『老航海士アストルと約束の島』 - 4
アストルの最後の航海が始まった。
外海に出ると彼は一人、熟練の手つきで帆を操り、羅針盤が示すただ一点を目指した。
海はどこまでも穏やかだった。抜けるような青空。海面を滑る白い雲の影。
だがその美しさは、彼の心を慰めはしない。
彼はただ、約束の場所へと船を進めるだけだった。
数日後、彼の船は海図にもない海域へと入った。
空はにわかに暗くなり、穏やかだった海が牙を剥き始める。
天を突くほどの巨大な波。全てを飲み込まんとする大渦。
船乗りたちが「海の墓場」と恐れる、伝説の大嵐だった。
だがアストルの瞳に恐怖はなかった。
彼は笑っていた。
「……ソフィア。迎えに来たぞ」
彼は舵を握りしめ、嵐の中心へと船を進める。
ヨハンの祝福を受けた羅針盤の針は、狂った磁場の中にあっても、ぴたりと約束の方角を指し示し続けていた。
何日も何日も、彼は船を進めた。
ヨハンの祝福を受けた羅針盤は、ただ一点を指し示し続けている。
そしてついに、針が動かなくなった。
約束の場所にたどり着いたのだ。
だが彼の目の前にあったのは、ただどこまでも続く水平線だけだった。何もない。島影一つ見えない、ただの大海原。
(……ただの、おとぎ話、だったのか)
アストルの胸にぽっかりと穴が開いたように、ゾッとした感情が押し寄せた。
(……わしはなぜこんなところにおる? ソフィアは、もうとうの昔に死んでしまったではないか)
その時、空がにわかに暗くなり、激しい嵐が彼の小舟に襲いかかった。
天を突くほどの巨大な波。船に容赦なく打ち付ける海水。
彼は必死に舵を握りしめた。だが百二歳の老人の体力は、もう限界だった。
ロープを握る手が滑り、彼は甲板に倒れ込んだ。
遠のく意識の中で、彼は空を仰いだ。
(……目が覚めたよソフィア。お前は、もういないんじゃな。……最後に一言だけでも謝りたかった)
アストルは長年船乗りとして精を尽くしてきた。それはすべてソフィアのために。だが今思えば、もっとそばにいてあげればよかった。
アストルはそのことを、ソフィアが亡くなった20年前から今日まで、ずっと後悔しつづけていた。
「苦労を掛けてすまんかったな……ソフィア。……最後にもう一度……お前の顔を見たかったよ」
彼がそう呟いた、瞬間だった。
嘘のように、ぴたりと嵐が止んだ。
厚い雲が割れ、そこから一本の光の梯子が、まっすぐに彼の船へと差し込んだ。
彼の目の前に、信じられない光景が広がっていた。
そこは波一つない、鏡のような海。
そしてその空に。
雲の上に、緑豊かな島が浮かんでいた。
アストルの身体がふわりと宙に浮いた。
不思議な力に導かれ、彼の身体は空の島へとゆっくりと昇っていく。
そして彼は見た。
その島で一人、彼を待つ若く美しい妻の姿を。
彼の皺だらけの身体がみるみるうちに若返っていく。
かつての壮健な航海士の姿へと。
「……ソフィア! すまなかった、わしは、いつも海ばかりで、お前の死に目にも会えなかった。ずっと、ずっと謝りたかった」
「いいえ、アストル。そんな必要はありません」
「わしを……許してくれるのか」
「海が好きなあなただから、一緒になったんですよ」
アストルの涙がポロポロとこぼれてゆく。
「でも、ちょっと待たせすぎです」
「ああ、すまない。だが、もうずっと一緒だ」
アストルの体が光に包まれ、ゆっくりと空へと昇っていく。
二人は次第に近づいていき、そして光の中で、強く抱きしめ合った。
アストルが行方知れずになって数日後。
孫は必死にその行方を捜索していたが、その日あっけなく祖父の船は見つかった。
彼の船は、まるで導かれるかのように、孫の船へと流れ着いたのだ。
彼は舵を握ったまま、まるで眠るように安らかな顔で息絶えていた。
その傍らには、ずぶ濡れになって滲んだ一冊の航海日誌が置かれている。
日誌の最後には一文だけ、辛うじて読むことが出来た。そこにはこう書かれていた。
『Sophia, I'm home.』と。
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アストルの孫は、祖父の遺品である羅針盤を東門の門番に届けた。
「じいさんの最後の旅を見送ってくれて、ありがとう、門番さん」
その言葉に、ヨハンは羅針盤を受け取れずにいた。彼の胸には、あの日以来ずっと、一つの重い澱が溜まっていた。
「わしの祈りが……あの方を、死なせてしまったのかもしれんな」
それは、後悔の念から絞り出された、か細い声だった。だが、孫は穏やかに首を横に振った。
「あんたのせいじゃない。……いや、あんたのおかげなんだ」
彼はそう言うと、懐から一冊の古びた航海日誌を取り出し、最後のページを開いてヨハンに見せた。ヨハンはその一文に「そうか」と声を漏らし、深くうなずいた。
「じいちゃんの船が見つかったんだ。……舵を握ったまま、本当に安らかな顔で眠ってた。ばあちゃんが死んでから、じいちゃんはずっと空っぽだった。でも、最後の最後で、海の男として、自分の人生を生ききったんだと思う。……じいちゃんはきっと、ばあちゃんに会えたよ」
ヨハンは、その言葉を、ただ静かに受け止めた。彼は航海日誌の最後の一文と、手渡された羅針盤に視線を落とす。一つの魂が、あるべき場所へと還っていったのだ。
ヨハンが羅針盤を胸に抱いた、その時。彼の脳裏に声が響いた。
《ピーン! スキル【見送る者】のレベルが50に上がりました》
《新たな能力『見送った船乗りの船がほんの少しだけ嵐に強くなる』を【獲得】しました》
《旅人の魂の変革を観測。獲得した能力が世界の『理』の一つ、【帰結の理】へと【昇華】しました》
理の会得。四つ目。
ヨハンは羅針盤を胸に抱いた。
アストルが目的地へたどり着いたかどうか、知る者はいない。
だが彼の魂はきっと、愛する人の元へ帰り着いたことだろう。
ヨハンは静かに目を瞑り、アストルへ祈りを捧げた。
生きる意味を取り戻したアストルは、幸せな最後だっでしょうか?そうであると、嬉しいです。
もし、この物語が、あなたの心の片隅に何かの足跡を残せたのなら。
この旅路を、また訪れたいと思っていただけたなら、ブックマークという名の道標を。
そして、後に続く旅人たちのために、星という名の灯火をいただけると、作者として望外の喜びです。
ではまた、次の旅路でお会いしましょう。




