『楽士エリアスと慰めの音色』 - 2
王都を追われるように出てから、ひと月が過ぎた。
エリアスの旅は、あてもなく、ただ彷徨うだけのものだった。かつて『神童』『王都の至宝』とまで呼ばれた彼の指は、今や宿屋の皿を洗い、馬小屋の掃除をするためにある。日銭を稼いでは、安酒を呷り、リュートを抱えたまま眠りに落ちる。そんな日々だった。
彼にはかつて、誇りがあった。王侯貴族の前でリュートを奏で、惜しみない喝采を浴びる。彼の音楽は、常に栄光と共にあるべきだった。しかし、彼は嵌められた。くだらない派閥争いの駒として、無実の罪を着せられ、全てを失ったのだ。地位も、名誉も、そして、何より音楽を奏でる場所も。
時折、彼は酒場の隅で、人々の求めに応じてリュートを弾くことがあった。指はまだ、かつての超絶技巧を覚えている。だが、彼の奏でる音には、心がなかった。聴衆は、その技術に一瞬は感心するものの、すぐに興味を失い、騒がしい喧騒の中へと戻っていく。
「なんだ、ただ上手いだけか」
「魂がこもってねえな」
そんな声が、彼の心を少しずつ、しかし確実に蝕んでいった。あの門番は言った、『あんたの音が、いつかまた誰かの心を慰める日が来る』と。だが、今の自分には、自分の心すら慰めることができない。
そんなある日、エリアスは寂れた鉱山の町に流れ着いた。粉塵が舞い、人々の顔には疲労の色が濃い、活気のない町。その町の酒場で、彼はいつものように、心の抜けた音を奏でていた。
その時、店の隅で、一人の少女がじっと彼を見つめていることに気づいた。歳は七つか八つ。ぼろをまとい、顔も煤で汚れているが、その瞳だけが、驚くほど澄んでいた。
エリアスの演奏が終わっても、少女は彼から目を離さない。エリアスは居心地の悪さを感じ、早々に酒場を出た。
しかし、翌日も、その次の日も、彼がリュートを手に取ると、いつの間にか少女が店の隅に座り、彼を見つめているのだった。彼女は何かを求めるでもなく、ただ、そこにいる。その真っ直ぐな視線に耐えきれなくなったエリアスは、ついに演奏を途中でやめ、少女の元へと歩み寄った。
「……なんだ。俺の音楽が、そんなに珍しいか」
苛立ちを隠さずに言うと、少女は小さく首を横に振った。そして、掠れた声で、ぽつりと呟いた。
「……悲しい、音がする」
その一言は、エリアスの胸に深く突き刺さった。誰もが「魂がない」と評した彼の音楽を、この少女だけは「悲しい音」だと感じ取ったのだ。
「お父さんも、お母さんも、みんな、この町を出ていったの。私をここに残して。……あなたの音は、あの日の、お父さんの背中と同じ匂いがする」
少女の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
エリアスは、言葉を失った。彼は、自分の音楽が誰かに届くことなど、もうないと諦めていた。ましてや、こんな小さな子供に、自分の心の奥底にある絶望を見透かされるとは思ってもみなかった。
彼は、無意識のうちにリュートを構え直していた。
今度は、誰のためでもない。王侯貴族のためでも、日銭のためでもない。ただ、目の前で泣いている、この名も知らぬ少女のためだけに。
彼の指が、弦を弾く。
それは、技巧をひけらかす音ではなかった。悲しみに寄り添い、孤独を慰める、子守唄のような優しい音色。彼が王都では決して弾くことのなかった、彼自身の心の奥底から湧き出でた、本当の音楽だった。
酒場の喧騒が、嘘のように静まり返る。誰もが、エリアスの奏でる音に、静かに耳を傾けていた。
やがて、少女の泣き声が止み、その顔には、穏やかな寝息が立ち始めた。彼女は、エリアスの奏でる慰めの音色の中で、久しぶりに安らかな眠りについたのだった。
エリアスは、演奏を終えても、しばらくその場を動けなかった。彼は、失っていたものを見つけたような気がした。それは、名誉でも、喝采でもない。ただ、誰か一人の心に寄り添う、音楽の本当の力だった。