
『度重なる怪物の騒動に、専門家は……』
「何の専門家だよ」
リモコンのボタンを強く押し込み、チャンネルを変える。どこに回しても同じような話ばかりで、いい加減飽きてくる。
ニュース番組も例の騒ぎを取り上げている。聞けば、最近そこらで起きている事件なども全て、怪物騒ぎに関連しているらしかった。
やっぱり、世界ごとおかしくなっていっている。もうまともなのは僕しかいないんじゃないのか。あの篠崎さんすらも……
「篠崎さん……?」
はっとして目を開ける。そうだ。いつから篠崎さんもまともだと思っていたのだろう。結局彼女も周りの人間と一緒で、フィクションとかフェイクニュースに脳を支配されているのだ。
普段話さなくて不思議な雰囲気を纏っているからって、他と何一つ変わらないしょうもない人間だったのだ。
「……はあ」
なんかもう全てがどうでも良くなって、ベッドに倒れ込む。
まるで、異世界に来てしまったみたいだ。非現実に支配されて、僕だけひとりぼっちで……
そんなことを考えている間に疲れてしまったのか、気が付けば僕は眠りについていた。
_
次の日、涼太は学校を休んだ。
連絡はなかったらしいが、二限が過ぎても来ないのでおそらく休みだろう、とのことだった。
そんな日の昼はいつもより退屈だったし、楽しくなかった。
あんな迷信を信じている人間でも、いないとこうも寂しいのか。と、本人に聞かれたら恥ずかしくてのたうちまわってしまうような言葉が頭をよぎる。
「ねえ、あの話聞いた?」
「昨日も出たんでしょ、怪物」
「しかも近くで――」
「怖いー」
妙にざわついた教室は、まだそんな話をしている。いい加減、フィクションだと認めたらどうなのだろうか。しかしそんな中に、やはり一人異様な雰囲気を醸し出す人がいた。
篠崎雪乃。周りと比べて不自然な程に冷静だ。
そんあ普通の光景すらも異様に見えてくる。もしかしたら、おかしくなってしまっているのは僕なのかもしれない。
休み時間が終わって席に着いた後も、ふとした瞬間に隣の席を覗き込んだ。
篠崎さんは、何も言わず座っている。何を考えているのかもわからないような鋭い目で、ただ外の景色を見つめている。
もう何も信じられなくなっていた僕は、外は見ず、黒板の真ん中を眺めていた。
帰り道、僕はひとりぼっちでいつもの道を歩く。妙な静けさに、足が止まってしまいそうだ。
涼太が、あいつがいないと、僕はこうも弱くなってしまうのかと、そんなことを考えながら俯く。
「おーい、颯太ー」
不意に、聞き馴染みのある声がして顔を上げた。
そこには、涼太が立っている。
「涼太!?」
びっくりして、思わず駆け寄ってしまった。
「どうしたんだよ突然休んで……やっぱり体調悪いのか?僕ずっと心配して……」
少し足のもつれる涼太に、次々に言葉を投げかけてしまう。そんな中。
「そ、そう、颯太……」
嫌な響きに、思わず顔をしかめる。荒い呼吸音に混ざる声は涼太のもののはずなのに、どこかにノイズが走っているようで。何かに邪魔されて、アレが涼太だという認識を阻害される。
息を呑んで後ずさりした、その直後。涼太が飛びかかってきた。
「うわっ!」
思わず反射的に避ける。
「どうしたんだよ、涼太……」
僕は改めて涼太の顔を覗き込む。そこには――
「え?」
ひどく濁った、黒目の無い目玉があった。
「ぁっ……」
声にならない叫びを上げ、後ろに倒れ込む。
「あ、そう、た、おれ……」
歪んだ影は少しずつ姿を変え、日の光を知らない形に遮る。歪な声と共に、涼太の身体は少しずつ崩れていった。そして皮膚は黒くなり、まるで鱗、鎧のように変形する。その背中からは、四本の腕が伸びて僕を捉えていた。
骨が鳴り、皮膚の裂ける音がする。聞いたことも無いような不快な音に、思わず耳を塞いでしまいそうだった。
なんとか必死にその顔を見ようとしても、目が合わない。焦点がずれたまま、何も見ようとしていないようだ。
ドクン、と何かが鼓動し、冷えた感覚が広がる。
僕は死ぬのかと、恐怖が身体を巡る。
「はっ、はっ、はっ」
そして死に際になって始めて、
僕は、自分の中を流れるもう一つの感覚に気が付いた。
感じたことの無い感覚。それが僕に呼応するかのように、違った世界を映し出した。
そこは、他に誰もいない、僕と涼太だけの世界。
_
「なあ、一緒に食べない?」
高校生活が始まって二日、見ず知らずの人が集まる教室で一人居場所を見失っていた僕は、突然その声に呼び止められた。
重い頭を上げて前を見てみれば、そこには一人の男子がいた。
「俺、早見涼太。君、春川颯太だろ。よろしくな」
「あ、ああ。よろしく……」
