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『老航海士アストルと約束の島』 - 1

 料理人グスタフがその魂に温かい味を取り戻してから季節はまた巡り、王都には本格的な冬が訪れていた。

 空は低く鉛色に垂り込め、人々は襟を立てて足早に行き交う。


 東門に立つヨハンの吐く息も白い。


 そんなある凍てつくような朝のことだった。

 門を通り過ぎていく顔なじみの若い学者に、ヨハンは声をかけた。


「よう、エリオット。精が出るな」

「あ、門番さん。おはようございます。ええ、今日も一日書庫に籠りますよ。そういえば不思議なんです。この季節は湿気でインクが滲みやすいのに、どういうわけか今年は私のノートだけ文字が綺麗なままで」

 学者は不思議そうに首を傾げながら、王都の中へと消えていった。


 昼過ぎには、南の国へ巡業に向かうという、陽気な旅芸人の一座が門の前で荷馬車の準備をしていた。車輪の軋む音、楽器のチューニングの音、そして役者たちの賑やかな声が、門の周りを明るく包んでいる。

「よう、幸運の門番さん! 俺たちの旅にも、ひとつ景気づけの祈りってやつを頼むよ!」

一座の長らしき男が、芝居がかった大きな声でヨハンに声をかけた。その顔には、旅への期待と、わずかな不安が同居している。

「ああ。気をつけてな。道中、あんたたちの芸が、多くの人を笑顔にすることを祈っている」

 ヨハンが穏やかにそう応えると、男は「へへ、ありがてえや!」と満足そうに笑った。そして、何かを思い出したように、声を潜めて続ける。

「そういや、最近王都で評判の『慰めの楽団』……エリアスって楽士がやってる一座だが、あそこもあんたに見送られてから人気が出たって噂だな。俺たちもあやかりてえもんだ!」

 男はそう言ってウィンクを一つすると、仲間たちに号令をかけた。一座は賑やかな音楽を奏でながら、手を振って門をくぐっていく。

 ヨハンは、彼らの旅の無事を静かに祈った。自分のささやかな祈りが、こうして誰かの噂話となり、また別の誰かの希望に繋がっている。その事実が、彼の心を静かに満たしていた。


 そして夕暮れ時。門のそばで店を営む、スープ屋の主人が、温かい飲み物を手に、ヨハンの元へとやってきた。


「よう、門番さん。今日も一日、ご苦労様。これで温まってくれ」

「おお、すまんな」

 ヨハンが受け取ったカップからは、湯気と共に、豊かな香りが立ち上る。

「不思議なんだがね、あんたに見送られてから、うちのスープ、どういうわけか、なかなか冷めないんだ。おかげで、客にも喜ばれてる。まあ、気のせいだろうがな!」


 主人は笑いながら、店へと戻っていった。

 ヨハンは、そのいつまでも温かいスープを、一口すすった。

 彼の力が何であるのか、彼自身もまだ完全には理解していない。

 だが、自分のささやかな祈りが、こうして誰かの日常を少しだけ温めている。

 その事実が、彼の心を静かに満たしていた。


 そんな、いつもと同じ穏やかな時間が流れる門に、 門をくぐろうとする一人の老人がいた。


 その男、アストルは、この王都で知らぬ者はいないというほどの有名人だった。

 何しろ、歳が百二歳。

 かつては大陸中を駆け巡った偉大な航海士だったが、今は孫夫婦の家で静かな、しかし少しだけぼんやりとした余生を送っている。


 ヨハンは、門の前に現れたその老人に驚いた。

 彼の肉体は百年の時を刻んでいるのに、その瞳はまるで初めて恋をした少年のように、きらめいていたからだ。


「旅の方。……どちらまで」


「うむ!」

 アストルは、胸を張って答えた。

「妻のソフィアと約束したのだ! 海の果て、雲の上に浮かぶという伝説の島へ、最後の船出に出る!」


 そのあまりにも壮大な目標と老人の姿はひどく滑稽で、しかしあまりにも真剣だった。

 ヨハンは彼の魂が、一つの純粋な約束によってのみ動かされていることを感じ取る。


「そうか。……良い航海を」

 ヨハンは、その途方もない旅の無事を祈った。


「あんたのその羅針盤が、約束の場所へ正しく導くことを祈っている」


「うむ! 礼を言うぞ、門番殿!」


 アストルは満足そうに頷くと、しっかりとした足取りで門を抜けていった。

 そのしばらく経った後だった。

 一人の若者が血相を変えて門へと駆け込んできた。


「じいちゃんを見なかったか!? 百歳超えの、元気すぎるじいさんだ!」


 ヨハンが静かに東を指さすと、若者は絶望的な顔で叫んだ。


「じいちゃーん! だめだって! おーい!」


 その悲痛な叫び声は、冬の空に虚しく響き渡った。

 ヨハンは、若者の肩を、ただ、黙って、叩いてやることしかできなかった。


(……わしは、とんでもない男を、見送ってしまったのかもしれんな)


 ヨハンは、若者の悲痛な叫び声が消えていく東の空を、複雑な思いで見つめていた。

 あの老人の、あまりにも純粋な瞳。それを曇らせることが、どうしてもできなかった。


(だが、無事でいてくれよ。……あんたのその最後の航海が、どうか幸多からんことを)


 彼の脳裏には、いつもと同じ声が静かに響いていた。


《スキル【見送る者】が発動しました。対象者アストルに、祝福『携える羅針盤の針が、ほんの少しだけ、揺れにくくなる』を付与しました》

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― 新着の感想 ―
>昼過ぎには、薬草を扱う商人の女が、荷馬車の準備を終えて声をかけてきた。 「門番さん、いつもありがとうね。さあ、今日も稼いでくるよ!」 「気をつけてな。道中ご安全に」 「ええ。そういえば最近、あんたに…
ア ス ト ル ⁇ アストル?きたァァァァ。゜(゜´Д`゜)゜。 アストル「ふむ、北を目指すかの?」 門番の爺さん止めてあげてえ!!いい加減な方向で 迷子になってしまったらあかん!!…あ、茶トラ猫…
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