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『衛兵トビーと父の遺志』 - 5

 衛兵の男――トビーと別れたレノーアは一人、辺境の町の雑踏にその身を溶け込ませていた。

 行き交う人間たちの、刹那に生まれ刹那に消えていく、あまりにも過剰な感情の奔流。永い時を生きる彼女にとってそれは、嵐の海のさざ波を眺めるのと、大して変わりはなかった。


(……さて、と)


 彼女は、そっと目を閉じた。

 意識をこの土地を流れる魔力の脈動へと、静かに沈めていく。

(……やはり間違いない。この魔力の澱みは、この土地そのものではない。あの衛兵が運んでいた、あの革袋……その中にある一枚の羊皮紙。そこから微かに、あの忌まわしい『災厄』の残滓が感じられる)

 森で彼に会った瞬間から、彼女は気づいていた。この森全体の魔力を不快に歪ませている、古い傷跡のような「歪み」。その源流が、あの臆病な衛兵が抱えるヘクトル卿の遺品にあることを。

 その気配に触れた瞬間、レノーアの脳裏に遠い日の光景が一瞬だけ焼き付いた。


 ―――黒い煙と、血の匂い。そして、地に落ちる黒髪。

(……ダリア……)

 何百年という時を経ても、摩耗しきることのない、古い痛み。


 レノーアはその感情を、奥歯を噛みしめるようにして意識の底へと無理やり押し込めた。

(……悲しみなど、無意味だ)

 感情を殺す。思考を凍らせる。そして世界の歪みを探る。この「仕事」に没頭している時だけが、全ての感情を忘れられる唯一の時間なのだから。


 なぜ、あのような取るに足らない人間が、世界の深淵に触れる鍵を持っている?

 レノーアの心には、純粋な「謎」への好奇心が芽生えていた。これは、観測する価値がある。だからこそ、あの男とここまで同行したのだ。

 彼女は気配を完全に消すと、屋敷の向かいにある建物の屋根に、まるで猫のように軽やかに飛び乗った。


 窓の向こうで、トビーと小さな子供が言葉を交わしている。

 レノーアは聴覚を研ぎ澄ませ、その会話の断片に意識を集中させた。


 ―――聞こえてきたのは、信じられない物語だった。

 ヘクトルという英雄が、二十年前に別の英雄に命を救われていたこと。

 その英雄の名が、ギャランということ。

 そして目の前の衛兵トビーが、そのギャランの息子であるということ。


 「―――俺の父は手柄を焦って死んだ、ただの愚か者だったはずだ……!」


 トビーの、悲痛な叫びが聞こえる。

 レノーアは無意識のうちに、自分の胸をぎゅっと押さえた。

 凍てついた心のそのさらに奥深く。何百年も前にとうに失くしたはずの場所が、微かに軋むような気がした。


 その時だった。


 ゴォォォォン――――――ッ!


 町の鐘が、けたたましく鳴り響いた。

 次の瞬間、大地が揺れ町の外壁の一部が轟音と共に崩れ落ちる。

 レノーアの瞳が、屋敷の中から外の惨状へと鋭く向けられた。

 土煙の向こうに見える、無数の『赤牙』の群れ。


(……『刈り取り』が、始まったか……!)


 彼女の顔から全ての感情が消えた。

 これは観測すべき対象。

 決して干渉してはならない、世界の理。


 だが彼女の視線は、再び屋敷の中へと戻された。

 窓の向こうで衛兵トビーが、呆然と外の惨状を見つめている。

 その瞳に、再びあの臆病な色が戻ってきている。


 ―――どうする、人間。ここで、逃げるのか。それとも。

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