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『衛兵トビーと父の遺志』 - 2

 王都の東門を後にしてから、三日が過ぎた。

 トビーの旅は、苦痛そのものだった。初夏の陽射しは容赦なく鎧を熱し、革の内着は汗でじっとりと肌に張り付く。街道を外れ、近道だという獣道に入ってからは、常に何かの気配に怯えなければならなかった。風が木々を揺らす音、遠くで響く獣の鳴き声、そのすべてが彼の心臓を鷲掴みにする。


(……もう帰りたい)


 何度、そう思ったか分からない。背負った盾も、腰に差した剣も、今はただ重いだけの鉄の塊だ。懐にあるヘクトル卿の革袋が、まるで彼の臆病さを責めるように、歩くたびにカサリと音を立てた。


 その日の昼過ぎ、彼は森の中で、ひときわ大きな物音を耳にした。ガサガサ、と茂みが大きく揺れる。猪か、あるいは熊か。いや、もっと悪いものかもしれない。ゴブリンの斥候、あるいはーー。

 思考が最悪の方向へと転がり落ちていく。トビーは悲鳴を飲み込み、慌てて道端の巨大な岩の陰に身を隠した。息を殺し、心臓が喉から飛び出しそうなのを必死にこらえる。どうか、気づかれませんように。どうか、通り過ぎてくれますように。


 どれほどの時間が経っただろうか。物音は、いつの間にか止んでいた。

 トビーが、おそるおそる岩陰から顔を覗かせようとした、その時だった。


「―――あなた、そこで何をしているの?」


 鈴を転がすような、しかし、氷のように冷たい声が、頭上から降ってきた。


 トビーは「ひぃ!!」と短い悲鳴を上げ、その場にへたり込んだ。見上げると、岩の上に、一人の女が立っていた。その尖った耳、人間とは明らかに違う、悠久の時をその内に秘めた気配。


 間違いない。御伽噺ではない。歴史書に記され、誰もが畏敬の念を抱く存在。


(まさか……『古の人』……?)


 なぜ、こんな場所に。なぜ、俺のようなただの衛兵に。彼の頭は恐怖と混乱で真っ白になった。


「聞いてる? 口が聞けないのかしら」


氷のように冷たい声。彼女――エルフは、面白い虫でも観察するかのように、トビーを見下ろしている。


「……け、獣の気配がしたもので」


 ようやくそれだけを絞り出すと、エルフは心底呆れたように、ふう、と一つため息をついた。


「あれはただの鹿の親子よ。そんな気配も察知できないなんて。人間って本当に不便ね」


 彼女は、まるで羽のように軽やかに岩から飛び降りると、トビーの前に立った。森の木々と同じ、深い緑の旅装。その腰には、木の葉を模した美しい短剣が差さっている。


「私はレノーア。あなた、この先の町へ行くのでしょう? 少し、付き合ってもらうわ」


「え……? な、なぜそれを……」


「この森の魔力の流れが、少し乱れているの。私は、その原因を調べている。あなた、ちょうどいいわ。目的地まで案内しなさい。護衛の代わりよ」


「ご、護衛って……俺は、ただの衛兵で……」


「分かっているわ。あなたに護衛など期待していない。私があなたを護ってあげる、という意味よ」


それは、有無を言わせぬ決定だった。氷のような瞳が、ただじっと、彼を見つめていた。


 相手は伝説の『古の人』。ただの衛兵であるトビーに、拒否権などあるはずもなかった。


 トビーは、なすすべもなく頷くことしかできなかった。


 こうして、臆病な衛兵と人間を見下すエルフの、奇妙な二人旅が始まった。

 レノーアは、ほとんど何も話さなかった。ただ、トビーの数歩後ろを音もなくついてくる。

 時折、彼女が何気なく口ずさむ、聞いたこともない古い歌だけが、二人の間の重い沈黙を静かに揺らしていた。

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