『薬師リーナと賢獣の遺志』 - 4
麓の川辺は、異様な空気に満ちていた。
そこに、小山のような巨体を横たえるグリフォンがいた。その荒い息遣いが、川のせせらぎをかき消す。
体表の赤い痣は禍々しい光を放ち、周囲の草木は枯れ、大地は生命の色を失っていた。
アリスは、そのあまりの光景に「姉さん、危ないよ……!」と、リーナの袖を強く引いた。
グリフォンが、苦悶に満ちた瞳をかろうじて二人に向ける。その瞳には、まだかろうじて理性の光が宿っていた。だが、いつ狂気に飲み込まれてもおかしくないほど弱々しい。苦悶に満ちた口元には、赤く染まりかけた牙があった。
だが、リーナは怯まなかった。
「アリスは、ここにいて」
妹を岩陰に残し、リーナは一人ゆっくりとグリフォンへと歩み寄る。両の手のひらを前に向け、敵意がないことを示しながら。
グリフォンは唸り声を上げ、威嚇するように翼をわずかに広げた。
「落ち着いてください」
リーナの声は、穏やかで優しい。
「……私です、リーナです。八年前、迷いの森で……覚えていますか?」
その言葉が届いたのだろうか。
グリフォンの瞳から狂気の光がすっと引いていく。代わりに宿ったのは、八年前と変わらない深い叡智の色だった。
リーナは懐から、淡い光を放つポーションを取り出した。
「これを飲んで。あなたの苦しみを少しでも和らげられるなら……」
彼女が差し出したポーションをグリフォンはその嘴で受け取ると、一息に飲み干した。
赤い痣が消えることはない。
だが、グリフォンの荒かった息遣いが次第に穏やかなものへと変わっていく。
『……不甲斐ない所を見せてしまった。久しいな、人の子よ』
古びた巨木が軋むような声が、リーナの心に直接響いた。
『我としたことが、情けない。毒ごときで理性を失いかけるとは』
「無理しないで。森に戻って療養しましょう。私が必ず……!」
グリフォンはリーナの言葉に、静かに首を振って答えた。
『この毒は心を蝕み、すべてを破壊する魔へと変質させる。……そして、月光草はその魔を払う。このようにな』
グリフォンは巨大な爪をリーナに見えるように動かす。その爪の先端は、光の粒子となって消えつつあった。
「月光草の力が効かない?!」
『そうではない。月光草の力が、魔を払っているのだ。我の体と共にな』
「そんな……! だめ、消えてはだめ! 他に何か手立てがあるはず!!」
だが、彼女の冷静な部分はもう既に手立てが無いことを察知していた。リーナはその事実から目を背けるかのように、鞄の中から薬草を引っ張り出しては、首を振り、放り投げる。涙が、リーナの頬を伝う。
グリフォンは、そんな彼女をただ静かに見つめていた。
『これは我が盟約に背き、人の子に月光草を託した罪よ。逃れることは出来ぬ。……優しき、人の子よ。我は永い時の中、悲しい運命にある人間たちを、ただ傍観し続けてきた。その罪を、償う時が来たのだ』
その声は、どこまでも穏やかだった。
『そなたには、これから辛い運命を託すことになるだろう。だが、何があってもその澄んだ心を忘れないでほしい。さすれば、人の子の運命は覆るやもしれぬ』
グリフォンは、その巨大な頭を、ゆっくりとリーナへと寄せた。
リーナが戸惑いながらも、その額にそっと手を添えた、その瞬間。
まばゆい光が、世界を包んだ。
光が収まった時、そこにもうグリフォンの姿はなかった。
ただ、リーナの掌の上に、淡い光を放つ一つの宝玉が、静かに乗せられているだけだった。
『人の子よ。汝の行く末に光があらんことを、願っている』
その最後の言葉を残して。
後に残されたのは、静けさを取り戻した川辺と、リーナの掌でまだ温かい光を放つ一つの秘石だけだった。
遠く離れた木々の影。
一人の人影が、その一部始終を冷たい目で見つめていた。
男の鎧に、王都衛兵の紋章が月明かりを鈍く反射していた。