『楽士エリアスと慰めの音色』 - 3
楽士風の男が、逃げるように王都を去ってから、一年以上の月日が流れた。王都では、男が巻き込まれたという宮廷の陰謀も、今では人々の記憶から薄れ、新たな噂話の種に取って代わられていた。時の流れとは、かくも無常なものだ。ヨハンは、門を行き交う人々を眺めながら、時折、あの男のことを思い出していた。今頃、どこでどうしているだろうか。あの素晴らしいリュートは、まだ彼と共にあるだろうか。
草木が色づき始め、空が高くなった秋の日のことだった。
門へと続く街道を、一台の簡素な幌馬車がやってくる。その荷台には、数人の子供たちが楽器を手に楽しそうに座っていた。馬車を引くのは、見覚えのある長身の男だった。
男は門の前で馬車を止めると、ヨハンの方へ歩み寄ってきた。フードは被っておらず、その顔には、かつてのような暗い影はない。日焼けした肌と、穏やかながらも自信に満ちた表情が、彼が過ごしてきた時間を物語っていた。
「……見違えたな、旅の方」
ヨハンが声をかけると、男――エリアスは、少し照れたように笑った。
「お久しぶりです、門番さん。あの時は、失礼を」
「いや。息災そうで何よりだ」
「ええ、おかげさまで。……俺、旅の楽団を作ることにしたんです。王侯貴族のためじゃない。名もなき人々のための、小さな楽団です」
エリアスは、馬車で笑いさざめく子供たちに、優しい視線を向けた。彼らは、エリアスが旅の途中で出会った孤児たちだった。音楽の才能がありながらも、その機会に恵まれなかった子供たちを集め、一緒に旅をしながら音楽を教えているのだという。
「素晴らしい楽団じゃないか」
ヨハンの言葉に、エリアスは力強く頷いた。
「俺はようやく、自分の音色を見つけました。誰かを打ち負かすための音でも、誰かに媚びるための音でもない。ただ、誰かの心に寄り添うための、慰めの音色です」
そう言って、彼は背負っていたリュートを静かに構えた。そして、ヨハンのためだけに、一節だけ、そっと奏でた。
その音色は、技術的には、彼が王都にいた頃の方が上だったのかもしれない。だが、今の音には、比べ物にならないほどの温かさと、深みがあった。それは、聴く者の心を優しく包み込むような、慈愛に満ちた音色だった。
短い演奏を終えると、エリアスは深々と頭を下げた。
「あなたの言葉が、俺を救ってくれました。本当に、ありがとうございました」
「礼を言うのは俺の方さ。良い音を聴かせてもらった」
ヨハンは、心からの笑顔で答えた。
「さあ、お行きなさい。あんたたちの音楽を、待っている人たちがいる」
「はい。いってまいります!」
エリアスは、今度は晴れやかな顔で、楽団の子供たちと共に、王都の中へと入っていった。彼らの乗る幌馬車からは、楽しげなリュートの練習の音が、いつまでも聞こえていた。
その賑やかな音を聞きながら、ヨハンの脳裏に、またあの声が響き渡る。
《ピーン! スキル【見送る者】のレベルが17に上がりました》
《新たな能力『見送った吟遊詩人のリュートの弦が、気持ちだけ切れにくくなる』を【獲得】しました》
また一つ、新しい祈りの形。
ヨハンは、エリアスの奏でる音楽が、これから多くの人々の心を慰めていく未来を思い、静かに目を閉じた。一つの旅が終わり、また新しい旅が始まる。彼は、その全てを、この場所から見送り続ける。それが、彼の誇りだった。
エリートの挫折と再起。楽士エリアスの物語。才能って、時に呪いにもなる。彼は多くのものを失ったけど、その代わりに、金や名声よりもずっと大事なものを見つけた。誰か一人のために奏でる音楽って、きっと最強だよな。