『衛兵トビーと父の遺志』 - 4
『我が息子、アランへ
この手紙がお前の元へ届いたということは、私は騎士としての務めを果たしたということだ。傍にいてやれず、すまなかった。お前が生まれた日、天に掲げた時の温もりを私は今でも覚えている。
アラン。私は、お前に一つの嘘をついていた。国境の任は安全なものだと。
だが、この地の魔物は違う。まるで、一つの暗い意志に操られているかのように統率され、動いている。これはただの狂暴化ではない。もっと大きな、何か恐ろしいものの前兆だ。
私は騎士として、これを食い止めねばならない。それが、お前たちが生きる未来を守ることに繋がるのだと信じているからだ。
父を誇りに思えとは言わない。ただ、覚えていてほしい。お前を誰よりも愛していた男がいたことを。
父、ヘクトルより』
トビーは手紙を読み終えても、しばらく動けなかった。
そこにあったのは、英雄の雄叫びではなかった。ただ、一人の父親の不器用で切実な愛情だった。父と息子。その当たり前の関係が、トビーには眩しすぎた。
彼は乱暴に手紙を革袋へ戻すと、膝を抱え夜が明けるのをただじっと待っていた。
それから数日後、彼らは目的地の辺境の町にたどり着いた。
レノーアは、「私はここで魔力の流れを調べる。用が済んだら、合流する」とだけ言い残し、人混みの中へと姿を消した。
一人になったトビーは、重い足取りでヘクトル卿の屋敷へと向かった。
立派な門構えの屋敷。緊張で、喉がカラカラに乾く。
彼が門を叩くと、年老いた執事が出て、静かに彼を応接室へと通した。
しばらくして部屋に入ってきたのは、まだ十歳にも満たないであろう、一人の少年だった。上質な服を着てはいるが、その顔には父を失った悲しみの影が色濃く落ちている。
「……あなたが、父上の最後の手紙を?」
少年――アランは、その小さな身体には不釣り合いなほど、落ち着いた声で言った。
トビーは、ただ黙って革袋を差し出した。
アランはそれを受け取ると、震える手で父の筆跡をそっと撫でた。
「……ありがとうございます、衛兵の方」
彼は深々と頭を下げた。そして、トビーの顔をじっと見つめた。
「あなたは、首都の衛兵の方ですね。……父がよく話してくれました。自分の命を救ってくれた、勇敢な衛兵の話を」
「……命の恩人? ヘクトル卿の……ですか?」
「はい」とアランは頷く。「二十年前の、辺境の谷での作戦で、父は、その方に命を救われたそうです」
二十年前。辺境の谷。
その言葉に、トビーの心臓が跳ねた。
(……父が、死んだ作戦だ)
それは彼の父、ギャランの公式記録に残された死亡日時と場所。ヘクトル卿はあの忌まわしい作戦の生き残りだったというのか。トビーの胸に、冷たい感情が広がった。
「……父上は、言っていました。『あの方こそ、真の英雄だった』と。部隊が全滅しかけた時、たった一人で盾を掲げ、仲間が逃げるための時間を作ってくれた、と」
アランは一度言葉を切ると、父の手紙を握りしめ記憶を辿るように続けた。
「……その化け物は、ただの魔物ではなかったそうです。ゴブリンやオーガまでもが、まるで一つの軍隊のように統率され、その牙は……まるで血に濡れたように、赤く染まっていた、と。父はその光景を『本当の悪夢だ』と書き残していました」
赤牙……。トビーの脳裏に、最近王国を騒がせている忌まわしい名がよぎる。
「父はその方の最期を、ずっと悔やんでいました。『あの方は俺に伝言を託したのに』と……」
「……伝言ですか?」
アランは、真っ直ぐな瞳で頷いた。
「はい。『息子に伝えてくれ。父さんは、最後まで盾を捨てなかった』……と。そう、託されたそうです」
盾を、捨てなかった。
だが、まさか。そんなはずはない。
彼は震える声で、最も重要な問いを口にした。
「……その方の、お名前は……?」
アランは、はっきりと答えた。
「ギャラン衛兵曹長です」
その名を聞いた瞬間、トビーは立っていることさえできなかった。全身の力が抜け、その場に膝から崩れ落ちる。
父は、英雄だった。俺が二十年間ずっと軽蔑し続けてきた父は、本当は……だが。
「その言葉は……なぜ、僕には届かなかったんでしょうか……?」
その問いを聞いた瞬間、今度はアランがはっと息をのんだ。
「……まさか、あなたがギャラン衛兵曹長の!?」
トビーは、何も答えられない。ただ、力なく頷くことしかできなかった。
その反応を見て、アランの顔が悔しそうに歪んだ。
「……父が王都に帰還した時、軍の公式報告はすでに書き換えられていたそうです。ギャラン衛兵曹長は『手柄を焦って突出した愚か者』として……。父の証言は上層部によって握り潰され……その伝言が、あなたに届くことも、ありませんでした」
父は英雄だった。
軽蔑していた父はそこにいなかった。
仲間のためにその命を投げ出た、一人の誇り高い男がいただけだった。
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―――その全てのやり取りを。
屋敷の外、窓の向こうの木陰で、石像のようにただ黙って見ている人物がいた。




