旅灯ノ道
時は半年が過ぎ⸻
星ノ里に吹く風は、かつての冷たさを失い、
柔らかな匂いを纏い始めていた。
○昼下がり・星ノ里
季節は三度移ろい、灯屋の庭にはかつてなかった芽がいくつも息づいていた。
あの日、森の奥で俯いていた少年⸻悠真
悠真の足取りにも今では力が宿っていた。
「まってよぉ!くろこー!」
庭先を駆け抜ける悠真の声が響く。
小柄な体で全力疾走し、泥を跳ね散らしながら黒戌を追いかける。
黒戌は悠真の前を軽快に走り、時折わざと振り返っては、
挑発するように尻尾を揺らした。
『ほれほれ、遅いぞ小僧。そんな足じゃ追いつかんぞ』
「ちょ、ちょっとまってよー」
悠真が手を伸ばすと黒戌はするりと身を翻し
間一髪でかわす。
ほんの指先一つ分の距離を残して逃げるのが、
黒戌の常套手段だ。
『まだまだのようだな』
「くそぉ〜!あとちょっとだったのっ!」
悠真は息を切らせ、両手をぶんぶん振り回ながら黒戌を見つめる。
しかし黒戌は悔しがる悠真を小馬鹿にし挑発する。
「もういっかい!つぎはぜったいにつかまえるよ!」
悠真が地面を蹴って飛び出すと、黒戌は尻尾を高く掲げた。
『ほう、元気だけは一丁前だな。どこまでついて来られるか、試してやろう』
その瞬間、黒戌がくるりと方向転換し、悠真は慌てて足をもつれさせーー
「わっ!?」
盛大に転んだ。
土の匂いが舞い上がり、服は泥だらけ。
だが悠真は泣くことせず、泥のついた掌を見てニヤリと笑う。
「いてぇ〜!」
『ほらほら、どうした小僧。これで終わりか?
まぁこうして走る理由がある者は、強くなるものだ』
「りゆう?よくわからないよ」
『ふん、やはりまだまだだな』
「またばかにしたねー!!」
悠真が頬を膨らませていると、遠くから明るい声が聞こえてくる。
「おーーい!ゆうーま!くろこー!お昼持ってきたよー!」
白いカゴを抱えたリナが庭に駆けてきた。
星飾りが陽ざしを受けてキラキラと揺れる。
「ほら見て!今日は悠真の好きなもの、いっぱい入ってるよ!」
悠真の目が一瞬で輝く。
「ぼ、ぼくのすきなもの!?どれ!?ねぇどれ!?」
先ほどまでの全力疾走より速い勢いで、リナの元へ駆け寄る。
黒戌が肩を震わせ、鼻で笑う。
『食い意地には敵わまいというのか』
「だっておなかすいたんだもん!」
⸻
○灯屋・縁側
少し離れた縁側では、璉夜とトワ爺が並んでその光景を眺めていた。
「……笑い、走り回るようになったか」
「静けさは心を守るが、賑やかさは心を育てる。
あの子には今の方が似合っておるではないか」
璉夜は小さく息を吐き、悠真の笑顔を目で追う。
かつて暗闇の底で震えていた少年。
今は、転んでも笑い、腹が減れば堂々と食べる。
それは確かに⸻小さな光が輝き出した証だった。
いつの間にか黒戌が璉夜の肩の上にひょいと乗っていた。
「……随分と仲が良いじゃないか」
璉夜がぼそりと呟くと、黒戌は鼻を鳴らした。
『はぁ?何を言う。小僧をからかってるだけだ』
「そうか……。その割には、楽しそうに見えたがな」
黒戌の耳がぴくりと動き、視線が泳ぐ。
『な、何を言う!楽しくなどないわ!小僧の鍛錬をしてるだけだ!』
「……まぁどちらでも良い」
璉夜は小さく微笑んだ。
ほんのわずかだが、目尻に柔らかな色が灯っていた。
黒戌はその笑みが気に入らないのか、尻尾をふんと振る。
『お前も妙な顔をするようになったな、璉夜よ』
「……そうか」
『以前は石みたいな面しとったのに、最近は土くらいは柔らかくなっとる』
「……変な例えだな」
『ふん、事実を言ったまでだ』
黒戌が得意げに鼻を鳴らす。
悠真とリナの笑い声が、風に乗って縁側まで届いた。
「……変わったな」
「変わったのではないぞ、璉夜」
隣でトワ爺が茶碗を置き、静かに言う。
「悠真は本来の自分に戻りつつあるだけだぞ。璉夜、お主もな」
璉夜はその言葉に返さず、目を細めた。
風が吹き抜ける。
笑い声が響く。
黒戌は肩の上で尻尾を揺らしながら
そっぽを向いて行った。
『……まぁ、悪くない日々だな』
「……そうだな」
その声は、以前よりずっと静かで温かった。
⸻
○夕方・灯屋の庭
リナが空を見上げながら、どこかソワソワしていた。
悠真は腹いっぱいになり、縁側でごろごろ転がっている。
「悠真、ねぇ悠真!」
リナがぱたぱたと駆け寄ってくる。
「んー?なにー?」
「明日の夜ね、お星様が降る日なんだって!
