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『傭兵ボルグと錆びついた旗』 - 3

 後に残されたのは血の匂いと荒い息遣いだけだった。


 ボルグは傷口を押さえながらゆっくりとアリサを振り返った。

 その瞳にはもはや冷たい光はなかった。

 ただどうしようもない現実を突きつけられた男の、深い、深い疲労とそして諦めだけが浮かんでいた。


 アリサはまだ震えが止まらない手で革鞄を胸に抱きしめたまま、その場に立ち尽くしていた。

 やがて彼女は意を決したようにボルグの元へと、おそるおそる歩み寄った。


「あの……手当てをさせてください」


 彼女の手には小さな薬箱が握られている。


「……必要ない」


 ボルグは吐き捨てるように言った。

「この程度の傷、唾でもつけておけば治る」


「ですが、あなたは私を庇って……」


「勘違いするな」


 ボルグはアリサの言葉を冷たく遮った。

「俺はあんたを守ったんじゃない。俺は俺の契約を守っただけだ。あんたが無事に目的地に着きさえすればそれでいい。途中で俺がどうなろうと関係ない」


 それは彼の本心だった。そして本心ではないと、彼自身が一番よく分かっていた。

 アリサはそれでも引き下がらなかった。彼女はボルグの前に静かに膝をついた。


「それでもです。あなたが私にとっての命の恩人であることに、変わりはありません。……どうか手当てをさせてください。これも私の責任ですから」


 その真っ直ぐな瞳。

 ボルグは舌打ちを一つすると壁に寄りかかったまま、黙って顔をそむけた。


 アリサは慣れない手つきでしかし丁寧に、ボルグの脇腹の傷を洗い清め、薬草を塗り包帯を巻いていった。

 その間二人の間に言葉はなかった。

 ただ焚火がぱちぱちとはぜる音だけが、気まずい沈黙を埋めていた。


 手当てが終わりアリサが安堵のため息をついた、その時だった。


「……なぜ今なんだ」


 ボルグがぽつりと呟いた。


「……え?」


「なぜ今更なんだと聞いている。十年だ。あいつらが犬死にしてからもう十年が経つ。その間誰も何もしなかった。それなのになぜ今になって、名誉の回復だなどと馬鹿なことを言い出す」


 その声には怒りよりも深い、やり場のない悲しみが滲んでいた。


「……父もずっと悔やんでおりました」

 アリサは静かに言った。

「ですが父には力がなかった。裏切りを主導した者たちの権力はあまりに大きすぎたのです。父は全てを失い、ただ時が過ぎるのを待つことしかできなかった」


「……」


「父が死の間際に言っていました。『本当の正義とはただ信じ続けることだ』と。たとえ今は闇の中にいても、いつか必ず光が差す日が来ると信じ続けることだと」


「……くだらん」

 ボルグは吐き捨てた。

「そのくだらんお題目のせいで俺の仲間は死んだんだ。光だと? そんなものはありはしない。あるのは力と金と裏切りだけだ。それがこの世界の真実だ」


 ボルグは立ち上がろうとした。だが傷の痛みに顔をしかめ、再びその場に座り込んだ。

 アリサはそんな彼をただ静かに見つめていた。


「……ええ、そうかもしれません。ですが私は信じたいのです。父が信じたものを。そして『白銀のグリフォン』の方々が命を懸けて守ろうとしたものを」


 その声は震えていたが、決して折れてはいなかった。


 ボルグは何も言い返せなかった。

 彼はただ黙って燃え盛る焚火の炎を見つめていた。

 その炎の中に、かつての仲間たちの笑い顔が浮かんで消えたような気がした。

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