表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
47/98

『歴史学者エラーラと太陽の石板』 - 4

 エラーラは夜明けまでその場で動けずにいた。


 東の空が白み始め、鳥のさえずりが聞こえてくる。

 彼女の手には二つの歴史。

 父が愛した真実。そして彼女が作り上げた嘘。

 どちらを王都へ持ち帰るべきか。


 選ぶ道は、決まっていたはずだった。

 父の無念を晴らすため、一族の汚名をそそぐため、この偽りの石板で、学会のあの傲慢な学者たちの鼻を、明かしてやる。

 そう決意して、この旅に出たのでは、なかったか。


 だが、彼女の心を掴んで離さないのは、名もなき農夫が記したあの粘土板だった。

 そこにあるのは、栄光とは無縁の日々の記録。

 しかし、そこには確かな人間の喜びと誇りが息づいている。

 父が、生涯をかけて守ろうとした歴史の輝きがあった。


 ……私が、この粘土板を握りつぶし、偽りの石板を掲げたなら。

 私は、父を侮辱しその研究を嘲笑った、あの学者たちと同じ人間になるということではないのか。


 エラーラは、震える手で偽りの太陽の石板を持ち上げた。

 彼女の野心と、劣等感。そして、父への愛憎が作り上げた歪な傑作。

 彼女はそれを高く掲げると、そのまま遺跡の硬い岩肌に力任せに叩きつけた。


 ガシャン、という耳障りな音と共に、石板は粉々に砕け散った。

 十年以上、彼女を縛り付けていた呪いが、解けたような気がした。


 エラーラは、残された一枚の粘土板を、そっと自分の胸に抱いた。

 涙が、あとからあとから、溢れ出てきた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 それから、数ヶ月後。

 夏の終わりの匂いがする、風が吹く頃。

 一人の歴史学者が、東門へと帰ってきた。

 その顔つきは、旅立つ前よりもずっと穏やかで、そして静かな自信に満ちていた。


「おかえり、旅の方。……何か、見つかったか」


 ヨハンの問いに、エラーラは静かに頷いた。


「ええ。……父が失った宝物を。そして、私自身の進むべき道を」


 彼女はそう言うと、鞄から大切そうに、布に包まれた一枚の粘土板を取り出して見せた。


「これからこの粘土板に書かれた名もなき人々の歴史を、一冊の本にまとめようと思います。学会が認めてくれるかは分かりません。誰の目にも留まらないかもしれない。ですが、その本が完成したら、父に、会いに行こうと思うのです」

 彼女の瞳は、未来を、見つめていた。

「父がもう一度、歴史を愛せるように。……いえ、ただ、父に、もう一度笑ってほしい。……ただ、それだけなんです」


 ヨハンは、その言葉の裏にある危険性を感じ取っていた。

「……お嬢ちゃん。その真実は、あんたに敵を作るかもしれん」

 エラーラの瞳が、驚きに見開かれる。

「なぜ、それを……」

「分からんさ。だがな、あんたのその瞳は、ただ何かを見つけただけの目じゃない。何かと……これから戦おうとしている者の目だ」


ヨハンは、門の脇に立てかけてあった槍を、そっと握りしめた。

「もし、追われるようなことがあれば、いつでもこの門へ来なさい。俺にできることは少ないが、ここだけは、あんたを守る盾になる」


 エラーラは、言葉を失った。この老門番が、なぜ自分の覚悟の奥底にある危険性まで見抜いているのか。理解はできなかった。だが、その温かい言葉は、彼女の張り詰めていた心を、確かに、少しだけ溶かした。


「……ありがとうございます、門番さん。その時は、頼らせていただきます」

 彼女は、これまでにないほど深く、そして丁寧に、一礼した。


 王都の中へと歩いていくエラーラの後ろ姿を、ヨハンは、ただ、案じるように見つめていた。

 彼の脳裏に、いつもの声が響く。


《ピーン! スキル【見送る者】のレベルが47に上がりました》


《新たな能力『見送った歴史学者が記すインクが、ほんの少しだけ色褪せにくくなる』を【獲得】しました》


 ヨハンは、高く澄んだ秋の空を見上げた。

 彼女がその手に取り戻した真実という名の灯火は、これから歩むであろう困難な道を照らし、そして、彼女自身を守るしるべとなるだろう。

 彼は、そう固く信じていた。

幸せを得るためには、何かを捨てなければならない。

でも、捨てたものにこそ、本当の価値があるのかもしれません。

正しき歴史学者エラーラの旅路に幸のあらんことを。


もし、この物語が、あなたの心の片隅に何かの足跡を残せたのなら。

この旅路を、また訪れたいと思っていただけたなら、ブックマークという名の道標を。

そして、後に続く旅人たちのために、星という名の灯火をいただけると、作者として望外の喜びです。

ではまた、次の旅路でお会いしましょう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
ほんの少し会話しただけの相手に、守ると告げるその優しさに勇者を見た。
確実に何かが起きようとしている気配と、人々の成長がヨハンにフィードバックして少しずつ希望が積み重なっていく図。 どれも静的なのにとても心に残る物語で好きです。 ヨハンには道祖神的なものを感じます。 ど…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