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『歴史学者エラーラと太陽の石板』 - 3

 エラーラは遺跡の冷たい石の上に座り込んでいた。

 片方の手には彼女の野心の結晶である偽りの太陽の石板。

 そしてもう一方の手には名もなき農夫の魂が刻まれた真実の粘土板。


 松明の炎が揺らめき、二つの歴史を交互に照らし出す。

 彼女の脳裏に、忘れようとしても忘れられない過去の光景が蘇っていた。


 ーー父の書斎は、いつも土の匂いがした。

 王都の歴史学者たちが煌びやかな王家の系譜や英雄譚の研究に明け暮れる中、彼女の父だけが違っていた。

 彼の研究対象は、常に名もなき民衆だった。

 使い古された農具。欠けた土器。それらは他の学者から見ればただのがらくただ。

 だが幼いエラーラにとって、その部屋は宝物の山に見えた。


 ある日、彼女がこっそりと書斎に忍び込むと、父は山のような資料に埋もれて、難しい顔で何かを書きつけていた。


「こらこら、エラーラ。勝手に書斎に入るなと、いつも言っているだろう」


 父は、少しだけ厳しい顔で言った。だが、その瞳は優しく笑っている。

 エラーラはてへ、と舌を出すと、父の大きな膝の上によじ登った。


「だって、父様のお部屋は、宝物でいっぱいなんだもの」


「これはなあに? 王様の冠?」

 彼女が指さしたのは、机の上に無造作に置かれた、素朴な土器の欠片だった。


「ああ、これかい? これはな、エラーラ。王様の冠より、ずっと、すごい宝物なんだよ」

 父はそう言って、その土器の欠片を愛おしそうに撫でた。

「これを作った、名もなき職人の指の跡。これを使って、スープを飲んだ家族の温もり。そういう、声なき声が聞こえるだろう? 歴史とは、王や騎士だけのものじゃない。名もなき人々の、暮らしの中にこそ、本当の歴史があるんだ」


 エラーラはそんな父が大好きだった。そして誇らしかった。


 だがその誇りは、ある日無残に打ち砕かれる。

 父は王立歴史学会で、一つの学説を発表した。

 この国の礎を築いたのは初代国王ではなく、その土地に古くから根付いていた農耕の民の知恵と技術だった、という説だ。

 学会は騒然となった。

 貴族出身の学者たちは、父の学説を「王家への冒涜だ」と激しく非難した。

 彼らは父の論文の些細な誤りを針小棒大に取り上げ、彼を異端者として糾弾した。


 父は反論できなかった。

 彼の前には真実があった。だが彼の周りには権威と保身しかなかった。

 父は学会から追放され、全ての研究費を断たれた。

 一族の名は地に落ちた。「エラーラの家は嘘つきの一族だ」と誰もが陰で指をさした。



  私の大好きだった父は、あの日を境にいなくなってしまった。


 彼は自らの長年の研究資料を、エラーラの目の前で暖炉にくべ、「こんなものはがらくただ」と吐き捨てた。

 そして歴史学を完全に捨て、今は辺境の街でただ静かに時が過ぎるのを待っている。生きる屍のように。

 ならば、私がそれを与えてやろう。

 父が生涯をかけても手に入れられなかった名誉と賞賛。それをこの手で掴み取り、父のあの、死んだような瞳に、もう一度光を灯してやろう。


 たとえ、それが偽りの歴史であったとしても。


 ーー松明の炎がぱちりとはぜた。

 エラーラは現実へと引き戻される。


 目の前には二つの歴史。

 父が愛した真実。そして彼女が作り上げた嘘。

 彼女はどちらを選ぶべきなのか。

 いや、もう選ぶ道は決まっているはずだった。

 なのになぜ。

 この名もなき農夫の日記が、これほどまでに彼女の心を揺さぶるのだろうか。


 彼女は震える手で、粘土板をそっと胸に抱いた。

 その土の感触は、不思議なほど温かかった。

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