『衛兵トビーと父の遺志』 - 6
ヘクトル卿の屋敷を出たトビーの足は、どこへ向かうでもなくただ町の中を彷徨っていた。
頭が、ぐちゃぐちゃだった。
アランの真っ直ぐな言葉が、呪いのように耳の奥で何度も繰り返される。
『父上は、言っていました。『あの方こそ、真の英雄だった』と』
嘘だ。
そう叫びたかった。だが、アランの瞳はあまりにも真実の重さを持っていた。
父は、英雄だった。
俺が二十年間ずっと軽蔑し続けてきた父は、本当は英雄だった。
(……じゃあ、俺は一体……)
誇らしい、などという感情は、ひとかけらも湧いてこなかった。
むしろ、それは途方もない息苦しさだった。これまで「父とは違う臆病者だ」と自分に言い聞かせることで守ってきた、惨めで安全な殻が、粉々に砕け散ったのだ。
英雄の息子。その言葉は、お前もそうでなければならない、と告げる呪いのように響き、まるで死刑宣告にも等しかった。
(無理だ……。俺には、無理だ……)
彼は路地裏に蹲り、頭を抱えた。
父のように誰かのために死ぬことなど、できるはずがない。俺は、臆病者なのだ。父とは違う。
その時だった。
ゴォォォォン――――――ッ!
町の鐘がこれまでにないほどけたたましく、不吉な音を響かせた。魔物の襲来を告げる最高位の警鐘。
次の瞬間、大地が揺れた。町の外壁の一部が、轟音と共に内側へと崩れ落ちる。
土煙の中から現れたのは、巨大な棍棒を振りかぶる小山のような巨体だった。
(……オーガ……!? なぜ、こんな場所に……!)
トビーは息をのんだ。オーガ一匹でも、この規模の町にとっては災厄だ。
だが彼の恐怖は、そこで終わらなかった。
土煙が晴れ、そのオーガの全貌が明らかになる。その剥き出しの牙が、……血のように、赤い。
「うわあああああっ!」
「壁が……壁が破られたぞ!」
平和だった町の風景は、一瞬で地獄へと変わった。
破壊された壁の穴から、騎兵のように飛び出してきたのは、ワーグと呼ばれる馬よりも巨大な狼型の魔獣だった。もつれた体毛は泥と血で汚れ、その瞳には獣とは違う狡猾な光が宿っている。そして何より剥き出しにされた牙は、他の魔物と同じ、禍々しい赤色に染まっていた。
その背に跨った『赤牙ゴブリン』たちが雄叫びを上げ、ワーグの群れが町の中を蹂躙し始める。
(まさか……ゴブリンだけじゃない……ワーグも、あのオーガまでもが『赤牙』だと!?バカな、あいつらは希少な特殊個体のはずだ……! それが、群れで……!?)
これはもはや、ただの襲撃ではない。統率の取れた、軍隊の侵攻だ。
(隠れなければ! どこか、安全な場所へ!)
トビーが広場を抜け、屋敷の立ち並ぶ地区へと駆け込んだ時、一つの光景が、彼の足を縫い付けた。
小さな子供が、瓦礫の山に足を取られて転び、その目前に、一体の赤牙ゴブリンが迫っていた。
だが、そのゴブリンは、他の個体とは明らかに違っていた。一回りも二回りも大きく、その濁った目には、獣の凶暴性とは異なる、冷たい知性の光が宿っている。
そして、その口が、ぎこちなく、動いた。
「……カ……リ……トル……。ニンゲン……タマシイ……」
(……ゴブリンが言葉を……? オークのような上位種ならまだしも、ただのゴブリンが、知性を持って……!?)
トビーは、全身の血が凍りつくのを感じた。
知性を持つゴブリンの向かう先に、金色の髪を持った子供の姿がトビーの目に映った。
(あれは、アラン!?)
助けるか? だが、勝ち目はない。
――逃げろ。
トビーの全身が、そう叫んでいた。
見てはいけない。関わってはいけない。今飛び出せば、確実に死ぬ。
足が鉛のように重い。
俺は臆病者だ。英雄じゃない。父さんとは違う。
知性を持つゴブリンが、アランめがけてその巨大な棍棒を振り上げた。
その、瞬間。
トビーの脳裏に、父との訓練の記憶が鮮明に蘇った。
『盾は臆病者の象徴じゃない。皆を守る志が詰まった、勇気の象徴なんだ』
いつもそう言っていた、父の背中。
ああ、そうか。
俺は、モンスターが怖いんじゃない。
父さんが教えてくれた勇気を、捨ててしまうのが怖かったんだ。
俺が今、ここで逃げたら。
俺は、父さんのことも、そして何より臆病なままの自分自身を、一生許すことができなくなる。
「―――う……おおおおおおおおおおおおっ!!」
トビーの口から、生まれて初めて獣のような雄叫びが上がった。
それは、恐怖を振り払うための魂の叫びだった。
彼の足が、地面を蹴った。
剣を抜くことさえ、忘れていた。
ただがむしゃらに、子供とゴブリンの間へと、その身を割り込ませる。
アランを押しのけ、背負っていた盾を掲げる。
ゴブリンの棍棒が振り下ろされる。
死ぬ。
トビーは、死を覚悟した。
だが、不思議と、心は穏やかだった。
(……父さん。……あんたの息子は、臆病者だったけど……。……最後の最後で、あんたと同じになれたかな……)
彼は、固く、目を閉じた。
次の瞬間、骨を砕くような衝撃音が彼の鼓膜を襲った。