人との接し方が、よくわからなかった。今まで、誰かと関わることをしなかったから。
だからこの新しい場でも静かに一人でいようと、そう決めていたのだ。
その矢先、予定外のイベントに巻き込まれる。それは、予定外とは言うものの、僕自身にとっては嬉しいものだった。
椅子を持ってきて、目の前に座る。そして慣れたような手つきで、弁当を広げた。
その爽やかな見た目と声で、友達が多いのだろう、とすぐにわかった。まるで僕とは、別世界の人間だ。
「颯太はさ、どこの中学?」
一緒に食べても良い、と許可した覚えは無いものの、気が付けば自然に話しかけられてしまっている。こういうとき、無理にでも他人を拒んでしまうような人間で無くてよかったと思う。
「えっと、ここらへんじゃなくて」
「そうなんだ。どこらへんなんだ?」
悪い気はしなかった。悪い人には見えなかったし、今こうして普通に話せているから。
いつしか僕は、感じたことのない希望のようなものを胸に抱いてしまっていた。
こいつとなら上手くやっていけそうだ、こいつとなら、きっと楽しくなる。そう、心のどこかで感じていた。
「二年も一緒だな。よろしく」
「ああ、こちらこそな」
新しい生活の始まりから一年が過ぎ、僕らの数字は一つ増えた。
中身の入れ替わった教室には相変わらず、見知った一人の姿があった。
「まさかまた一緒になれるなんてな。うちの学年、結構人数多いだろ」
「そうだよな。……まあ、良かったわ。僕、お前がいないとずっと一人だし」
「はは、お前、俺がいないと何もできねえじゃん」
「うるせえやい」
ははは、と自然に笑いが零れる。
僕はずっとこのまま、涼太と笑っていられると思っていた。
_
だから僕は、震えながらもその歪な目に優しく話しかけた。
「なあ、涼太。なんで、こんなことに」
聞いても、涼太は何も答えてくれない。
「教えてくれ。僕は、何をしたら良い」
何も、答えてくれない。
「なあ、もしかして怒ってるのか。僕が、何も信じなかったから」
何も、話してくれない。
いつもは、何か聞けばすぐ返してくれたのに。何か言えば、すぐに返してくれたのに。
いつものあの日々と会話が、まるで走馬燈のように頭の中を巡る。
僕が何も信じなかったから。涼太は、こんなことに。
「……悪かったって、何回でも謝るから……だから……許して、くれよ」
涼太に手を伸ばした。まだ微かに肌の色が残る、その腕に。
黒色に飲み込まれてしまう前に、連れ戻さないと。
「なあ、涼太」
必死に腕を伸ばす。しかし、掴むより先に世界は元に戻ってしまった。
僕と涼太だけの世界は、終わりを告げた。
「ぅっ……!?」
次の瞬間、何かの反動のように猛烈な不快感に襲われ、吐き出してしまう。今のが一体何だったのかは、自分でもわからない。
ただひとつ、神様に、最後に話す機会を与えられたような感覚だった。
「うっ……クソッ、クソッ!」
それなのに、掴めなかった。連れ戻せなかった。罪悪感と悔しさが押し寄せる。
それでも目の前の涼太は、相変わらず僕を見つめていた。そこにはもう、涼太の意思はなかった。
涼太がその長い腕を振り下ろすと、立て続けに周囲で爆発が起きる。
「うわー!」
「なんだ!?」
「うわあぁぁ!?化け物!」
逃げ惑う人々。その誰もが、あの化け物の本当の姿を知らない。知っている僕でさえ、もうあれが涼太だなんて思いたくなかった。
もう涼太は戻らないのだと、今更になって始めて気が付いた。
殺される。そう直感し、震える足で立ち上がって走り出す。でもうまく身体が動かず、すぐにアスファルトに躓いて転んでしまう。
気が付けば、その腕はもうすぐそこまで迫っていた。
「涼太、待って――」
終わった、と思った。
激しい衝撃音と共に、視界が揺れる。
まるで空気が止まったかのように、僕は息を止めた。
十秒、二十秒と経ち、やがて後ろから風が吹き始める。まるで僕を舞台の上に押し上げるかのように。
未だ感覚があることに気付いてから、恐る恐るその固く閉じていた目を開けた。
「……間に合った」
そこには、篠崎さんが立っていた。
「し、篠崎さん……なんで」
見ると、振り下ろされたはずのその腕は宙に浮いたまま止まっている。
「彼の力で止めていなければ、間に合わなかった」
「あの魔法は……」
何かを言っているのはわかる。しかし、何を言っているのかはわからない。
「君は、一体……」
そして彼女はこちらに視線を送り、口を開いた。
「一度しか言わない」
手を上げた瞬間に、空気が歪む。まるで世界そのものが、彼女に従っているかのように。見えない力で、その黒い腕を抑える。
「逃げて」
赤い閃光が走ると同時に、僕は後ろへと走り出した。