トワ爺が言ってたの!すっごくたくさん降るんだって!」
悠真はぱちりと瞬きをした。
“星が降る“という言葉の意味がまだ掴めていないような顔だ。
「……ほしが、ふるの?」
「うん!星ノ丘で見るとね、空が近くてね、
手を伸ばしたら掴めそうなんだよ!」
リナは興奮して両腕をめいっぱい広げる。
「行こうよ!悠真も一緒に!お願いしに!」
「ぼくのおねがい……」
二人の話を聞いていた黒戌がぼそっと囁く。
『願いがわからないのか、小僧』
「うん、ぼくにはおねがいが、ないよ……」
黒戌は、目を伏せながら続ける。
『願いとは自分の事ではなく、誰かの事を思えばいいだけだ』
「だれかのこと?」
悠真が戸惑っていると、リナが笑顔で呟いた。
「一緒に行こう!でもトワ爺と璉夜には内緒ね」
ニコッと笑ってリナは寝床へと戻っていた。
「……おねがい」
悠真は目を伏せるが、口元だけほんの少し緩んでいた。
⸻
○翌夜・灯屋
灯屋の灯りが落ち、静寂が里を包んだ頃。
縁側で月を眺めている璉夜に気づかれないように
悠真とリナは外へ飛び出した。
「二人だけじゃ危うい、ついて行ってくれ」
気付かぬふりをした璉夜が、黒戌にぼそっと呟く。
『俺が子守りか?』
「嫌なら構わん」
黒戌は、少し笑いながらふんと鼻を鳴らした。
『仕方ないな、行ってきてやるよ』
ぴょんと飛び二人の元へ駆けて行った。
「くろこも一緒に行くの?」
『お子様二人じゃ心配だからな』
「ふ〜ん、優しいね」
リナの明るい笑顔に照れる黒戌だった。
⸻
○夜・星ノ丘
丘へ辿り着くと、空が一気に開けた。
夜風が頬を撫で、草が波のように揺れる。
その上⸻
星が、降っていた。
尾を引いて流れる光の粒が、空という海を泳ぎながら
次々と地平へ滑り落ちていく。
リナは息をのんだ。
「すごい……ほんとに星が降ってる」
悠真も見上げたまま、口をぽかんと開けていた。
森で俯いていたあの日の少年とは違う。
今は、空を見ている。
「……こんなにほしってあったんだ」
「うん。どこから来るんだろうね?あんなにいっぱい」
リナの何気ない呟きが、夜空に溶ける。
その言葉が悠真の胸の奥に触れた。
(どこから……くる?)
迷いのない問いだった。
答えを知りたいという気持ちより
リナの横顔に魅入っていた。
「じゃあ、ぼくがさがしにいくよ!
おほしさまがどこからくるのか……ちゃんとみてみたい」
リナの目が丸くなる。
「探しに……?」
「うん。だってきになるでしょ。
あんなにいっぱいあるんだもん!」
その言葉は震えていなかった。
恐怖ではなく、初めて抱いた願いだった。
リナは少し寂しそうに、だが笑顔は崩さず言った。
「あたしも一緒に行きたいな。でもあたしはこの里から出られないの。
この場所から離れちゃダメって、おじいちゃんに言われているから」
悠真は一瞬だけ目を見開いた。
風が吹き、彼の前髪を揺らす。
リナの少し悲しげな横顔を見て、拳を握った。
「じゃあ、ぼくがさがしてくるよ!それでリナにおしえてあげる!」
「え?」
戸惑ったリナを見て続けて言う。
「ぼくのおねがいは、リナにおほしさまが、どこからくるかおしえてあげること!」
リナの顔がぱぁっと明るくなった。
「悠真、すごい冒険になるね!」
「ぼうけん?」
「うん!お星様を見つける冒険だよ!」
リナが両手を広げ、満天の星を抱きしめるように叫んだ。
「じゃあ二人の約束ね!」
悠真は一瞬だけ迷い、しかし⸻
「うん!やくそく!」
自分の言葉に、自分が一番驚いていた。
だが、その言葉に揺るぎがなかった。
流れ星が一つ、音もなく空を横切る。
まるで二人の約束を刻むように。
黒戌があくびをし、尻尾を揺らした。
『……そろそろ帰らねばな。
トワ爺に見つかれば面倒だぞ』
「あっ!そうだね、悠真帰ろう!」
小さな影が星の光に照らされながら駆けて行った。
星流れる夜空の下、小さな“誓い“が生まれた。
⸻
○翌朝・灯屋
朝の光が、灯屋の庭に静かに差し込んでいた。
昨夜の星を思わせるものは、もう空には残っていない。
あるのは、いつもと変わらぬ朝と⸻
