『料理人グスタフと空っぽの皿』 - 2
グスタフが故郷の港町に帰り着いたのは、旅に出てから一月ほど経った頃だった。
潮の香りが彼の鼻をくすぐる。だが彼にはそれが懐かしい匂いなのか、ただの生臭い匂いなのか、もはや分からなかった。
彼は町の一角にある古びた食堂の前で足を止めた。
かつて母が営んでいた『海の幸亭』。その看板は今はもうない。代わりに真新しい木の看板が掲げられていた。
『港の食堂 マテオ亭』。
マテオ。その名にグスタフの眉がぴくりと動いた。
店の扉を開けると、活気ある賑やかな声と魚介の滋味深い出汁の香りが、彼の体を包んだ。
カウンターの奥、厨房で鍋を振るっているのは分厚い胸板をした人の良さそうな男。幼い頃いつも彼の後塵を拝していた宿敵マテオその人だった。
店は満席だった。漁師たちが、商人たちが、そして家族連れが、皆マテオの作る素朴なシチューを実に美味そうに頬張っている。
「おう、グスタフじゃねえか! 生きてたのか!」
客の一人が彼に気づき、大声を上げた。
その声に店中の視線が、一斉にグスタフへと集まる。
同情、好奇心、そしてかすかな嘲笑。
グスタフはその視線に耐えられず、何も言わずに店の扉を閉めた。
彼の心はどす黒い屈辱と嫉妬の炎で燃え上がっていた。
(……なんだあれは。ただの田舎料理じゃないか。あんなものが、なぜ……)
次の日グスタフは、マテオの店の真向かいにある空き店舗を借りると、そこに小さな屋台を出した。
味覚を失った彼が唯一マテオに勝てるもの。
それは王宮で培った完璧な「技術」と「見た目」だった。
彼の作る料理は一口サイズで、まるで宝石のように美しく磨き上げられていた。
完璧な焼き色の肉、寸分違わず切りそろえられた野菜、そして皿の上で輝くソースの滴。
これは料理ではない。芸術だ。
グスタフは鼻息荒く、確信していた。
――だが、彼の屋台に、客は来なかった。
人々は、物珍しそうに、彼の屋台を遠巻きに眺めるだけ。
一人の主婦が子供の手を引いてやってきたが、その美しい料理と、王都と変わらぬ値段を見て、困ったように微笑むと、そのままマテオの店へと入っていった。
屈強な漁師たちは、彼の料理を一瞥すると、「おままごとみてえだな」と鼻で笑い、やはりマテオの食堂の、湯気の立つシチューを選ぶ。
マテオの店からは、常に、賑やかな笑い声と、食器の音が、聞こえてくる。
対して、グスタフの屋台の前は、静かだった。
彼の完璧な料理は誰の口にも入ることなく、ただ、秋の冷たい風にさらされていく。
陽が傾き、一日が終わる頃には、彼の自信は苛立ちと焦り、そして深い孤独感へと変わっていた。
(なぜだ……? この完璧な料理が分からないのか。この、田舎者どもは……。……いや、違う。分かっている。分かっていて、俺を無視しているのだ)
陽が傾き、一日が終わる。
彼の完璧な料理は、誰の口にも入ることなく、ただ秋の冷たい風にさらされていた。
完膚なきまでに打ちのめされたグスタフ。プライドはズタズタに引き裂かれていた。
彼は、いつの間にか、屋台の椅子に座り込んだまま、動けなくなっていた。
気が付くと、夜になっていた。
雲一つない空に、大きく、冴え冴えとした月が浮かんでいる。
(……満月か)
ぼーっとした頭で、グスタフは思った。
その月があまりに美しく、そして、自分の境遇があまりに惨めだったからだろうか。
彼の乾ききった瞳から、一筋涙がこぼれ落ちた。
人生で初めて流す、敗北の涙だった。
(……俺が負けたのか。この俺が……)
もうこんな場所にいるのは、恥ずかしくてたまらない。
店をたたもう。明日すぐにでも。
だが、どこへ行けばいい? 俺にはもう帰る場所も誇れるものも、何一つないというのに。
深い絶望が彼の心を覆い尽くした、その時だった。
チリン、と。
どこか遠くから、澄んだ鈴のような音が聞こえた。
グスタフが顔を上げると、そこに一人の少女が立っていた。
満月を背にした、その小さなシルエット。
彼女が一歩歩くたびに、その神秘的な服についた銀の装飾が、チリン、チリンと澄んだ音を立てる。
歳の頃は十歳ほど。だがその雰囲気は人間の子供とは明らかに違っていた。その瞳はまるで何百年も生きてきたかのように深く、そして全てを見通しているかのようだった。
この港町に古くから住み着いているという、守護人ドワーフの娘だった。
少女は、グスタフの作った美しい料理を、じっと見つめていた。
やっとドワーフ出せた! ファンタジーなのに初出演がここって〇ルセルクかw




