『薬師リーナと賢獣の遺志』 - 5
グリフォンが光となって消えた後も、リーナとアリスはしばらくその場を動けずにいた。
リーナの掌には、まだ温かい光を放つ秘石が握られている。
「……帰ろう、アリス」
リーナは妹の手を引いてゆっくりと立ち上がった。
「師匠に報告しないと。グリフォン様は安らかに旅立たれた、って」
絶縁を言い渡された時の師の凍てつくような声が蘇る。だが、リーナの心には不思議と師への恨みはなかった。ただ、真実を伝えなければならない。その一心だけだった。
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数日後。二人は見慣れた王都の東門の前に立っていた。
ヨハンは近づいてくる二人の姿を認め、掃いていた箒の手を止めた。
(……リーナのお嬢ちゃんたちか。一年ぶりか……)
「門番さん! ご無沙汰しております!」
リーナが、その顔に久しぶりの笑みを浮かべて駆け寄ってきた。
「お嬢ちゃん、無事だったか。一年ぶりぐらいか?」
「はい。色々ありまして……」
リーナの笑顔に、ヨハンにはわずかな翳りがあるように思えた。隣のアリスは、最後に見た時よりもずっと背が伸び、姉を気遣うように寄り添っている。
「こんにちは、門番さん! また姉とお喋りしに来ました!」
ヨハンはその深い皺の刻まれた目元を、これまでにないほど優しく細めた。
「そうか。息災で何よりだ。本当に良かった」
リーナはそのヨハンの温かい眼差しに一度頷くと、表情を引き締めて本題を切り出した。
「ありがとうございます。……ですが、門番さん。実は、急いで師匠に報告しなければならないことがあって戻ってきたのです」
「ほう?」
「月光草を授けてくださったグリフォン様が病に倒れ……。私が、その最期を看取りました。そのことを、師匠に……」
「そうか、あのグリフォンが……。それは、大役だったな。分かった。落ち着いたら、また顔を見せに来てくれよ」
ヨハンはそれだけを言うと、彼女たちを王都の中へと見送った。
リーナたちの背中が、雑踏の中へと消えていく。
ヨハンは、いつものようにその背中を見送った。
そう、それはいつもの光景。……そのはずだった。
……何も、聞こえない。
ゾッとするような悪寒が、彼の背筋を駆け上がった。
(……なぜだ? 旅は終わったはず。結末は確定したはずだ。なのに、なぜ何も聞こえん?)
ヨハンの胸中に、悪い予感が渦を巻いてゆく。
(……まずい。あのお嬢ちゃんは、まだ渦中にいる。それも、一人では切り抜けられんほどの、深い渦だ。…守る者が必要だ。腕の立つ信頼できる者が……!)
ヨハンは目を閉じ、意識を集中させた。自らが持つ新たな力。【遠き旅人への祝福】。
.王都のどこかにいるはずの守護者へ、リーナを守るという新たな旅の始まりを祈って。
《スキル【遠き旅人への祝福】が拡張され、二つの祝福が発動します》
《対象者ボルグに、祝福**『背後から向けられる殺気を、ほんの少しだけ感じ取りやすくなる』を付与しました》
《対象者ギデオンに、祝福『掲げる盾が、守るべき者の元へほんの少しだけ早く届くようになる』**を付与しました》
ヨハンは目を開けた。
「お嬢ちゃん、待ちなさい!」
柄にもなく大声を上げ、リーナの後を追う。雑踏の中で彼女の肩を掴んだ。
「門番さん……? どうかしましたか?」
怪訝な顔をするリーナに、ヨハンは、これまでにないほど真剣な顔で言った。
「……引き留めてすまんな。だが、どうしてもいやな予感がする。いいか、決して他人に気を許してはいけない。もし、万が一のことがあれば……そうだな、王都の西にある傭兵ギルドを訪ねなさい。そこにボルグという男がいる。彼は無愛想な男だが、信頼できる人間だ。私の名を出せば、きっと守ってくれるだろう」
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言い知れぬ不安を胸に、リーナはアリスと共に師の店へと急いだ。
だが、彼女たちを迎えたのは、荒らされた店内と冷たい静寂だけだった。裏手の温室は扉が破壊され、大切に育てられていた月光草は根こそぎ踏み荒らされ持ち去られていた。
「師匠……!?」
イズミエールの姿はどこにもない。
カウンターの上に一枚の羊皮紙がぽつんと置かれていた。
『お前の信じる道を進みなさい』
「……姉さん」
アリスが震える声で言った。
「師匠、あの時……。『二度と戻ってくるな』って言った時、すごく寂しそうな顔をしてた……」
その言葉に、リーナははっとした。
(……まさか、あれは『ここは危険だから戻ってくるな』ということ? でも、なぜそれを直接言わなかったのだろう。……言わなかったのではなく、言えなかった? まさか、誰かに監視されていたの?)
ドンドン!
突然店の扉が乱暴に叩かれ、リーナは小さく悲鳴を上げた。
扉の小窓から覗くと、そこには王都衛兵の紋章をつけた鎧姿の男たちが立っていた。
「すみません、ちょっとお尋ねしたいことがあるので開けてもらっていいですか」
(……王都の衛兵!? どうしてこのタイミングで?)
ヨハンの警告が、脳裏で雷鳴のように響き渡る。他人に気を許してはいけない。その言葉が、妙に重く感じられた。
「アリス、裏口から! 走るわよ!」
リーナはアリスの手を掴むと、店の裏手へと駆け出した。
背後で、扉が蹴破られる、凄まじい破壊音が響く。
二人は、嵐が迫る王都の路地をひた走っていった。