灯ノ少女
○早朝・星ノ里
朝霧の中、鐘の音が響く。
星ノ里の一日は、祈りと共に始まる。
璉夜は、村の外れの畑で鍬を振るっていた。
手にした剣を畑の道具に持ち替えたのは、人生で初めてのことだった。
傍では、リナが桶を抱えながら笑っている。
「ねぇ、璉夜、畑仕事似合うじゃん!」
「……剣を振るよりは、疲れないな」
「ふふ、顔は怖いけど優しいんだね」
その無邪気な言葉に、璉夜は言葉を返せずに視線を逸らす。
黒戌が足元で眠たげに伸びをした。
『璉夜よ、悪くない日々だな』
「……そうだな。悪くはない」
穏やかな風が吹き、花の匂いが過ぎる。
いつの間にか心の中の“迷い“が少しずつ薄れていることに気づいた。
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○夜・トワ爺の灯屋
囲炉裏の炎が壁にゆらゆらと影を映す。
トワ爺が星図を広げながら、呟くように言った。
「星は巡る。生きとし生けるものもまた、星の巡りの中にある。消えた星も、いつか形を変えて光を取り戻す……璉夜も、そう思うじゃろう?」
璉夜は黙って茶を啜る。
火の粉が舞い上がり、天井に小さな星のように光を描いた。
『……璉夜よ、それでも闇はお前の中に生きている』
「わかってる。だが、今はそれでもいい」
リナは障子の陰から覗き込み、笑って言う。
「ねぇ璉夜!明日、星ノ丘に行こうよ!」
「……星ノ丘か、よかろう」
「やったぁ!くろこも一緒に行こうね!」
リナの透き通った笑い声が灯屋内に響いた。
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○翌朝・灯屋の前
夜明けの光が、霧を淡く染めていた。
灯屋の屋根が白く霞み、鳥の声が遠くで震えている。
「ほら、璉夜!今日は星ノ丘、行くって言ったでしょ!」
リナが勢いよく戸を開ける。
まだ眠気の残る瞳とは裏腹に、声は朝の風よりも元気だった。
璉夜は腰の刀に手を添え、わずかに息を吐く。
「……そんなに急がなくても丘は逃げん」
「逃げちゃうかもしれないよ?怖い顔の人から!」
悪戯っぽく笑うリナに、黒戌が尻尾を揺らした。
『願いとは、追うものより、追われる方が厄介だな』
「難しいねぇ、くろこ」
リナは笑い、先に石畳を駆け出した。
璉夜は小さく首を振り、後を追う。
その足取りは、六年の旅路とは違う。
気づかぬうちに、肩の力がわずかに抜けていた。
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○早朝・道中
里の外れにある古い階段は、朝露で濡れ光っていた。
踏むたびに靴底が、星の欠片を散らすようにきらりと光る。
「ここから先は静かなんだよ。みんな夜に来るから」
「あえて朝に行くのが、リナのやり方か」
「だってね——夜だと、星が綺麗すぎて泣いちゃうの」
リナは笑いながら言うが、その言葉にはどこか真実めいた響きがあった。
『星は涙を吸う。そうして人はまた、次の願いを生む』
「くろこの言葉は難しいから嫌い」
『嫌われるとは光栄だ』
黒戌は鼻を鳴らす。
二人の笑い声を璉夜は無言のまま、そのやり取りに耳を傾けていた。
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○星ノ丘・頂
丘に辿り着いた瞬間、風の色が変わった。
花々が揺れ、白い花弁がふわりと舞い上がる。
地面に散るそのひとひらは、朝陽を浴びて淡く光り、
まるで星が落ちてきたかのようだった。
「ここが星ノ丘!」
リナは息が弾むまま、両手を広げて駆け回る。
「綺麗でしょ?夜になるともっと光るんだよ。
星が地面に降りてきたみたいに!」
少女の声は、丘に溶けていった。
それは、この場所が子供たちにとって特別である証のようだった。
璉夜は風に靡く花を見つめる。
踏み締める土は柔らかく、どこか温かい。
六年間、忘れていた感覚——
“彼女が祈った場所”に似た匂いがした。
『……悪くない場所だな』
黒戌が欠伸をし、花の匂いを鼻先で吸い込む。
「そうでしょ?ここね、あたしのお母さんが好きだった場所なんだ」
リナの声色が少しだけ変わる。
笑っているのに、瞳の奥だけが寂しげだった。
「お母さんね、星を見ると泣いてたの。
“願いは届くのに、届かない”って言ってた」
「……届くのに、届かないか」
「うん。でもね——」
リナは丘の端、森の方角へ視線を向けた。
「あっちの森に、願いを追いかけて行く人がいたんだって。
戻ってきた人はいないけど……あたし、いつか行ってみたいなって思ってた」
森は薄暗く、風さえ届かず、ただ影を孕んでいた。
丘の明るさとは対照的に、まるで別の世界の境界線のようだった。
「……不気味なところだな」
璉夜の声は低く、無意識に荒さを帯びていた。
リナは瞬きをし、ふっと微笑む。
「璉夜、怖いの?」
「どうだろうな……ただ、嫌な気配がする」
『闇とは違うな、これは“空いた場所”だな。
何かが足りぬまま、取り残された気配』
黒戌の言葉に、リナは少しだけ首を傾げる。
「でもね、星ノ丘は願いを置く場所なんだって。
森は、その願いの行き先なんだよ」
その言葉は、丘に刻まれた石碑の文字と重なる。
《丘は願いを拾い、森は願いを問う》
璉夜の胸が、ひとつ脈打った。
心臓が、忘れた痛みを思い出すように。
「……リナは、願いがあるのか」
問いかけると、リナは空を見上げた。
暗朝の空に、消えそうに薄い星がひとつ残っている。
「あるよ。“誰も迷わない世界になればいいな”って」
璉夜は言葉を失った。
闇に迷い続けた者が聞けば、
あまりにも無謀で、あまりにも眩しい願いだった。
『迷わぬ者などおらぬ。迷えるから、生は続く』
「でも、その迷いが優しいならいいよね?」
リナは笑い、花の上に座り込む。
「だから、あたしは“灯り“になりたいの」
真っ暗な夜道で、誰かの迷いが泣かないように」
その言葉は、闇の底から這い上がってきた璉夜にとって——
あまりにも残酷で、あまりにも救われる響きだった。
風が吹き、花が揺れ、丘が静かに息づく。
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○夕刻・星ノ里へ戻る道
丘を後にすると、空の色はゆっくりと紫へと移り変わっていった。
風は冷たく、昼に揺れていた花の匂いは、もう里の空気へと溶けていく。
リナは花を一輪抱え、跳ねるように歩いていた。
対照的に、璉夜の足取りは静かだった。
森の影が、心のどこかを掴んで離さない。
『気にしておるな、あの森のことを』
「……否定はせん。何かが眠っている。あれはただの森ではない」
『闇ではない。空の匂いだ。埋まらぬ何かがある』
黒戌の言葉が、胸の奥に沈んでいく。
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○夜・灯屋
囲炉裏の火が、昼よりも赤々と揺れていた。
トワ爺は湯飲みを手に、星図の上を指でなぞっている。
「戻ったか。星ノ丘はどうじゃった?」
「悪くはない。……ただ、丘の先に森があった。
リナは願いが向かう森だと言っていた」
トワ爺はふっと笑みを浮かべる。
「ほほ、それはおとぎ話よ。
星ノ里には昔から言い伝えが多くてな。
願いが丘に残り、森へ流れ込む。子どもは好きじゃろう?」
「真実ではないと?」
「真実など、誰が決めるものでもないさ。
信じる者がいれば、物語は息をする」
笑いながら言うトワ爺の声には、怖さも重みもなく、ただ柔らかさだけがあった。
璉夜はそれ以上追及せず、黙って湯飲みを受け取る。
ふと、トワ爺が思い出したように指を鳴らした。
「そうじゃ、璉夜。ひとつ頼みがあるんじゃ」
「頼み?」
「あの森の奥に星返草という薬草がある。
この里の者では、深くまで入ることができん。
道を誤りやすく、迷う者も多いゆえな」
「……俺に行けと言うのか」
「うむ。お主の足なら森も拒むまい。
剣を携えた旅人ほど、帰る道を間違えぬものじゃ
それにあの森が気になるんじゃろ?」
黒戌が鼻を鳴らす。
『理屈めいておるが、悪い話ではない』
「明日の朝、森へ向かってくれればよい。
薬草は今、どうしても必要でな。頼むぞ」
その眼差しは真っ直ぐで、余計な思惑は見えなかった。
璉夜は静かに頷く。
「よかろう。明日森へ行こう」
「感謝するぞ。星の巡りが、お主を導かんことを」
その言葉は祈りのようで、しかし押し付けがましさはなかった。




