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『料理人グスタフと空っぽの皿』 - 4

 マテオの言葉は、グスタフの心の一番硬い部分に、深く突き刺さった。

 彼は、マテオの胸ぐらを掴んでいた手をだらりと下ろすと、何も言わずに厨房を後にした。


 その夜、彼は酒を飲まなかった。

 ただ自分の空っぽの屋台の椅子に座り、通りの向こうにあるマテオの店の灯りを、一晩中眺めていた。


 次の日の昼。

 グスタフは、意を決してマテオの店に入った。

 客として扉をくぐるのは、人生で初めてのことだった。

 彼は隅の席に座ると、ただ一言、「シチューを」と注文した。


 やがて運ばれてきた、一杯のシチュー。

 特別な器ではない、ありふれた木の椀だ。

 彼に味覚はない。その味が、分かるわけではない。

 だが彼は、そのシチューを食べなかった。

 ただ黙って、店の中の光景を見ていた。


 そこには、彼の知らなかった世界が広がっていた。

 漁師たちが、その日の漁の成果を大声でマテオに報告している。マテオは厨房から、「そいつは良かったな! 今度一杯おごらせろ!」と笑いながら返している。

 小さな子供がパンを床に落として泣き出すと、マテオの妻がすぐに駆け寄り、「大丈夫よ。新しいのをあげるからね」と優しく頭を撫でている。

 客と店主という、関係ではない。

 そこには一つの大きな家族のような、温かい空気が流れていた。


 俺は、どうだっただろうか。

 王宮で、俺は客の顔を見たことがあったか?

 誰かのために、料理を作ったことがあったか?

 違う。俺はただ、自分のための料理を作っていた。

 自分の技術を誇示するため。自分のプライドを満たすため。

 俺の料理は、いつだって独りよがりだった。


 その時彼は、ドワーフの娘の言葉の意味を、理解した。

『おぬしの料理は、泣いておる』

 そうだ。泣いていたのだ。誰にも食べてもらえず、誰の心も温めることができず、ただ美しく冷えていく、俺の料理は。

 そしてその料理と同じように、俺の魂も、ずっと一人で泣いていたのだ。


 マテオの料理。彼がずっと見下してきた田舎料理。

 彼はゆっくりとスプーンを手に取った。

 そして一口、また一口と、夢中でそれをかきこみ始めた。

 隣の席の漁師が、王宮料理長だった男のそのあまりの勢いに、目を丸くしているのも気づかない。


 味はしない。

 だが不思議だった。

 スプーンを動かすたびに、空っぽだったはずの心の器が、温かい何かで満たされていく。

 これがマテオの味。いや、これが母の、そして料理の本当の「味」だったのだ。


 彼は最後の一滴までシチューを飲み干すと、静かに立ち上がった。

 そして勘定を済ませると店の外へ出た。

 自分の屋台へと戻ると、彼はそこにあった全ての美しい料理を静かに片付け始めた。

 彼の顔にはもう何の迷いもなかった。

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