『歴史学者エラーラと太陽の石板』 - 4
エラーラは夜明けまでその場で動けずにいた。
東の空が白み始め、鳥のさえずりが聞こえてくる。
彼女の手には二つの歴史。
父が愛した真実。そして彼女が作り上げた嘘。
どちらを王都へ持ち帰るべきか。
選ぶ道は、決まっていたはずだった。
父の無念を晴らすため、一族の汚名をそそぐため、この偽りの石板で、学会のあの傲慢な学者たちの鼻を、明かしてやる。
そう決意して、この旅に出たのでは、なかったか。
だが、彼女の心を掴んで離さないのは、名もなき農夫が記したあの粘土板だった。
そこにあるのは、栄光とは無縁の日々の記録。
しかし、そこには確かな人間の喜びと誇りが息づいている。
父が、生涯をかけて守ろうとした歴史の輝きがあった。
……私が、この粘土板を握りつぶし、偽りの石板を掲げたなら。
私は、父を侮辱しその研究を嘲笑った、あの学者たちと同じ人間になるということではないのか。
エラーラは、震える手で偽りの太陽の石板を持ち上げた。
彼女の野心と、劣等感。そして、父への愛憎が作り上げた歪な傑作。
彼女はそれを高く掲げると、そのまま遺跡の硬い岩肌に力任せに叩きつけた。
ガシャン、という耳障りな音と共に、石板は粉々に砕け散った。
十年以上、彼女を縛り付けていた呪いが、解けたような気がした。
エラーラは、残された一枚の粘土板を、そっと自分の胸に抱いた。
涙が、あとからあとから、溢れ出てきた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
それから、数ヶ月後。
夏の終わりの匂いがする、風が吹く頃。
一人の歴史学者が、東門へと帰ってきた。
その顔つきは、旅立つ前よりもずっと穏やかで、そして静かな自信に満ちていた。
「おかえり、旅の方。……何か、見つかったか」
ヨハンの問いに、エラーラは静かに頷いた。
「ええ。……父が失った宝物を。そして、私自身の進むべき道を」
彼女はそう言うと、鞄から大切そうに、布に包まれた一枚の粘土板を取り出して見せた。
「これからこの粘土板に書かれた名もなき人々の歴史を、一冊の本にまとめようと思います。学会が認めてくれるかは分かりません。誰の目にも留まらないかもしれない。ですが、その本が完成したら、父に、会いに行こうと思うのです」
彼女の瞳は、未来を、見つめていた。
「父がもう一度、歴史を愛せるように。……いえ、ただ、父に、もう一度笑ってほしい。……ただ、それだけなんです」
ヨハンは、その言葉の裏にある危険性を感じ取っていた。
「……お嬢ちゃん。その真実は、あんたに敵を作るかもしれん」
エラーラの瞳が、驚きに見開かれる。
「なぜ、それを……」
「分からんさ。だがな、あんたのその瞳は、ただ何かを見つけただけの目じゃない。何かと……これから戦おうとしている者の目だ」
ヨハンは、門の脇に立てかけてあった槍を、そっと握りしめた。
「もし、追われるようなことがあれば、いつでもこの門へ来なさい。俺にできることは少ないが、ここだけは、あんたを守る盾になる」
エラーラは、言葉を失った。この老門番が、なぜ自分の覚悟の奥底にある危険性まで見抜いているのか。理解はできなかった。だが、その温かい言葉は、彼女の張り詰めていた心を、確かに、少しだけ溶かした。
「……ありがとうございます、門番さん。その時は、頼らせていただきます」
彼女は、これまでにないほど深く、そして丁寧に、一礼した。
王都の中へと歩いていくエラーラの後ろ姿を、ヨハンは、ただ、案じるように見つめていた。
彼の脳裏に、いつもの声が響く。
《ピーン! スキル【見送る者】のレベルが47に上がりました》
《新たな能力『見送った歴史学者が記すインクが、ほんの少しだけ色褪せにくくなる』を【獲得】しました》
ヨハンは、高く澄んだ秋の空を見上げた。
彼女がその手に取り戻した真実という名の灯火は、これから歩むであろう困難な道を照らし、そして、彼女自身を守る導となるだろう。
彼は、そう固く信じていた。
幸せを得るためには、何かを捨てなければならない。
でも、捨てたものにこそ、本当の価値があるのかもしれません。
正しき歴史学者エラーラの旅路に幸のあらんことを。
もし、この物語が、あなたの心の片隅に何かの足跡を残せたのなら。
この旅路を、また訪れたいと思っていただけたなら、ブックマークという名の道標を。
そして、後に続く旅人たちのために、星という名の灯火をいただけると、作者として望外の喜びです。
ではまた、次の旅路でお会いしましょう。




