『剣聖リアムと呪縛の呼び声』- 6
風が、妙に生温かい朝だった。
見張り台の上で、カインは腕を組んだまま動かなかった。僕が梯子を登り、声をかけても、彼は視線だけで応えるのみだ。その目は、森の深奥にある見えない何かを射抜こうとしているようだった。
「……隣村から、ギルドへ早馬が出たそうだ」
カインの声は低い。
「討伐依頼、ですか」
「ああ。オークの群れだとさ」
僕は眉をひそめた。
この時期のオークは、単独行動が定石だ。群れる理由がない。
「妙ですね」
「ああ。……森が、怯えている気がする」
カインの勘は外れない。その不穏な空気は、夕暮れと共に形を持って現れた。
森の方角から、男が一人、転がり込んできたのだ。
隣村の猟師だった。右肩の肉がごっそりと削がれ、出血がひどい。
カインが駆け寄り、身体を支える。
男は、カインの腕を掴み、血の泡を吹きながら、うわ言のように繰り返した。
「……違う。あんなの、オークじゃねえ……」
男の瞳孔が開いていく。最後に彼が見たのは、僕たちの顔ではなく、脳裏に焼き付いた恐怖の残像だったのだろう。
指先が森を指し示し、そして、落ちた。
村に、重い沈黙が降りた。
それを破ったのは、皮肉にも、蹄の音だった。
「カイン! 冒険者だ! ギルドの依頼を受けてきたって!」
村の若者の声に、僕は顔を上げた。
村の入り口。夕日を背に、華美な装飾の鎧が嫌味に光る。
見覚えのある顔。ジャレッドだった。
「……こんな辺鄙な場所が、あなたの掃き溜めでしたか。リアム」
馬上のジャレッドは、僕を見下ろし、口元だけで笑った。
カインが一歩、前に出る。
「俺が代表のカインだ。話を聞こう」
ジャレッドは、鼻を鳴らした。
「ふん。依頼は受けてやりますよ。ただし、報酬は三倍。それと、一番マシな寝床と酒を用意しなさい。……こんな泥臭い村に、期待はしていませんがね」
夜。
提供した家からは、下卑た笑い声と、食器のぶつかる音が漏れていた。
「水みてえな酒だな!」
「違いない。王都に帰ったら、口直しが必要だ」
僕たちの警告など、彼らの耳には届かなかった。彼らにとって、ここはただの通過点であり、オークはただの小遣い稼ぎでしかなかったのだ。
―――破滅は、唐突に訪れた。
鐘の音。
村の空気が凍りつく。
家から飛び出してきたジャレッドたちの顔は赤く、酒臭い息を吐いていた。
広場には、一頭のオークが立っていた。
「はん、雑魚が。手間をかけさせるな」
ジャレッドが杖を振るう。
炎の槍が走り、オークを呑み込んだ。悲鳴を上げる間もなく、巨体は炭化し、崩れ落ちる。
「さっすが隊長!」
「酔い覚ましにもなりやしねえ!」
仲間たちが囃し立てる。ジャレッドは得意げに鼻を鳴らした。
だが。
炎が消えた闇の奥から、無数の赤い光が灯った。
一つ、二つではない。十、二十。
ぬ、と闇から姿を現したのは、オークの群れ。
その中心に立つ個体は、異様に巨大で、その口からはみ出した牙は、血を啜ったかのように赤く染まっていた。
「……な」
ジャレッドの顔から、酔いが一瞬で醒める。
『グルルルルァァアアアアッ!!』
咆哮。
それは獣の鳴き声というより、大気がひび割れる音に近かった。
ジャレッドが腰を抜かす。仲間の一人が、恐怖で剣を取り落とした。
巨体のオークが、その隙を見逃すはずもない。巨大な斧が、風を切る。
「ぼさっとするな!」
僕は、身体ごとジャレッドにぶつかっていた。
ガギィン!
剣で受け止めた衝撃が、骨を軋ませる。重い。通常のオークの比ではない。
「ひっ、あ、貴様! 何をする!」
「死にたいんですか! 魔法で援護を!」
僕が叫んだ時、ジャレッドはすでに背を向けていた。
彼の目に映っていたのは、僕でも、敵でもない。ただ「死」そのものだったのだろう。
「……冗談じゃない。こんなところで死ねるかッ! おい、お前ら、時間を稼げ!」
ジャレッドは仲間を突き飛ばし、森の闇へと駆け出した。
「た、隊長!?」
残された仲間が、慌ててその後を追おうとする。
その時。
風が、止まった気がした。
逃げた仲間の首が、不自然な角度で跳ね飛んだ。
声もない。
どさり、と肉塊が落ちる音だけが、やけに大きく響いた。
闇が、揺れる。
そこから、音もなく姿を現したのは、夜そのものを纏ったかのような、一人の魔族。ダークエルフ。
「―――一人」
氷のように冷たい声。
ジャレッドが、ひきつった顔で振り返る。
「あ、が……」
彼の腹から、禍々しい刃が生えていた。
いつの間にか。
瞬きするよりも速く。
ダークエルフは、ジャレッドの背後に立っていた。
「……二人」
ジャレッドが、ゴミのように捨てられる。
その瞳には、恐怖の色だけが焼き付いていた。




