迷光ノ森
○早朝・星ノ里
薄明の白が、里の屋根を静かに撫でていた。
風は止み、鳥の声さえ眠っている。
昨夜まで灯屋に満ちていた温もりは、まだ璉夜の背中に残っている。
外門の前で、黒戌がゆっくりと伸びをした。
『行くのか、璉夜』
「あぁ。トワ爺の頼みだ。薬草を手に入れればいいだけだろう」
自分に言い聞かせるような声だった。
足は前へ進むはずなのに、胸の奥だけがまだ昨夜の灯りに残っている。
「……妙だな」
『何がだ』
「この里は“戻る場所”であるような気がする。
俺のような者に、そんな感覚が残っていたとはな」
黒戌は尻尾を一度だけ揺らし、前を向いた。
『ならば確かめるがよい。行き先の森が、お前の迷いを映すだろう』
璉夜は眉を寄せ、静かに門をくぐった。
⸻
○星ノ里・外れの坂道
露の光る石畳を踏むたび、音が吸い込まれていくようだった。
里を離れるにつれ、空気が変わっていく。
リナの声も、灯屋の匂いも、もう背後に遠ざかる。
「……あの森には、迷う者が多いと言っていたな」
『迷いとは、道が分かれている証。道があるうちは、闇ではない』
黒戌の低い声が、静寂を割く。
「道が見えなくなれば、どうなる……」
『その時は、“闇”が包むのだろう。
だが迷う者がいる限り、灯りは消えぬものよ』
まるでリナの言葉が再生されたかのようで、璉夜は苦笑した。
「リナは、無謀なことを言う。誰も迷わない世界など——」
『ありえぬ。だが、ありえぬ願いこそ……』
胸の奥が、ひとつ脈打った。
この感覚は、何なのかまだ言葉にならない。
⸻
○森への道標
やがて、木々が影を落とし始める。
そこに一本だけ古い杭が立っていた。
色褪せた札には、掠れた文字。
《森ニ入ルナ 願イヲ失ウ》
「……物騒な忠告だな」
『“願い”を持たぬ者は迷う、という意味かもしれぬな』
「俺の願い……。願いとは——」
言葉は喉で止まった。
胸に残る痛みが、まだ完全には消えていないのだと気づく。
黒戌が璉夜を見上げる。
『願いを棄てた者は闇は抱えるものだ。
それが道となるか、檻となるかは……歩む者次第よ』
璉夜は答えず、一歩踏み出した。
⸻
○深瑞ノ森・入口
森の境界を越えた瞬間、世界が音を閉ざした。
風は止み、鳥の声はない。
湿り気を帯びた空気が肌に張り付き、視界の端が霞む。
「……ここが“深瑞ノ森“か。里とは空気が違うな」
『星の匂いが薄い。何かが失われ、何かが置き去りにされておる』
黒戌の声は低く、慎重だった。
璉夜は剣に触れそうになる手を抑え、ゆっくりと森へ踏み込む。
足元の土は柔らかく、歩くたびに沈む。
理由はわからないが、心がわずかにざわつく。
森の奥へ進むほどに、風景は沈み、音は閉ざされ、
——思考だけが増幅していった。
『璉夜……歩みが鈍っておる』
「気にするな。ただ少し、過去を思い出しているだけだ」
『その過去が、この森に似ているのかもしれぬな』
璉夜は答えず、木々の間を見据えた。
森の深部に近づくにつれ、
空気はさらに冷え、風は息を潜める。
その時だった。
かすかに——
嗚咽のような、泣き声が聞こえた。
人か、獣か、風のいたずらか。
判断できないほど小さく、しかし確かに。
璉夜の足が止まる。
『……聞こえたか』
「あぁ。あれは——」
それが“誰”の声なのか、まだ知らない。
ただ、この森に残された“願いの欠片”が、
今、璉夜と黒戌を呼び寄せた。
——光を失った少年の声だとも知らずに。
⸻
○森の奥
泣き声は、風でも獣でもなかった。
それは——人の声だった。
湿った土を踏みしめ、枝葉を掻き分けるたび、
声は微かにだが確実に、璉夜を誘うように響いてくる。
黒戌が立ち止まり、背筋を伸ばす。
『気をつけよ。あれは弱者の声ではない。“拒絶”の匂いがする』
「拒絶……?」
やがて、木々が途切れ、小さな空間が開けた。
そこに、少年がいた。
ぼろのような衣を纏い、膝を抱え、震えている。
肩は細く、呼吸は弱く、光を吸ったように瞳は灰色だった。
それなのに——周囲の空気だけが光っていた。
まるで少年の涙が、微かな光となって漏れ出ているかのように。
璉夜は言葉を失う。
(光が……泣いている?)
少年は、璉夜の気配に気づくと、その身を強張らせた。
「……来ないで」
声は掠れているのに、その拒絶だけは鋭かった。
「……迷ったのか?」
璉夜の問いに、少年は首を振る。
「迷ってない……どこにも、行く場所なんてないだけ」
その言葉は、過去の璉夜自身の声だった。
(これは……俺が、六年前に捨てた言葉)
胸がひとつ脈打つ。
璉夜は無意識のうちに距離を詰めていた。
「……名は?」
少年の瞳が微かに揺れた。
誰かに問われることを、久しく忘れていた目だった。
「……悠真」
名乗ると同時に、光がふっと揺れた。
その光は暖かくも眩しくもない。
ただ、消える寸前の焔のような光。
『この子……光を宿しておる。“自らの願い”を捨てようとしている』
黒戌の声音は低い。
少年は瞳を伏せ、呟くように言った。
「もう、光なんかいらない。
願っても、誰も助けてくれないのに……」
その声に、璉夜の心臓が軋む。
(願いを捨てる光……俺と同じだ)
闇と光という違いだけで、
二人は同じ場所にいたのだと悟る。
⸻
○夕刻・森の奥
「……悠真」
璉夜は名を呼ぶ。
少年が小さく肩を震わせる。
「願いは叶わん。祈りも届かん。
それでも、生きる理由はどこかに落ちている」
「……そんなの、どこにあるの?」
「……わからん。だが——」
璉夜は自分の胸に手を当てた。
かつて掴み損ね、今なお疼き続ける場所。
「俺にも分からなかった。だが、この里には灯りがあった。
誰かが笑っていた。……それだけで足が止まった」
少年の瞳が、微かに揺れる。
「怖いのは、願いを失うことではない。
願わぬまま、生きることをやめることだ」
その言葉は、悠真の世界が閉じていく音の中に、わずかに差し込んだ。
「……僕なんか、行っても……」
「……ついて来い」
璉夜は手を差し伸べた。
「行く理由などいらん。戻りたいと思う場所があれば、それでいい」
悠真は、震える指先でその手を見つめた。
迷い、怯え、それでも——触れたいと願う子どもの目。
やがて、そっと手が重なった。
その瞬間、少年に残っていた光が、
かすかに揺れ、小さく灯った。
⸻
○夜・森の出口
黒戌が前へ出て、森の暗がりを見渡す。
『行くか、璉夜。あとは戻るだけだ』
「あぁ。里に戻る」
悠真が小さく問う。
「……ついていって、いいの?」
「……好きにすればいい。自分の居場所が欲しければな」
少年は泣きそうな笑みを浮かべ少し頷いた。
璉夜が歩き出すと悠真は一歩遅れてついてくる。
帰り道は来た時と違い、風が吹いていた。
木々がざわめき、森が彼らを押し出すように揺れている。
「森がおしゃべりしてる……」
『不思議な力を持った子だな』
「……そうだな」
静かに囁き森を抜ける三人であった。
木々の影が薄れ空の色が戻ってくる。
月の光が差した途端、悠真は立ち止まった。
眩しさではない。
外の世界への戸惑いであった。
「……ここからだ」
璉夜が言うと、悠真の指先が微かに震えた。
その震えを押し殺すように、小さく前へ踏み出した。
言葉はない。
だがその一歩だけで、十分だった。
森が後ろで音を立て、閉じるように風が止んだ。
⸻
○夜更け・星ノ里への道
森を離れれば離れるほど、空気が軽くなる。
ただ、悠真の肩は強張ったままだった。
璉夜は振り返り問う。
「息が苦しいか?」
悠真は俯いたまま返事をしない。
代わりに衣の端を強く握りしめた。
『この少年、声を出すことすら恐れておるな」
「……時間はまだある。ゆっくりでいいさ」
悠真は静かに歩き続けた。
見えぬ何かと戦う小さな姿を見て、璉夜は小さく微笑んだ。
⸻
○夜明け・灯屋前
灯屋の灯りが見えるとトワ爺が木箱を抱え、
なにやら仕分けをしていた。
夜気に晒された古い薬草の束が並び、
トワ爺は指先で一つ一つ香りを確かめている。
「ほう……帰ってきたか、璉夜」
振り返ったトワ爺の声には、驚きも問い詰める気配もなかった。
璉夜は一言だけ返す。
「すまない、薬草は見つからなかった」
「ふむ、ならばまだ森の奥だろう。薬草は逃げぬ、またお願いしようかの」
その返答は、まるで“そうなると知っていた“かのようであった。
璉夜の背後からひょこっと姿を見せた悠真。
里の門を越えた時より、身体を固くしていた。
トワ爺はその様子をひと見て、何も気づかぬふりをして微笑む。
「おや、客人かの」
悠真は肩を震わせ俯いていた。
璉夜は簡潔に伝えた。
「……森で倒れていたから連れてきた」
「そうかそうか。なら、まずは火の側がいいの。寒さは心を固くする。灯りは、それをほぐすからの」
トワ爺は木箱を横に置き、灯屋の戸を軽く叩いた。
「リナ、璉夜が帰ったぞ。お客さんも一緒だぞ」
しばしの静寂。
次の瞬間⸻
「おかえりーっ!」
勢いよく戸が開き、星飾りを光らせたリナが飛び出してきた。
その輝きは、夜明けの星より無防備で真っ直ぐだった。
「この子、だれ?璉夜のお友達?」
悠真は視線を逸らし、袖を掴む指を強くする。
リナは悠真の様子を気にすることなく、パッと笑う。
「ねぇ、灯屋の中はあったかいよ!入ろ?」
悠真は俯いたまま応えない。
ただ、目元が一瞬だけ揺れた。
その揺れは、言葉より確かな迷いだった。
「無理に話さなくて大丈夫だよ、おいで」
リナはふと声音を柔らかくする。
それは子供が持つ残酷でも慈悲でもない、ただ素直な優しさであった。
「寒いとね、涙が出ちゃうんだって。
だから、あったかいところにいないとダメなんだって。
ね、おじいちゃん」
トワ爺が微笑む後ろで、悠真の肩が微かに震え涙が溢れた。
小さな少年の感情が、涙で漏れた。
璉夜はその様子を黙って見届ける。
(涙の理由を問う必要ない。泣いた証があるなら、それでいい)
黒戌が低く呟く。
『灯りは追わぬ。側にあるだけで、闇を揺らす』
トワ爺が静かに頷き、戸を開ける。
「まずは火にあたるとよい。
光は選ばん、来るものに等しく届く」
悠真は最後まで言葉を出さなかった。
それでも⸻
一歩、灯りへ近づいた。
その一歩が夜と朝の境目が音もなく動いた。




