『傭兵ボルグと二つの正義』 - 7
三日後の夜。決行の刻。
忘れられた水路は、月の光さえ届かない完全な闇と、澱んだ水の匂いに満ちている。
先導するのは、エルリック伯爵が手配した水路の構造を知り尽くしているという痩せた男だった。
彼はまるで己の庭のように、音もなく汚れた水の中を進んでいく。その後ろを、黒装束に身を包んだボルグが息を潜めて続いた。
陽動部隊の数人の部下たちは、さらにその後方でボルグの合図を待っている。
どれほどの時間が経っただろうか。先頭の男の足が、ぴたりと止まった。
目の前には錆びついた鉄格子。その向こうから微かに松明の光が漏れている。地下牢獄の最深部に繋がる通路だ。
ボルグは慎重に鉄格子に近づき、その隙間から中の様子を窺った。
そして、その動きが凍りついた。
通路の向こうは松明で煌々と照らされ、精鋭と思しき騎士団の兵士たちが完璧な陣形で鉄格子を囲むようにして待ち構えていた。
そして、その中心。
石像のように微動だにせず佇む一人の騎士。
『笑わぬギデオン』
ギデオンは鉄格子の向こうの闇を静かに見据えていた。
まるで、ボルグがそこに来ることを最初から知っていたかのように。
「―――待っていたぞ、侵入者」
その、絶望的な光景を前に、闇の中のボルグは、しかし、不敵に笑った。
「……ふっ。そう来ると思ったぜ、ギデオン」
次の瞬間、ボルグは懐から取り出した革袋を、鉄格子の隙間から投げ込んだ。
革袋は床に落ちると、パン! という鼓膜を突き破るような轟音と、閃光を放った。
閃光弾が放った轟音と閃光に、屈強な騎士団の兵士たちが思わず目と耳を塞ぎ、体勢を崩す。
「なっ!?」
「陽動か! 本隊は別の場所だ! すぐに大広間へ向かえ!」
ギデオンは即座に状況を判断し部下たちに叫んだ、その時。
バガン!
凄まじい破壊音と共に鉄格子が、内側へと無残に蹴破られた。
「悪いが、時間を稼がせてもらうぜ。――お前の相手は俺だ、ギデオン」
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―――三日前、エルリック邸の書斎。
ボルグが、見取り図を前に、水路からの侵入計画を語り終えた時だった。
「ああ。ギデオンとかいう石頭が責任者なら、なおさらな。奴は、正面を守ることしか頭にない。教本通りの警備しかできんのさ」
その絶対的な自信に満ちた言葉に、エルリック伯爵は重い口を開いた。
「……本来なら、その計画で問題はないだろう」
「どういうことだ、伯爵?」
「……四年前、私がギデオン卿に王族の子の保護を命じた時……彼を城から脱出させるために、私が教えたのがその古い水路なのだ」
「……何?」
「彼はその通路を知っている。君がそこを狙うと、必ず読むだろう。そこは死地になるぞ」
その、絶望的な情報。
ボルグは忌々しげに舌打ちをすると、拳でテーブルを叩き、頭を抱えた。
「……くそっ! 他に手はねえってのによ!」
八方塞がりの状況。書斎は、重い絶望に包まれた。
その沈黙を破ったのは、これまで黙って地図を眺めていた、アリサだった。
「……水路という『横』の道が塞がれているのでしたら、いっそ、誰も見ていない『縦』の道を使うのはどうでしょう?」
全員の視線が彼女に集まる。
アリサは少しだけ顔を赤らめると、地図の上、王城の大広間のさらに上を指し示した。
「……子供の頃、よく城の中で探検ごっこをしておりましたの。その時に見つけたのです。大広間の天井裏から、地下牢のちょうど真上まで繋がっている、古いシャンデリア用の昇降路があることを」
その誰も予想しなかった言葉。
ボルグは呆気に取られた顔でアリサを見ていたが、やがて、その口元に笑みが浮かんだ。
「……はっ。天井裏だと? 敵のど真ん中のさらに真上じゃねえか。正気の沙汰じゃねえな」
彼は心の底から愉快そうに笑った。
「だが、面白い。危ねえ橋ほど渡る価値があるってもんだ」
ボルグはアリサの頭を大きな手でわしわしと撫でた。
「―――おてんばめ。いいだろう、その案に乗った」




