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『薬師リーナと賢獣の遺志 』- 閑話

 店の全ての戸締りを終え、ランプの灯りを一つだけ残した店内は、静寂に満ちていた。

 壁に掛けられた古時計の振り子が、カチ、コチ、と無機質な音を刻むだけ。二階の寝室からは、リーナとクレアの穏やかな寝息が微かに聞こえてくる。


 薬師イズミエールは、その寝息をしばし耳で感じ取った後、音もなく調合室の奥へと向かった。

 彼女は、店の裏手にある小さな温室の扉の前に立つ。頑丈な鉄の錠前が、月明かりを鈍く反射していた。彼女はその錠前にそっと手を触れると、懐から取り出した鍵でそれを静かに開けた。


 温室の中は、月光草の放つ淡い光で、幻想的な青色に満ちていた。

 リーナが八年前に持ち帰った一株から、丹精込めて育て上げた奇跡の花々。その一つ一つが、まるで夜空の星々のように生命の輝きを宿している。


 イズミエールはその光景には目もくれず、棚の奥に隠された小さな木箱を開けた。中には一服分のポーションが淡い光を放って収められている。彼女はそれを手に取ると再び錠前をかけ、店の奥、病の子が寝かされている寝台へと向かった。


 子供の呼吸は昼間よりもさらに浅く、苦しげだった。

 ゼェ、ゼェ、と喉が鳴るたびに、小さな身体が痛々しく震える。そばで付き添う母親は祈ることも忘れたかのように、ただ呆然と我が子の顔を見つめていた。


「……少し、席を外していただけますか」


 イズミエールの静かな声に、母親ははっと顔を上げた。

「ですが……!」

「すぐに、終わります」

 その有無を言わせぬ響きに、母親はなすすべもなく頷くしかなかった。


 二人きりになった部屋で、イズミエールは子供の唇をそっと開き、ポーションを数滴、ゆっくりと垂らした。

 淡い光を放つ液体が、乾いた唇に染み込んでいく。

 彼女は濡れた布で子供の額の汗を拭いながら、その小さな顔をじっと見つめていた。その瞳に温かい、慈愛の色が浮かぶ。


 その苦しげな呼吸音は、忘れることなどできない。



 ―――思い出すのは、十年前の、あの冷たい雨の夜。

 彼女は、森の中で二人の子供を見つけた。モンスターに両親を殺され、泥と雨にまみれ、ひどい熱を出して寄り添うだけの小さな姉妹。妹のアリスはぐったりと意識を失いかけ、姉のリーナは、その小さな身体を必死に抱きしめながら、獣のようにこちらを睨みつけていた。二人ともひどい風邪を引いており、苦しげに呼吸をしていた。


 薬師として多くの死を見送ってきた自分にとって、人の命の儚さは骨身に染みている。関わるべきではない。情を移せば、必ず喪失の痛みが待っている。そう、分かっていたはずなのに。


 リーナの瞳。

 あの瞳が、忘れられなかったのだ。絶望の縁にありながら、決して諦めることを知らない、強い光。それは、イズミエールがとうに失くしてしまった、生命そのものの輝きだった。イズミエールは、彼女たちを引き取ることに決めた。


 あれから十年。あんなに小さかった手を引いて歩いた日々も、いつの間にか過去となった。今では見上げるほどに背も伸びてしまった二人。その成長は、育ての親としての小さな喪失感と、それ以上に大きな誇りをイズミエールの胸にもたらしていた。特にリーナはあの頃の強い光を瞳に宿したまま、本当に立派な弟子に……いや、立派な娘に育ってくれた。



 ――子供の呼吸が、少しずつ穏やかなものへと変わっていく。土気色だった顔に、僅かに血の気が戻り始めていた。

 奇跡。

 だが、この奇跡は諸刃の剣だ。

 イズミエールはこの月光草が、ただの万能薬ではないことを知っていた。そのあまりにも強大な治癒の力は、世界の理そのものを歪める。そして、その力を求める者は光の中だけにはいない。むしろ、深い闇の中にこそ、その力を渇望する者たちがいる。


 影でうごめき、世界の歪みを望む者たち。

 彼らがこの薬の存在を知れば、必ず手に入れようとするだろう。力づくで。

 だからこそ彼女は月光草を封印し、リーナの旅を止めようとした。あの子たちを世界の悪意から遠ざけるために。


『錠前はね、リーナ。宝が牙を剥かぬよう、それを閉じ込めておくためにもあるのよ』


 昼間の、自分自身の言葉が蘇る。

 そう、この錠前は月光草という宝を守るためだけではない。リーナとクレアという、何よりも大切な宝を、悪意という牙から守るためのものだ。


 だが、あの子はきっとまた同じことをするだろう。

 八年前、たった一人で『迷いの森』へ向かった時のように。目の前に救うべき命があれば、リーナはどんな危険も顧みず、自らの信じる正義のためにこの錠前を壊そうとするだろう。そのあまりにも真っ直ぐな優しさが、いずれ彼女自身を危険に晒すことになる。


(……その時が来たら)


 イズミエールの口元に、ほんのわずかに決意の笑みが浮かんだ。

 あの子が錠前を壊すその時。世界の悪意が、牙を剥いてリーナに襲い掛かるその時。


(……私が、全ての罪を被ろう)


 この薬を作ったのは私だ、と。あの子は何も知らない、と。

 そうすればあの子たちは、ここから逃げる時間が稼げるはずだ。


 イズミエールは静かに立ち上がると、窓の外に広がる、嵐の前の静けさを湛えた夜空を見上げた。

 彼女の決意は固まった。

 それは薬師としてではなく、一人の「母」としての揺るぎない覚悟だった。

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― 新着の感想 ―
そうか…師ではなく母として。ならその行動のすべてに納得がいく。皆愛情深いなぁ。
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