『傭兵ボルグと錆びついた旗』 - 5
最後の夜が明けた。
ボルグとアリサは、夜明けと共に旅の最終行程へと足を踏み入れた。
目的地である辺境の街シルカまで、あと半日ほどの距離。
森はその表情を変え始めていた。
鬱蒼としていた木々はまばらになり、陽の光が木漏れ日となって、地面に優しい模様を描いている。道ももはや獣道ではない。轍の跡がはっきりと残る、人の往来を感じさせる道だ。
二人の間に言葉はなかった。
だがその沈黙は、これまでの旅とは明らかに違う色を帯びていた。
希望と緊張と、そしてほんの少しの寂しさ。
この奇妙な旅がもうすぐ終わる。その予感が二人を無口にさせていた。
そして昼過ぎ。
丘の頂上にたどり着いた、その時だった。
「……あ」
アリサが息をのむ。
その視線の先。
眼下には雄大な平原が広がり、その中心にシルカの街があった。
夕日に照らされた城壁。そこから立ち上る家々のかまどの煙。遠くに教会の鐘の音が聞こえる。
生きた人間の街。
そのあまりにも穏やかで温かい光景に、アリサの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……着いた。やっと……」
その声は震えていた。
ボルグはそんな彼女の横顔を、ただ黙って見ていた。
そして彼は十数年ぶりに、誰かに向かって自分でも信じられないほど、穏やかな声をかけた。
「……ああ。よくやった」
その言葉に、アリサは心からの笑みを見せた。
二人は、街の入り口にある旅人宿の扉を叩いた。
アリサの父が、盟友との連絡場所に指定していた宿だった。
アリサは宿の主人に、父から預かった合言葉を告げた。
「『白銀のグリフォンは、まだ空を飛ぶか』」
主人は驚いた顔をしたが、やがて、こくりと頷くと、奥から一通の封蝋された手紙を持ってきた。
「……エルリック様より、お預かりしておりました。盟友のグラン様は今、王都からの監査官の対応に追われております。明日、日没の刻、街の東にある古い石橋にて、お待ちください、と」
その返答に、ボルグは眉をひそめた。
監査官? そして、なぜ会う場所が街の外れにある石橋なのだ。盟友ならば、街の中で人目を忍んで会うのが筋だろう。
部屋に戻ると、ボルグはアリサに言った。
「……罠だ。そのグランとやらが本物だとしても、既に敵の手に落ちている可能性が高い」
「……そんな」
アリサは絶句した。
「ですが、父の長年の友なのですよ」
「だからどうした。人は裏切る。信じるに値しない」
ボルグの言葉は冷たかった。だが、その瞳にはアリサを気遣う色が、わずかに浮かんでいた。
次の日、二人は石橋へと向かった。
ボルグはアリサに言った。「もし俺が合図をしたら、何も聞かずに街へ走れ。そして、衛兵に駆け込め。いいな」
石橋の中央。
そこに一人の騎士が、静かに立っていた。
その男が纏う白銀の鎧は、ボルグの記憶にあるどの追手のものよりも上質で、そして夕日を浴びて不吉な輝きを放っていた。
アリサの顔から、血の気が引いた。
そこにいたのは、父の盟友グラン卿ではなかったからだ。
「……やはり黒幕はあんただったか、テオドール卿」
テオドールは、ゆっくりとボルグに向き直った。
「貴様らがまんまと罠にかかると、信じていたよ、傭兵」
「アリサ! 行け!」
ボルグの絶叫と同時に、アリサは街へと駆け出した。
テオドールは、それを止めようとはしない。
「感傷か、傭兵。貴様らしくもない。あの小娘一人逃したところで、何も変わらん」
「かもな。だが、これだけは言っておく。俺は金のために戦っているわけじゃない」
ボルグは、ゆっくりと剣を構えた。
戦いが始まった。
石橋の上で、剣と剣が激しく火花を散らす。
テオドールの剣技は、王宮騎士団の中でも随一と言われた、正統にして無慈悲なもの。
ボルグは、防戦一方に追い込まれていく。
「どうした、傭兵。その程度か。お前の仲間たちも、その程度の腕だったから、あっけなく死んでいったのだろうな」
「……黙れ」
「特に、あのマルコとかいう男。実に見事な死に様だったぞ。『酒場を開くんだ』などと夢物語を叫びながら、矢の一本で絶命した。……滑稽なものだ」
その言葉が、ボルグの心の最後の箍を外した。
「うおおおおおおおおっ!」
ボルグは理性を捨て、ただ獣のように猛然と斬りかかった。
だが、その怒りに任せた大振りの一撃は、テオドールにやすやすと見切られた。
キン、と甲高い音が響く。
ボルグの手から長剣が弾き飛ばされ、夜空に舞った。
がら空きになった胴体。
テオドールの冷たい切っ先が、ボルグの喉元へと吸い込まれるように迫る。
もはやこれまでか。
ボルグの脳裏に、死がよぎった。
だが、その瞬間、彼の心に声が響いた。
『あんたの剣が、守るべきものを、見つけられるといいな』
門番の、あの静かな声。
(……ああ、見つけたさ。守るべきものなんざ。とっくの昔にな)
ボルグの右手が、腰の鞘へと吸い寄せられるように動いた。
奇跡が起きた。
鞘に収まっていた短剣が、ありえないほど滑らかに、その姿を現したのだ。
偉大な光が差したわけではない。だが、使い古された革の鞘が、まるで水のようにその刃を解き放った。
そこには何の抵抗も摩擦もなかった。
ただ完璧な、ありえないほどの円滑さがあるだけだった。
ほんの一瞬。常人には認識すらできない時の狭間。
その一瞬が、二人の運命を分けた。
テオドールの剣が、ボルグの肩を深く貫く。
だが、それと全く同時に。
ボルグの短剣は、テオドールの鎧の隙間を、正確に貫いていた。
テオドールは信じられないという顔で自らの胸を見つめ、そしてゆっくりと、その場に崩れ落ちた。