しかし、確かに変わっている何かだった。
縁側では、璉夜が湯気の立つ茶碗を手に、庭を眺めていた。
小さな足音が近づく。
「……れんや」
背後から控えめな声。
振り返るとそこには悠真が立っていた。
「……どうした」
いつもより少しだけ背筋が伸びている。
だが、小さな手はぎゅっと握られていた。
「ぼく……れんやに、はなしたいことがある」
璉夜は何も言わず、視線だけで続きを促した。
悠真は一度、息を吸う。
胸いっぱいに空気を詰めてから、言葉を探すように口を開いた。
「ぼくね、さがしにいきたい」
「……何をだ」
「おほしさまが、どこからくるのか!」
言葉は幼い。
けれど、その声に揺らぎはなかった。
「リナとやくそくしたんだ。ぼくがちゃんとみつけてくるって」
縁側で寝そべる黒戌が、片耳を動かす。
『……ほう』
璉夜はすぐには答えなかった。
茶碗を縁側に置き、庭に目を戻す。
「……それは、里の外へ出るということだ」
「うん」
短い返事。
それだけで、悠真の覚悟は十分だった。
「……怖くないのか」
その問いに悠真は少しだけ考える。
そして、正直に答えた。
「こわいよ。でも、しりたいんだ」
黒戌がふっと息を吐いた。
『小僧……いつの間にそんな面をするようになった』
悠真は首を傾けるだけだった。
璉夜は静かに目を閉じる。
脳裏に浮かぶのは、かつて自分が里を出た日のこと。
逃げるように、背を向けたあの朝。
だが⸻
目の前の少年は違う。
「……理由がある者は、強くなる」
璉夜が、昨夜の言葉をなぞるように呟く。
『小僧の理由は……誰かのため、か』
悠真は少し照れたように笑った。
「うん!」
その一言で璉夜の決意も固まった。
『決まりだな、璉夜』
「……あぁ」
璉夜は立ち上がり、悠真の前に膝をついた。
視線を同じ高さに合わせる。
「旅は、楽しいものじゃない。腹も減る。寒い。痛いこともある」
悠真は黙って聞いている。
「それでも……行くか?」
一拍。
悠真ははっきりと頷いた。
「いく!」
その瞬間、風が庭を抜けた。
朝の光が、少年の背を照らす。
璉夜はほんのわずかに口元を緩めた。
「……わかった」
黒戌が満足そうに鼻を鳴らす。
『小さな光が、歩き出したな』
悠真は意味が分からず、きょとんした顔をした。
「ひかり?」
「……気にするな」
璉夜は立ち上がり、空を見上げた。
星は、もう見えない。
だが⸻
進むべき光の筋は、確かに見えていた。
○旅立ちの朝・外門前
里の外門前には、朝靄が薄く残っていた。
木々の間から差す光が、道を淡く照らしている。
悠真は小さな荷袋を背負い、足元を見つめていた。
ほんの数歩で里の外だ。
トワ爺がゆっくりと前に出る。
「行くのじゃな」
「……うん」
トワ爺は、悠真の頭に手を置く。
優しき手。
「星は遠いぞ。空の向こうにあるものは、簡単には掴めん」
「うん」
「じゃがな」
トワ爺は、にいと笑った。
「探そうとし、空を見上げ続けた者だけが、掴めるんじゃ」
その言葉に、悠真は顔を上げた。
「ありがとう、おじいちゃん」
「礼などいらん。帰りたくなったらいつでも戻ってくればよい」
少し離れたところで、リナが立っていた。
いつもの白いカゴは持っていない。
代わりに小さな包みを胸に抱えている。
「悠真」
呼ばれて、悠真は駆け寄る。
「これね、おやつ。お腹空いたら、ちゃんと食べるんだよ」
「うん!」
包みを受け取る手が、少しだけ震えた。
「……あのね」
リナは一瞬だけ視線を落とし、すぐに笑顔に戻る。
「お星様、ちゃんと見てきてね」
「もちろん」
約束の言葉は、それだけだった。
泣き声はなかった。
リナは、いつものように手を振る。
「いってらっしゃい、悠真!」
「いってきます!」
振り返らずに言えた。
黒戌が、くぁっと小さくあくびをする。
『世話になる里だったな』
「……あぁ」
璉夜は最後に一度だけ、里を見た。
灯屋、庭、縁側。
穏やかな朝。
そして、何も言わず歩き出した。
悠真もその背を追った。
小さな光は、まだ名もない道を歩き始めた。




