『傭兵ボルグと錆びついた旗』 - 2
ボルグの旅はいつものように、無駄口一つない乾いたものだった。
彼は護衛対象である貴族の娘アリサとは必要最低限の言葉しか交わさない。夜営の準備も食事も見張りも、全てを一人で機械のようにこなしていく。
アリサが何かを話しかけようとしても、彼は「無駄口は死を招く」と冷たく一蹴するだけだった。
彼女の瞳に浮かぶ世間知らずな好奇心や純粋な善意。その全てがボルグにとっては、かつて自分を裏切った愚かで信じるに値しないものの象徴に見えた。
旅に出て、五日目の夜。
焚火の光が二人の間に、気まずい沈黙の壁を作っていた。
ボルグは愛用の長剣を手入れしていた。それは彼が『白銀のグリフォン』にいた頃から、唯一共に生き残った「相棒」だった。布で血糊と泥を丁寧に拭い、砥石で刃の滑りを確かめる。その動きはもはや儀式に近かった。
剣の柄に刻まれた翼を持つグリフォンの紋章。彼はその紋章をアリサの視界から無意識のうちに隠していた。
その時だった。
「その剣の柄にある紋章……」
アリサがおそるおそるといった様子で声をかけてきた。
「……『白銀のグリフォン』のもの、ですよね?」
ボルグの動きがぴたりと止まった。
空気が一瞬で凍りつく。彼はゆっくりと顔を上げ、初めてアリサの顔を真正面から見た。その瞳はもはや冷めているというレベルではない。殺意にも似た危険な光を宿していた。
「……なぜ、その名を、知っている」
絞り出すような地を這う声。アリサはその気迫に怯えながらも、震える声で答えた。
「私の父が……かつて、彼らの数少ない理解者でしたから。父は、エルリック伯爵と申しました」
「……エルリックだと?」
ボルグの眉が、わずかに動いた。その名は、記憶の片隅にあった。傭兵団を、他の貴族とは違う、対等な人間として扱ってくれた、数少ない男の名だ。
「……貴族が、傭兵の味方だと? 笑わせるな。奴らは、俺たちを、便利な駒としか見ていない」
「父は、違いました!」
アリサは、声を強めた。
「だから……だから父は、全てを失ったのです! あの裏切りに最後まで反対したことで、官位も、領地も、全てを取り上げられ……失意のうちに、亡くなりました」
ボルグは、言葉を失った。
「……それが、この旅と、何の関係がある」
「この旅は……」
アリサは、意を決したように、ボルグの瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。
「『白銀のグリフォン』の、本当の名誉を、取り戻すための旅です」
彼女は、胸に抱えた革鞄を、強く握りしめた。
「父が、死の間際に、私に託しました。あの戦いの裏で、誰が、どのように、貴方たちを裏切ったのか。その、動かぬ証拠が、この中に……。これを、辺境にいる父の盟友に届ければ、きっと……!」
ボルグは言葉を失った。
頭の中で何かが砕け散る音がした。
これはなんだ。何の冗談だ。俺が人生を懸けて捨て去ったはずの、あの忌まわしい過去。その亡霊が今目の前に立っている。
脳裏にあの日の光景が蘇る。理想を語り合っていた陽気な仲間マルコ。いつも背中を預けていた無口な斧使いのゴードン。彼らの血にまみれた最後の顔。
「……馬鹿なことを」
ボルグは呻くように言った。
「やめろ。今すぐやめろ。お前がやろうとしていることは無駄だ。正義だの名誉だの、そんなものはクソの役にも立たん。俺の仲間たちがそうだったように」
彼は立ち上がるとアリサに背を向けた。
「契約はここまでだ。俺は帰る。お前もさっさと屋敷に帰れ。これ以上関わるのはごめんだ」
だがアリサは首を横に振った。
「いいえ。私は行きます。たとえ一人になっても」
その瞳には恐怖を乗り越えた強い意志の光が宿っていた。
その瞬間だった。
闇の中から数本の矢が音もなく二人を襲った。
「ちっ……!」
ボルグは舌打ちを一つすると条件反射でアリサの前に立ち、剣で矢を弾き返した。
茂みの中から黒装束の男たちが五人、静かに姿を現す。追手の暗殺者だ。
ボルグの心は冷え切っていた。
(……見ろ。これが現実だ。正義だの名誉だの、そんなものを追い求めた結果がこれだ)
彼はアリサを庇うように立ちながらも、その心は既にこの場から逃げる算段を立てていた。
だが。
背後でアリサが証拠の入った革鞄を震えながらも、必死に胸に抱きしめているのが視界の端に映った。
その姿があの日の仲間たちの姿と重なった。
自分たちの信じるもののために最後まで決して諦めなかった、あの愚かでそして誰よりも誇り高かった仲間たちの姿と。
「……ああ、クソッたれが」
ボルグは短く悪態をついた。
そして彼は暗殺者たちに向かって獣のようにその身を躍らせた。
もはやそこに打算も契約もなかった。
ただこれ以上目の前で信じるもののために誰かが死ぬのを、見過ごすことへの耐え難い拒絶があった。
戦いは一瞬だった。
彼の剣は怒りとそして悲しみを纏い闇を切り裂く。
暗殺者の一人の刃が彼の脇腹を浅く裂いたが、彼は構うことなく最後の一人の喉を貫いていた。
後に残されたのは血の匂いと荒い息遣いだけ。
ボルグは傷口を押さえながらゆっくりとアリサを振り返った。
その瞳にはもはや冷たい光はなかった。
ただどうしようもない現実を突きつけられた男の、深い、深い疲労とそして諦めだけが浮かんでいた。




