『老航海士アストルと約束の島』 - 2
東門をくぐる一日前。
その日の朝、アストルは小鳥のさえずりと共にぱちりと目覚めた。
百二歳の彼にとって朝目が覚めるということは、それだけで一つの奇跡だった。
彼はゆっくりとベッドから起き上がると、窓際の小さな棚へと向かった。
そこには一枚の古い似顔絵と、可憐な野の花が生けられたガラス瓶が置かれている。
似顔絵に描かれているのは若く美しい彼の妻、ソフィア。
彼はまずその絵の埃を指で優しく拭うと、花瓶の水を取り替えた。
この二十年間、一日も欠かしたことのない彼の日課だった。
棚の小さな引き出しを開けると、そこに古びた黄色いハンカチが、大切に畳んでしまわれていた。
彼が初めての航海から帰った時、なけなしの金で彼女に贈った、ささやかな土産だった。
「太陽の色だ。曇りの日でも、寂しくないように」
そう言って渡すと、彼女は子供のようにはしゃいで喜んだ。
ーーそのハンカチを見るたびに、思い出す光景があった。
船着き場の先端。
彼の船が見えなくなるまで、いつもそこで彼女は、あの黄色いハンカチを振っていた。
体が弱いから風が強い日は家にいろと、あれほど言ったのに。彼女はいつもそこに立っていた。
あの小さな黄色が、彼にとっての灯台だった。
そしてその船着き場の記憶が、さらに別の記憶の扉を開いた。
まだ若かった、二人が同じ桟橋の上で水平線に沈む夕日を見ながら、交わした約束。
『海の果て、雲の上に浮かぶという伝説の島へ、いつか二人で行こう』
その約束がまるで昨日のことのように、あまりにも鮮やかに彼の中で蘇った。
それはもはや過去の記憶ではなかった。今、果たされるべき現実の約束だった。
「……おお、そうだ。いかんいかん。ソフィアが待っておる」
アストルはベッドから勢いよく飛び起きた。
その拍子に腰の骨がぎしりと悲鳴を上げたが、そんなことは構っていられない。
彼は壁に飾ってあった古い船乗りの帽子をひっつかんで頭に乗せると、埃の被った羅針盤をポケットにねじ込んだ。
部屋の隅には、昨日ひ孫が遊びに来て忘れていった木の積み木が転がっている。
いつもならそれにつまずいて大騒ぎになるところだ。
だが今日の彼は違う。
その足取りはまるで嵐の中を進む船のように確かだった。
居間からは孫の妻が朝食の準備をする音が聞こえる。
「じいちゃん、朝ごはんもうすぐ出来るよ」という優しい声。
だがその声はもう彼の耳には届かない。
彼の心は既にここにはなかった。
八十年以上も昔。
まだ若く貧しかった彼と妻のソフィアが、港の桟橋で交わしたあの約束の場所へ。
『海の果て、雲の上に浮かぶという伝説の島』
そこに行けばまた彼女に会える。
彼は何の疑いもなくそう信じていた。
彼はとるものもとらず、まるで子供のように駆け足で家を飛び出した。
向かうは東門。
約束の島への出発点だ。
彼の灰色の人生に、再び色が戻った瞬間だった。
彼は、東門で一人の不思議な門番に出会った。
門番は、彼の全てを見透かしたように、こう言った。
「あんたのその羅針盤が、約束の場所へ正しく導くことを祈っている」
なぜか分からなかった。
だが、アストルはこの航海が絶対にうまくいくと確信していた。
あの門番の言葉が、彼の古い羅針盤に新しい命を吹き込んでくれたような気がしたのだ。
彼は希望に胸を膨らませて、港町へと続く道を歩いた。
その足取りは、驚くほど軽やかだった。




