『衛兵トビーと父の遺志』 - 1
測量士アーニャが自らの心の地図を見つけてから、季節は巡り、王都には初夏の気配が満ちていた。城壁に絡まる蔦は生命力に満ちた緑を濃くし、東門の石畳は、朝露と陽光を浴びて穏やかにきらめいている。
門番ヨハンの日常は、何も変わらない。
だが、彼の周囲の世界は、彼が蒔いたささやかな祈りの種によって、ほんの少しずつ、しかし確実に、その色合いを変え始めていた。彼が見送った薬師の煎じる薬は、ほんの少しだけ長くその効能を保ち、楽士の奏でるリュートの弦は、気持ちだけ切れにくくなった。彼が書き残す知識は風化しにくくなり、誰かが交わした約束は、気持ちだけ守られやすくなっていた。
ヨハン自身は、その変化の全貌を知らない。ただ、門に立ち、今日も、旅立つ者の背中を見送るだけだった。
その日の昼下がり、ヨハンは詰所の軒先から、一人の若い衛兵が出てくるのに気づいた。
トビーという名の、まだ若い男だった。ヨハンも顔だけは知っている。彼はいつも、他の衛兵たちの輪から少しだけ離れた場所に、まるで風景に溶け込むようにして立っている。その肩はいつも内側に丸まり、視線は常に自分のつま先あたりを彷徨っていた。
今日もそうだ。彼は分隊長から手渡されたらしい革袋を、まるで燃えさしでも掴むかのように恐る恐る抱えている。その顔から表情は抜け落ち、ただ、重い責務から逃れたいという色だけが浮かんでいた。
詰所の前で雑談していた同僚たちが、彼に気づいて揶揄うような声をかけるのが聞こえてきた。
「おい、トビーのやつ、ヘクトル卿の遺品を届けるんだとよ」
「英雄の遺品を、あの『英雄』の息子がか。傑作だな」
その言葉に、トビーの肩がびくりと震えるのを、ヨハンは見逃さなかった。彼の顔からさらに血の気が引き、唇が固く結ばれる。革袋を握りしめる指が、白くなっていた。
同僚たちは、そんな彼の反応を見て満足したように、下卑た笑いを浮かべながら持ち場へと戻っていく。
一人残されたトビーは、しばらくその場で動けずにいた。
やがて、彼は意を決したように、しかし、その足取りは罪人のように重く、東門へと向かってきた。
ヨハンは、彼の魂にまとわりつく枷の形を、見て取ったような気がした。それは、父への軽蔑という名の、重く、錆びついた枷。その枷が、彼の未来を、その足取りを、がんじがらめにしている。
トビーは、ヨハンの前を会釈だけして、黙って通り過ぎようとした。その瞳は、やはり、彼と目を合わせようとはしない。
だが、その足は、静かな声によって呼び止められた。
「旅の方。……その盾は、あんたを守るためにある」
トビーは、驚いて顔を上げた。老人の目は、まっすぐに、彼が背負う衛兵の盾を見つめていた。その視線から逃れるように、彼は再び俯いた。
「……当たり前だ。盾は、自分を守るためのものだろう」
地面に吐き捨てるような、ぶっきらぼうな声だった。
「ああ」とヨハンは頷く。「だがな、若いの。時には、誰かを守るために掲げた盾が、何より自分自身を守ることになる。……そういうこともある」
老人の言葉の意味が、トビーには分からなかったのだろう。彼はただ、困惑したように一瞬だけヨハンを見ると、すぐにその視線を逸らした。
ヨハンは、深く、静かに祈った。
この臆病な若者の旅が、彼を縛る呪いを解き放ち、彼が本当に守るべきものを見つける旅になるようにと。
「……いってらっしゃい。道中、ご安全に」
トビーは、何も言い返せなかった。ただ、逃げるようにその場を後にし、西へと続く道を、早足で歩き始めた。
その小さな背中を見送りながら、ヨハンの脳裏に、いつもの声が響いた。
《スキル【見送る者】が発動しました。対象者トビーに、祝福『携える盾が、ほんの少しだけ、汚れにくくなる』を付与しました》
ヨハンは、若者が去っていった道を、しばらくの間、静かに見つめていた。
父の盾。息子の盾。
二つの盾が、五十年の時を経て、再び交わろうとしている。
その旅の結末を、彼はただ、信じて待つことしかできなかった。




