『楽士エリアスと慰めの音色』 - 1
第2章も読んでくれて、どうも。今回は、一度全てを失った男の話だ。
薬師リーナが旅立っていった春は過ぎ、王都は活気に満ちた夏を迎えていた。ヨハンの【見送る者】としての日常は、変わることなく続いている。彼のスキルレベルは、リーナの旅のような大きな出来事があるとぐんと上がるが、大抵は、日々のささやかな見送りによって、僅かずつ、亀の歩みのように成長していた。
ある日の夕暮れ時、門を閉める準備をしていたヨハンの目に、一人の男の姿が映った。
上質な、しかし着古されてところどころが擦り切れた旅装。顔はフードで深く隠されているが、その歩き方には、拭いがたい疲労と、何かから逃れるような焦りが滲んでいた。そして何より、ヨハンの目を引いたのは、男が胸に抱えるようにして持つ、古いリュートだった。そのリュートは、まるで唯一の縋るものであるかのように、大切に、しかし痛々しく抱えられている。
男は、ヨハンの前を足早に通り過ぎようとした。まるで、誰何されることを恐れるように。
「どちらまで、旅の方」
ヨハンが声をかけると、男はびくりと肩を震わせ、一瞬だけ足を止めた。フードの奥から、鋭く、そして警戒心に満ちた瞳がヨハンを射抜く。
「……どこでもいい。この王都から、遠ければ遠いほど」
その声には、かつての栄光を偲ばせる響きと、それを打ち消すほどの深い絶望が混じり合っていた。ヨハンは、男の指に目をやった。リュートを抱えるその指は、長く、しなやかで、紛れもなく音楽を奏でるためにある指だった。しかし、その指先は荒れ、いくつもの傷がついている。彼が、長いこと楽器をまともに弾けていないことの証だった。
「良いリュートだ。きっと、素晴らしい音色を奏でるんだろう」
ヨハンの言葉に、男は自嘲するようにフッと息を漏らした。
「……もう、昔の話さ。こいつは、ただの重荷だ」
そう吐き捨て、男は再び歩き出そうとする。その背中は、あまりにも寂しかった。
ヨハンには、彼の過去に何があったのかは分からない。だが、その背中が、音楽に捨てられたのではなく、自ら音楽を捨てようとしているように見えた。
「旅の方」
ヨハンは、その背中に向かって、静かに声をかけた。
「あんたの音が、いつかまた誰かの心を慰める日が来ると、俺は信じている」
男の足が、ぴたりと止まった。彼は振り返らなかったが、その肩が微かに震えるのを、ヨハンは見逃さなかった。
「……いってらっしゃい。達者でな」
男は、最後まで何も答えなかった。ただ、一瞬だけ立ち尽くした後、夕闇に溶け込むように、王都の外へと消えていった。
その姿が見えなくなっても、ヨハンはしばらくその場を動かなかった。彼の脳裏には、また、あの静かな声が響いていた。
《スキル【見送る者】が発動しました。対象者エリアスに、祝福『奏でるリュートの弦が、気持ちだけ切れにくくなる』を付与しました》
ヨハンは、男が去っていった道を静かに見つめた。
彼の旅路が、いつか、彼自身の心を慰める音色を見つけ出す旅になることを、ヨハンはただ、祈っていた。