『薬師リーナと賢獣の遺志』 - 3
イズミエールとリーナの懸命な治療により、少女の肺炎は完治させることが出来ていた。
だが、店の空気を支配する重い沈黙は、少女の退院から数日経っても消えることはなかった。
リーナとイズミエールは、必要最低限の言葉しか交わさない。ただ黙々と、それぞれの仕事に向き合うだけ。快活なアリスだけが、二人の間に漂う氷をどうにか溶かそうと、必死に明るい声を響かせていた。
その均衡が破られたのは、昼下がりのことだった。
一人の猟師が、矢筒を揺らしながら血相を変えて店に駆け込んできたのだ。
「大変だ! 『迷いの森』から……グリフォン様が……!」
イズミエールが眉をひそめる。
「森の主が、人里に? ありえない話ね」
「本当なんだ! 麓の川辺に、まるで天から落ちてきたみてえに、地に伏してるんだよ! 牙の先も、なんだか赤く……! うめき声がここまで聞こえてくるんだ!」
赤い牙。
その言葉を聞いた瞬間、リーナの背筋が凍った。
脳裏をよぎるのは、数ヶ月前に王都を震撼させた、辺境の町での惨劇の報告書。知性を持つ魔物の軍団。そして、その魔物たちに共通して現れたという、生命を変質させる呪い――『赤牙』。
(まさか……あの事件は、終わっていなかった……!?)
彼女は、決意の表情で、調合室の奥に立つ師を振り返った。
「師匠、お願いします。月光草を……!」
その声は、懇願というよりほとんど叫びに近かった。
だが、イズミエールの答えは冷たく、そして短かった。
「なりません」
その一言は、有無を言わせぬ絶対的な響きを持っていた。
「なぜです! 相手は森の賢獣ですよ!? このまま見殺しにしろと!?」
「あの獣に関わることは、災いをこの町に招き入れることと同義です。薬師としてその選択はできません」
「災い……? 目の前の命を見捨てること以上に、大きな災いなどありません!」
師匠が許してくれないのなら。
リーナの瞳に、決然とした光が宿る。
「―――私は、私のやり方で、命を救います!」
彼女は踵を返すと、店の隅にあった薬草をすり潰すための重い石臼の棒を掴んだ。そして、躊躇うことなく、裏手の温室の扉にかけられた頑丈な錠前めがけて力任せに叩きつけた。
ガシャン! という耳障りな破壊音と共に、師が長年守り続けてきた禁忌はあまりにもあっけなく破られた。
イズミエールが制止する間もなく、リーナは温室に駆け込む。彼女は栽培されている月光草には目もくれず、棚の奥に隠された小さな木箱をこじ開けた。
中から現れたのは、淡い光を放つ一服分のポーション。師が、万が一の時のために月光草から精製し、封印していたものだ。
リーナはそれを掴むと、すぐさま店の出口へと向かった。あまりにも速く、覚悟の決まった行動だった。
その間、イズミエールはただ立ち尽くしていた。その美しい顔からは全ての表情が抜け落ち、まるで精巧な人形のようにぴくりとも動かなかった。
リーナが、鞄を手に店の出口へと向かう。
その時、これまで姉と師の間でただ怯えていたアリスが意を決したように駆け寄り、姉の手を固く握った。
「私も行く、姉さん!」
二人が店の扉に手をかけた、その瞬間。
「……行きなさい」
背後から静かな声。
「ですが、もしその扉から出るのなら」
師は、二人の方を見ずに告げた。
「……二度と戻ってはなりません。あなたたちの居場所は、もうここにはないと知りなさい」
それは、絶縁の宣告だった。
リーナの肩がびくりと震える。だが、彼女は決して振り返らなかった。
「……はい」
その一言だけを絞り出すと、彼女はアリスの手を強く引き、店の外へと駆け出していった。
もう、戻れない。
リーナはただ前だけを見て、賢獣が待つ川辺へとひた走って行った。