『料理人グスタフと空っぽの皿』 - 1
歴史学者エラーラが父の本当の宝物を見つけてから、季節は実りの秋へと移ろいでいた。
東門から見える王都の街路樹も赤や黄色に色づき始めている。
その日の夕暮れ時、門をくぐろうとする一人の男にヨハンは思わず目を留めた。
初老のその男の身なりは良かった。旅慣れているようには到底見えない上質な服。だがその服はところどころ煤で汚れ、彼の顔には深い疲労と全てを呪うかのような絶望の色が浮かんでいた。
彼が背負っているのは荷物ではなく、プロの料理人が使う革製の立派な包丁ケースだった。
ヨハンはその男の顔を知っていた。
グスタフ。数年前まで王宮の料理長を務め、その名を馳せた男。
だが彼は厨房の火事が原因で味覚の大半を失い、王宮を追われたと聞いていた。
「……グスタフ殿。旅に出られるのか」
ヨハンの声に、グスタフは虚ろな目で彼を一度だけ見た。
「……故郷に帰るだけだ。……それ以外に行く場所など、もうどこにもない」
その声は、かつての栄光もプライドも全て失った男の、乾いた音をしていた。
ヨハンは彼の瞳の奥に、焦げ付いた野心の匂いと、失われた「味」の記憶が、亡霊のように揺らめいているのを感じ取った。
この男の旅は、希望の旅ではない。ただの、逃避だ。
「そうか。……達者でな」
ヨハンは、それだけを言った。
そして、彼の魂の、奥底に、語りかけるように、祈った。
「あんたの旅が、もう一度、本当の味を見つける旅になることを祈っている」
その言葉を聞いた瞬間、グスタフの足がぴたりと止まった。
彼はまるで錆びついたブリキの人形のようにぎこちなく振り返ると、その虚ろな瞳でヨハンを睨みつけた。
「……味? 味だと?」
彼の唇から低い唸り声が漏れる。
「貴様に何が分かる! 知ったような口をききやがって!」
その怒りはほとんど逆恨みに近かった。だがヨハンは動じない。
ただ静かに彼の怒りを、その呪いを、全身で受け止めるように見つめ返していた。
グスタフはそのヨハンの瞳の奥に、揺らぐことのない深い慈悲の色を見た。
それは同情ではなかった。憐れみでもない。
ただそこにある事実をあるがままに受け入れる、あまりに大きくそして静かな眼差しだった。
「……ちっ」
グスタフは大きく舌打ちを一つすると「変な爺だ」と吐き捨て、今度こそ振り返らずに門を後にした。
その後ろ姿を見送りながら、ヨハンの脳裏に静かな声が響いた。
《スキル【見送る者】が発動しました。対象者グスタフに、祝福『携える包丁がほんの少しだけ錆びにくくなる』を付与しました》
ヨハンは秋の茜色の空を見上げた。
全てを失った男がその旅の果てに何を見つけ、そして何を思い出すのか。
彼はただ静かに、その旅路の無事を祈っていた。




