『測量士アーニャと心の地図』 - 6
それは幼い頃と何も変わらない、温かい手だった。
アーニャはその温もりに包まれながら、心の中の最後の氷が溶けていくのを感じていた。
その夜、彼女は師であるアルフォンスと久しぶりに語り明かした。
アルフォンスは彼女に、この湿地帯で見つけた世界の真の姿を語って聞かせた。
風の精霊シルフの歌。光る苔が描く星図。それらが示す季節の移ろい。
それは、アーニャがこれまで信じてきた論理や数字とは全く違う、世界の理だった。
「……先生。一緒に帰りましょう。私があなたの学説の正しさを、今度こそ証明します」
アーニャのその言葉に、アルフォンスは静かに首を横に振った。
「もうその必要はないのだよ、アーニャ。証明などいらない。真実はここにあるのだから」
彼の声は穏やかだった。
「私はもう王都へは帰らない。この森こそが、私の見つけた安住の地なのだ」
アーニャはその答えを聞いて、もう何も言えなかった。
自分が本当にしたかったことは、師の名誉を回復させることではなかった。
ただ、もう一度こうして彼と話がしたかった。
ただ、それだけだったのだ。
そして、その願いは今、叶えられた。
「……先生。……あなたの地図は私が完成させます。……あなたのやり方で」
それが彼女の答えだった。
次の日の朝。
彼女は旅の支度を整えた。
アルフォンスは、泉のほとりに咲いていた一輪の光る花を摘み、彼女に手渡した。
「達者でな、アーニャ。……君はもう道に迷うことはないだろう」
それは師と弟子としての最後の会話。
そして、同じ道を歩む二人の測量士としての、最初の会話だったのかもしれない。
アーニャは一度だけ深く頭を下げると、森の中を歩き始めた。
今度はもう、振り返らなかった。
アーニャは師に別れを告げると、一人王都へと帰還した。
彼女が王宮に提出した報告書はたった一枚。
『霧の湿地帯は、現行の測量技術では地図にすることは不可能』
そして彼女は、その場で王宮測量士の職を辞した。
学会の学者たちは、彼女を嘲笑った。
「師と同じく、幻想に負けたか」
「だから言わんこっちゃない。エルリックの家の者は皆狂人よ」
だが、アーニャはもう何も感じなかった。
彼らが見る世界の、なんと狭く、そして色褪せていることか。
彼女はその足で、王都の東門へと向かった。
そこに立つ一人の老門番に会うために。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
数ヶ月後。
春の終わりの匂いがする風が吹く頃。
一人の測量士が東門へとやってきた。
その顔つきは、旅立つ前よりもずっと穏やかで、そして静かな知性に満ちていた。
「……あなたが幸運の門番殿ですね」
アーニャはヨハンの前に立つと、深々と頭を下げた。
「エリオットから聞きました。私のために祈ってくださったと」
ヨハンはただ静かに頷いた。
「おかげさまで私は道に迷い、そして本当に進むべき道を見つけました」
彼女はそう言うと、一枚の羊皮紙を広げて見せた。
それは測量図ではなかった。
湿地帯の季節の移ろいや、精霊の通り道を描いた、一枚の美しい絵物語のような地図だった。
「私は王宮を辞しました。これからは名もなき測量士として、世界の声なき声を地図にしていこうと思います」
その笑顔には、もう何の迷いもなかった。
「そうか。……良い地図だな」
「はい。……あなたに見送っていただけて、幸運でした」
アーニャはもう一度深く頭を下げると、王都の中へと歩いていった。
その後ろ姿を見送りながら、ヨハンの脳裏に静かな声が響いた。
《ピーン! スキル【見送る者】のレベルが51に上がりました》
《新たな能力『見送った測量士が描く地図がほんの少しだけ目的地を指し示しやすくなる』を【獲得】しました》
ヨハンは春の高い空を見上げた。
旅とは不思議なものだ。
目的地を見失った時にこそ、本当にたどり着くべき場所が見えてくることもあるのだから。
彼はそう静かに思った。
日々の生活や仕事に追われると、それが目標であるかのように錯覚することが良くあります。
たまには道に迷ってみると、本当の目的地にたどり着くことがあるかもしれませんね。




