『薬師リーナと賢獣の遺志』 - 2
東の空が白み始め、港町が潮の香りと共に目を覚ます。
リーナの店の名は、『月光草の薬瓶』。
師であるイズミエールが営むその薬草店で、彼女と妹のアリスは穏やかな日々を送っていた。
「はい、お代は結構ですよ。それより、旦那さんの船、大漁だったんですって? おめでとうございます」
「おう! アリスちゃんのおげで腰の痛みがねえからな! 今夜はパーっとやるんだ!」
カウンターの向こうで、アリスが快活な笑い声を響かせる。年の頃は十四。病にやつれていた面影はどこにもない。日に焼けた腕をまくり、手際よく薬草を包んでいく。その屈託のない笑顔が、店の空気を明るくしていた。
店の奥、調合室の柔らかな光の中で、リーナは真鍮の天秤に向き合っていた。
極めて希少な薬草の配合。わずかな誤差も許されない。彼女は息を詰め、ピンセットで慎重に分銅を調整する。不思議なことに、今朝はいつもよりこの天秤の針がぴたりと安定しているような気がした。まるで、見えない誰かがそっと支えてくれているかのように。
(……気のせい、ね)
リーナは小さく首を振ると、再び作業に集中した。
背後に音もなく気配が立った。
「……リーナ」
師であるイズミエールの硬質で繊細な声。リーナはびくりと肩を震わせ、振り返った。
「し、師匠! おはようございます!」
そこに立っていたのは、一見すれば三十代にも見える、若々しい容姿の女性だった。黒檀のような髪は艶やかにまとめられ、その所作には一切の無駄がない。
イズミエールは返事の代わりに、リーナが調合した薬を一瞥しその匂いを確かめると、こくりと一度だけ頷いた。それが、彼女の最大限の賛辞だった。彼女はそのまま黙って、自分の作業台へと向かってしまった。
師は腕は確かだが極端に口数が少なく、そして頑固だった。リーナとアリスがモンスターに襲われ全てを失った孤児だった頃、黙って二人を拾い薬師としての全てを叩き込んでくれた恩人。だが、八年前にリーナがアリスを救うため『月光草』を求めて旅に出る時、彼女は最後までそれを許さなかった。
『くだらない言い伝えに惑わされないで。死ぬ定めにある者を無理に生かすのは摂理に反する行為よ』
その言葉をリーナは今でも忘れられない。心のどこかで師を恨む気持ちが、小さな棘のように残っていた。
昼過ぎ、店の扉が乱暴に開けられ一人の母親が血相を変えて駆け込んできた。
「お願いです! 息子が、息を……!」
その腕に抱かれた幼い息子は、ぐったりとして顔は土気色になりゼェゼェと苦しげな呼吸を繰り返している。リーナはすぐに子供を奥の寝台に運び診察を始めた。
「ひどい肺炎……。それも進行が早すぎる」
通常の薬では間に合わないかもしれない。リーナの顔に焦りの色が浮かぶ。彼女は母親に「最善を尽くします」とだけ告げると、調合室に駆け込んだ。
その背中を見送りながら、リーナはアリスにだけ聞こえるようにぽつりと呟いた。
「……あの子、月光草をほんの少し煎じて飲ませてあげれば助かるかもしれないのに」
店の裏手にある小さな温室。そこではあの『月光草』が、師の手によって厳重に管理され大切に栽培されていた。だが、イズミエールはそれを決して店の薬として使おうとはしない。
「……また、その話かしら」
背後から氷のように冷たい声がした。いつの間にかイズミエールがそこに立っていた。
「……お言葉ですが、師匠。あの子の命は、今夜が峠かもしれません。使わない理由があるのであれば、教えて下さい。それは、あの子の命よりも大切なことなのですか?」
その必死の訴えに、イズミエールの肩が一瞬微かにこわばった。彼女はリーナからふいと視線を逸らすと、窓の外に広がる港の風景に目を向けた。
「許可しません」
その声はどこまでも冷徹だった。
「月光草は、万能薬ではありません。あれは理を歪める劇薬。強すぎる薬効には、必ず副作用があります。あなたがアリスを救えたのは、幸運が重なっただけの一度きりの奇跡。思い上がってはだめよ、リーナ」
リーナは、唇を固く噛みしめた。
いつもはそこで引き下がるのだが、今日はそうしなかった。
彼女は反論する代わりに、ずっと抱いていた疑問を口にした。
「……では師匠。なぜ、お育てになっているのですか?」
「……なぜ、そんなことを聞くのです?」
「使わない薬を育てることに、意味はありません。育てている理由がおありなんですよね?」
イズミエールは、答えなかった。
ただ、長い、重い沈黙が流れた。彼女は、リーナの顔を見ることなく、その視線を店の裏手、固く閉ざされた温室の錠前へと向けた。その瞳に浮かんでいたのは、リーナが決して読み解くことのできない深い哀しみの色だった。
「……錠前はね、リーナ」
やがて、彼女は、絞り出すように言った。
「宝を守るためだけにあるのではないわ。……宝が牙を剥かぬよう、それを閉じ込めておくためにもあるのよ」
それだけを言うと、彼女は「もう、この話は終わりよ」とでも言うように背を向け、調合室の奥へと消えていった。
店の外では、漁師たちの陽気な歌声が聞こえてくる。
だがリーナの心には、師が残した謎の言葉だけが重くのしかかっていた。
命を救う薬草が牙を剥く? 意味が分からない。
師の頑なな態度は、ただの意地悪さから来るものではない。何か、自分には計り知れない深い理由がある。リーナは初めてその可能性に思い至った。
仕事を終え、店の戸締りをする頃には空は美しい茜色に染まっていた。
アリスが窓の外を眺めながら、明るい声で言った。
「見て、姉さん。きれいな夕焼け。……明日も、晴れるといいね」
「……ええ、そうね」
リーナは妹にだけは心配をかけまいと、無理に笑顔を作って頷く。
師の真意は分からない。
だがリーナは、根拠のない胸騒ぎを確かに感じていた。