『薬師リーナと賢獣の遺志 』- 1
ヨハンの日常は、変わらない。
日の出と共に東門を開け、石畳を掃き清める。昇る朝日が、王都の城壁を黄金色に染め上げるのを眺め、日が暮れれば、重い閂を掛ける。
同じことの繰り返し。だが、全く同じ一日というのは、不思議と一度もなかった。
石畳の摩耗は、八年前より少しだけ深い。城壁を覆う蔦は、あの頃より二階分は高く伸びている。そして、ヨハン自身の腰もまた、あの頃より少しだけ、深く曲がるようになった。
八年。
彼が、薬師見習いの少女を見送ってから、それだけの歳月が流れていた。
「よう、ヨハンさん。今日もご苦労さん」
巡回の衛兵が、声をかけてくる。八年前はまだ新米だった彼も、今では分隊を率いる顔つきになっていた。
「ああ」
ヨハンは、短く応える。
「そういや、あんたに見送ってもらった隊商、西の国との交易でがっぽり儲けて帰ってきたらしいぜ。やっぱり、ここは『幸運の門』だな」
衛兵は、そう言って笑う。
いつからか、この東門はそう呼ばれるようになっていた。ここから旅立った者には、幸運が訪れる、と。ヨハンは、その噂に肯定も否定もせず、ただ黙って箒を動かすだけだった。幸運などではない。旅人たちが、自らの足で掴み取った結果だ。自分は、ただそれを見送ったに過ぎない。
昼下がり、掃き掃除の手を休め、ヨハンは、ふう、と息をついた。
(……最近、顔を見せに来ないな)
彼が思い出していたのは、八年前に見送ったあの薬師の少女のことだった。
リーナ。
彼女は、妹を救うという大役を果たした後も、年に数回は滋養強壮の薬だと言って、この東門まで顔を見せに来てくれていた。その隣で、妹のアリスが元気に笑う姿を見ることが、ヨハンにとっては何よりの喜びだった。
だが、ここ一年ほどその足はぱったりと途絶えている。
(……師匠の店が、忙しいのだろうか。それとも、何かあったのだろうか)
ちくり、と胸に小さな疼きが走る。
それは、旅人が帰還した時のあの温かい感覚とは違う。
遠くで、何かが軋むような不吉な胸騒ぎ。
彼は、自らの内に宿るスキルに意識を向けた。
【遠き旅人への祝福】
これまで、使う必要を感じたことは一度もなかった。見送った旅人たちは皆、自らの力で道を切り拓いていくはずだからだ。
だが、今彼はどうしようもなく、あの少女へ祈りを届けたい衝動に駆られていた。
ヨハンは、静かに目を閉じた。
思い浮かべるのは、最後に見たリーナの姿。
(リーナ、どうか達者で)
強い願いと共に、自らの内から、温かい何かが、見えない糸を伝って、遠くへと送られていくのを感じた。
《ピーン! 遠き旅人へ、あなたの祈りが届きました》
《スキル【見送る者】が発動しました。対象者リーナに、祝福**『薬草を量る天秤が、ほんの少しだけ狂いにくくなる』**を付与しました》
脳内に静かな声が響く。
ヨハンは、ゆっくりと目を開けた。胸の疼きはまだ消えない。
彼は、西の空を見上げた。
まだ陽の高い時間だというのに、空の果てがまるで墨汁を垂らしたかのように、じわりと暗く淀んでいた。
第13回ネット小説大賞で、GAノベル様より書籍化が確定致しました。
未だに信じられていませんが、どうやら本当らしいです。
これもすべて、応援いただいた皆様のおかげです。
本当に、ありがとうございます。心より感謝申し上げます。
書籍版には、本編では書けなかったいくつかのショートストーリを載せたいと考えております。
もし読みたいエピソードがありましたら、Xやコメント欄で教えて頂けると幸いです。
では、今後ともヨハンの旅路をよろしくお願い致します。




