『歴史学者エラーラと太陽の石板』 - 1
傭兵ボルグが再び自らの旗を掲げて旅立ってから季節は夏を迎えていた。
城壁の石は熱を帯び、空気は蝉の声で満たされている。
東門に立つヨハンの姿は一見、何も変わらない。
だが、行き交う旅人たちの何人かは、ふと気づくことがあった。
彼の周りだけ、時間の流れが違うのではないか、と。
その佇まいはもはや一人の老人というより、この門と共に幾星霜を経てきた巨大な古木か、あるいは礎石そのもののように、静かな存在感を放っていた。
その日の昼下がり、門の前では顔なじみの吟遊詩人が、旅支度をしながら陽気に歌っていた。
「よう、ヨハン爺さん。今日も一日、お疲れさん」
「ああ。お前さんもな。今日も良い音色だった」
「へへ、だろ? それに不思議なんだ。あんたに見送ってもらってから、どうもこの古いリュートの弦が切れにくくなった気がしてさ。気のせいかもしれんがな!」
吟遊詩人は笑いながら門をくぐっていく。
その姿を見送っていると、今度は薬草を扱う商人の女が、荷馬車の準備を終えて声をかけてきた。
「門番さん、いつもありがとうね。さあ、今日も稼いでくるよ!」
「気をつけてな。道中ご安全に」
「ええ。そういえば最近、あんたに見送ってもらうようになってから、仕入れた薬草が前より長持ちするようになったのよ。おかげで儲けも上々でね」
女商人はウィンクを一つすると、威勢よく出発していった。
ヨハンは、彼らの言葉に、ただ静かに頷くだけだった。自分の力が何であるのか、彼自身も、まだ完全には理解していない。
そんな、いつもと同じ穏やかな時間が流れる門に、一人の若い女性が立っていた。
歳は二十歳前後。上質な、しかし実用的な旅装に身を包み、その背には土を掘るための道具と、丸めた羊皮紙がいくつも差さった革の鞄を背負っている。
彼女の佇まいはこれまでの旅人たちとは明らかに異質だった。そこには旅の不安も期待もない。あるのはただ自らの知性に対する絶対的な自信と、他者を寄せ付けない鋭い探求心だけだった。
「……ここが幸運の門か。馬鹿馬鹿しい」
彼女はヨハンに聞こえるか聞こえないかくらいの声でそう呟くと、順番を待つ他の旅人たちをどこか見下したような目で眺めた。
やがて彼女の番が来た。
彼女はヨハンに一瞥をくれると、何も言わずに門を通り過ぎようとした。
「旅の方。どちらまで」
ヨハンの声に彼女――エラーラは初めて足を止め、不機嫌そうに振り返った。
「……歴史学者だ。辺境のカレト遺跡へ。私の学説を証明する最後のピースを探しにね」
その声には若さに似合わぬ傲慢さと、そして何かに対する焦りが滲んでいた。
ヨハンは彼女の瞳の奥に、その傲慢さの鎧の下に隠された深い劣等感を見て取ったような気がした。
「そうか。……良い旅を」
ヨハンはそれだけを言った。
彼女の嘘も欺瞞も全て見抜いた上で、それでも彼は祈った。
「あんたの旅が、あんたが本当に探している真実へと繋がることを祈っている」
エラーラはその言葉の意味を理解できず、ただ訝しげに眉をひそめた。
そしてふんと鼻を鳴らすと、今度こそ振り返らずに遺跡へと続く道を歩き始めた。
その後ろ姿を見送りながら、ヨハンの脳裏に静かな声が響いた。
《スキル【見送る者】が発動しました。対象者エラーラに、祝福『掘り出す土がほんの少しだけ柔らかくなる』を付与しました》
ヨハンは彼女がその旅の果てに何を見つけ、そして何を失うのか、静かに見つめていた。
真実とは時に、あまりにも残酷な刃であることを、彼は知っていたから。




