『測量士アーニャと心の地図』 - 3
どれほどの時間、霧の中を彷徨っただろうか。
アーニャは完全に方向感覚を失っていた。
頼りの論理は沈黙し、代わりに心の奥底から原始的な恐怖が込み上げてくる。
(……なぜこんなことに。私の計算は完璧だったはずなのに)
その思いが彼女の脳裏に、封印していたはずの過去の記憶の扉をこじ開けた。
ーー彼女の師であり父親代わりでもあった老測量士、アルフォンス。
彼は王都で最も尊敬される学者の一人だった。彼の描く地図は寸分の狂いもなく、その論理的な思考は常に若い学者たちの模範とされてきた。アーニャもまた、そんな師を心から敬愛していた。
だが彼が「霧の湿地帯」の研究を始めてから全てが変わった。
彼はその土地の不可解な力に魅入られてしまったのだ。
書斎に籠り古い伝承や神話を読み漁り、やがて「森の声を聞く」などと非論理的なことを口にするようになった。
そして運命の日。王立歴史学会で彼はこう発表したのだ。
「霧の湿地帯は地図には描けない。あの土地は生きている。我々はそれを測量し支配するのではなく、その声に耳を傾け共生する道を探るべきだ」
学会は騒然となった。
彼の言葉は測量士としての自らの存在意義を、否定するに等しいものだったからだ。
彼は狂人として断じられ、全ての地位と名誉を剥奪された。
アーニャはその光景をただ呆然と見ていた。
数日後、師は彼女に一言も告げず、全ての研究資料を書斎に残したまま湿地帯へと姿を消した。
アーニャは師に捨てられたのだと思った。
論理を捨て非科学的な幻想に負けた、弱い男に。
だから彼女は旅に出た。
師が捨てた「論理」で湿地帯を完全に踏破し、賢者など存在しないことを証明する。
そうすることで師がただの道を踏み外した哀れな学者だったと証明し、彼をこの呪いから解放するために。
そして自分自身を師への失望から解放するために。
ーー霧が一層深くなる。
アーニャは寒さと孤独に震えていた。
結局私も師と同じだ。
この不可解な世界の前では、一人の人間などあまりにも無力だ。
彼女は、いつの間にか、湿地帯の最深部にある、巨大な木々が天を覆う聖域のような場所に迷い込んでいた。
一本一本の幹はまるで塔のように太く、その枝葉は陽の光を受け、聖堂のステンドグラスのようにきらめいている。
人の理を超えたあまりにも雄大で美しい光景。
アーニャは、その圧倒的な存在感の前に力なく膝から崩れ落ち、一番大きな古木の根元に身を寄せた。
そこで、彼女の意識は途切れた。
ーー遠のく意識の中で、彼女は夢を見ていた。
まだ幼かった頃。師のアルフォンスの背中におぶわれ、初めてこの湿地帯の入り口まで来た、夜のことだ。
「見てごらん、アーニャ。この森は、夜になると星を降らせるんだ」
師がそう言うと、目の前の苔が一斉に青白い光を放ち始めた。
それはまるで、空の星々が地上に舞い降りてきたかのような、幻想的な光景だった。
「……綺麗……」
「だろう? ……世界はな、アーニャ。数字や論理だけでは測れない、美しさで満ちている。それを決して忘れてはいけないよ」
師の声は温かく、そしてその背中は世界の何よりも大きかった。
アーニャの冷たい頬を、一筋の涙が伝った。
(……先生。……私、本当はもう一度あなたに会いたい……)
……どれほどの時間が経っただろうか。
アーニャが寒さで、目を覚ますと、辺りは、まだ、深い霧に包まれていた。
「……おや。目が覚めたかい、人の子」
しわがれた、しかし、どこか温かい声がした。
アーニャは、はっとして身を起こした。
「……誰? そこに、いるのは?」
だが、周りには誰の姿もない。
声はまるで彼女がもたれかかっていた巨大な古木の幹、そのものから響いてくるようだった。
アーニャが呆然と幹を見つめていると、目の前の樹皮がまるで柔らかな布のようにめくれ上がり、中から、その老婆が現れたのだ。
湿地帯の木々と同じ色をした服。その顔に刻まれた深い皺は、まるで木の年輪のようだった。
森の民、通称「ツリーウォーカー」。木に擬態する能力を持つ、古の人の一種だった。
老婆はアーニャに手を差し伸べると、にっこりと笑った。
「はじめまして、道に迷ったお嬢さん」




