『薬師リーナと月光草』 - 3
薬師の少女リーナが北へ旅立ってから、季節は一つ巡っていた。森羅万象が凍てつく冬が過ぎ、再び大地に命が芽吹く春。東門の前の道にも、雪解け水に濡れた土の匂いが満ちていた。
ヨハンは、あの日見送った少女のことを、時折思い出していた。無事に『迷いの森』を抜けられただろうか。目的の『月光草』は手に入っただろうか。そして何より、彼女の妹の命は――。
だが、彼にできることは何もない。ただ、門に立ち、祈ることだけだ。それが【見送る者】としての彼の全てだった。
その日の昼下がり、見慣れた街道の向こうから、一人の旅人が歩いてくるのが見えた。
最初は、それが誰なのか分からなかった。春の陽光を浴びて、その足取りは驚くほどしっかりとしている。纏う空気には、冬を越えた若木のような、静かな力強さが宿っていた。
旅人が門に近づくにつれて、ヨハンはようやく、その顔に見覚えがあることに気づいた。
「……お嬢ちゃんか」
それは、リーナだった。
旅立つ前の、か細く、どこか儚げな面影はもうない。頬は少しだけ日に焼け、厳しい旅を物語ってはいたが、その瞳は自信に満ち、穏やかな光をたたえていた。彼女はヨハンの前で立ち止まると、あの頃とは比べ物にならないほど、落ち着いた声で言った。
「ただいま、戻りました。門番さん」
「……おかえり。大したもんだ。その顔を見れば、旅がどうだったかは聞くまでもないな」
ヨハンがそう言うと、リーナははにかむように微笑んだ。その笑みは、彼女がこの旅で得たものが、ただの薬草だけではなかったことを雄弁に物語っていた。彼女は深く、深く頭を下げる。
「ありがとうございました。あなたに見送っていただけて、幸運でした。あの言葉が、ずっとお守りでしたから」
彼女はそれ以上、旅の出来事を語らなかった。グリフォンのことも、陽炎蜻蛉のことも。だが、それで十分だった。ヨハンには、彼女が成し遂げたことの大きさが、痛いほど伝わってきた。
「達者でな。妹さんによろしく」
「はい。……いってまいります」
リーナは、今度は王都の中へと、確かな足取りで歩いていく。その背中はもう、何にも揺らぐことはないだろう。
彼女の姿が雑踏に消えた後、ヨハンの脳裏に、懐かしいあの声が静かに響いた。
《ピーン!スキル【見送る者】のレベルが12に上がりました》
《新たな能力『見送った者の煎じた薬草の効能が、ほんの少しだけ長持ちするようになる』を獲得しました》
また一つ、地味で、誰にも気づかれないような、ささやかな奇跡。
だが、ヨハンはその意味を確かに感じていた。彼の祈りは、リーナを通して、その先にいるであろう病の妹にまで、届いたのだ。
ヨハンは、春の空を見上げた。
空はどこまでも青く、彼が見送るべき旅路は、まだまだ果てしなく続いていた。
最初の旅人は、優しい薬師のリーナ。妹を想う、ひたむきで、切実な旅。こういう、静かだけど、強い心を持った子の話から始めたかったんだ。世界は、いつも優しいわけじゃない。理不尽で、過酷だ。でも、こういう優しさがどこかにあるって信じたい。