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『測量士アーニャと心の地図』 - 2

 ーー旅立ちの朝。


 アーニャの研究室の扉を叩く音がした。

 返事を待たず入ってきたのは、同僚のエリオットだった。

 彼の顔には深い憂いの色が浮かんでいる。


「アーニャ先輩、お願いです。考え直してください!」

 エリオットは、彼女の机に広げられた地図と、まとめられた荷物を見て、懇願するように言った。

「霧の湿地帯は、あまりにも危険です。あなたの師である、アルフォンス様でさえ、お戻りにならなかった」


 だが、アーニャの決意は、揺るがなかった。

「私の計算は完璧よ、エリオット。感傷で論理を鈍らせないで。師が帰らなかったのは、彼が最後の最後で論理を捨て、迷信に惑わされたから。私は、それを証明しに行くの」


 エリオットは、それでも、食い下がった。

「……分かりました。もう、止めません。ですが、せめて……! せめて、遠回りして東門から出発してください。あそこには、『幸運の門番』がいると言います。……ただの迷信でも構わない。気休めにでも!」


 その言葉に、アーニャは、心底、呆れたという顔で、エリオットを見つめた。

「わざわざ遠回りして東門へ回る? 非論理的ね。私は、私の計算だけを信じるわ」


 彼女は、そう言うと、荷物を背負い、エリオットの横を、通り過ぎていった。

 彼の、絶望的な、表情には、気づかないふりをして。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 アーニャの旅は、西門から始まった。

 彼女はまず、街道沿いの大きな町で腕利きの傭兵を二人雇った。

 酒場のテーブルで彼女が地図を広げ、目的地が「霧の湿地帯」だと告げた時、屈強な傭兵たちの顔が一瞬こわばったのを、彼女は見逃さなかった。


「……嬢ちゃん、本気か。あそこは地図が役に立たねえって噂だぜ」

「だからこそ私が往くのです。正確な地図を作るために」

「違いない。だがまあ、金さえもらえれば俺たちはどこへでも行くがな」


 傭兵たちのそんな会話も、アーニャにはただの雑音にしか聞こえなかった。


 数週間後、彼女はついに「霧の湿地帯」の境界にある最後の村にたどり着いた。

 その村は、湿地帯から立ち上る霧を避けるように、家々が皆、山の斜面に張り付くように建てられている。村人たちの顔は、どこか、怯えているように、見えた。


 村の長老だという老婆が、彼女の元へやってきた。

「おやめなされ。あの湿地帯は神々の領域。人の子が足を踏み入れて良い場所ではない」

「ただの地理的な特異点ですよ。神など存在しません」


 アーニャは、老婆の言葉を冷たく一蹴した。

「あそこへ入ってはいけない。生きて帰れた者はいない」

「それは過去の測量士たちの技術が未熟だった、というだけのことです」


 アーニャはそう言うと、老婆に背を向け傭兵たちに言った。


「行きますよ。準備を」


 老婆はそんな彼女の背中に、ただ哀れむような視線を向けていた。


 彼女は傭兵たちに正確な指示を与えた。

「これより第一測量ポイントへ向かう。周囲二十メートルを常に警戒。気圧及び磁場の僅かな変化も全て報告すること。……理解しましたね?」


 傭兵たちが無言で頷くのを確認すると、彼女は湿地帯へと足を踏み入れた。

 そこは、確かに、美しい場所だった。

 足元には見たこともない苔が、星空のように青白い光を放っている。木々の間を流れる霧は、まるで生き物のようにその形を変え続けていた。


(……発光性の苔か。新種の可能性大。土壌に特殊な鉱物が含まれている可能性も考慮すべきか。……サンプルを採取し、後で分析する必要がある)


 アーニャは、その神秘的な光景を、ただの分析対象としてしか見ていない。


(湿度九十パーセント以上、気温の急激な低下による移流霧。地形が複雑なため気流が乱れ、霧の動きが予測不能に見えるだけだ。……これも全て、計算可能な現象にすぎない)


 彼女の論理的な世界では、全ての現象に理由がある。

 だがその自信は、湿地帯の奥へ進むにつれて、少しずつ揺らぎ始めた。

 方位磁石の針が狂ったように回転を始める。

 六分儀で天体を観測してもありえない誤差が生じる。

 そして何より不可解なのは、一度測量したはずの土地が次に訪れた時には微妙にその地形を変えていることだった。


「……ありえない。何か計算間違いがあるはずだ」


 焦りが彼女の心を支配し始める。

 そんな彼女の様子を見て、傭兵の一人が意を決したよう、口を開いた。


「お嬢様。……もう、これ以上は危険です。ここなら、まだ引き返せる」


「何を言っているのです。任務はまだ終わっていません」

 アーニャは傭兵の言葉を冷たく一蹴した。


「だが、この霧は異常だ。それに、方位磁石も役に立たない。俺たちの勘が告げているんだ。これ以上進むべきではない、と」

「勘、ですか。……非論理的なものですね。私は、データと計算しか信じません」

「だが……!」


「……分かりました」

 アーニャは、食い下がる傭兵を遮った。

「そこまで言うのなら、あなたたちはここで待機していなさい。私が一人で最後の調査をしてきます。日没までに戻らなければ、任務は失敗とみなし王都へ帰還して報告すること。……もちろん、待機分の費用は成功報酬から差し引かせてもらいますよ」


 そのあまりにも冷たい言葉に、傭兵たちは何も言い返せなかった。

 アーニャはそんな彼らに一瞥もくれることなく、一人さらに奥へと調査に向かった。

 師が遺した地図の最後の地点。そこに、何か手がかりがあるはずだと。


 だが彼女がそこに見たのは、ただ底なしの沼地だけだった。

 彼女が呆然と立ち尽くしたその時だった。

 どこからともなく濃い霧が発生し、一瞬で彼女の周りの景色を真っ白に塗りつぶした。


「……っ!?」


 方位は不明。現在地、不明。

 全ての前提が、崩れた。


 彼女は完全に一人になった。

 自ら選んだ、孤独だった。

 だが、頼りだった論理と技術は、この場所では何の意味もなさない。

 彼女の手にある地図は、もはやただのインクの染みがついた羊皮紙の束だった。

 彼女は生まれて初めて「道に迷う」という、原始的な恐怖に囚われていた。

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