『踊り子ミラと一番星のステップ』 - 4
村の収穫祭の日が来た。
広場には簡素な舞台が組まれ、村人たちが持ち寄った料理と酒の匂いが、陽気な喧騒に混じり合っている。ミラは、その輪から少しだけ離れた、納屋の暗い影の中から、ただ、その光景を眺めていた。
(……だめだ)
心臓が、嫌な音を立てて脈打っている。
あの舞台の上にある光と音は、彼女が三年間、必死に目を背けてきた、失われた世界の全てだった。
眩しすぎて、直視できない。
やがて、テオが舞台へと上がった。祭りのために少しだけ良い服を着せてもらった少年は、緊張で顔を真っ赤にしている。彼は一度、大きく深呼吸すると、ぎこちなく木笛を口に当てた。その視線は、客席の片隅に座るリボンをつけた少女に、一瞬だけ注がれる。
村の広場に、あの旋律が流れ始めた。
それはまだ拙く、時々音を外しもする。だが、その一音一音に彼の真剣な想いが確かに込められていた。
ミラは、その音色を聴きながら目を閉じた。
蘇るのは、兄リオの記憶。
舞台袖で、出番前に二人で笑い合ったこと。
演奏が終わった後、観客の拍手の中で、ハイタッチを交わしたこと。
新しい歌ができたと、子供のようにはしゃいで彼女に聴かせてくれたこと。
悲しみも、喜びも、全てがかけがえのない、二人だけの大切な時間。
兄はいつだって、この歌が誰かの心を温めることを何より願っていた。
(……兄さん……)
その時だった。
曲の一番盛り上がる部分。テオの笛の音が、緊張の糸が切れたように裏返り、そして、ぷつりと途切れた。
広場のざわめきがぴたりと止み、気まずい沈黙が流れる。
舞台の上で、テオは凍りついたように立ち尽くし、リボンの少女は心配そうに彼を見つめている。少年はパニックになったように必死に息を吹き込むが、か細い音が漏れるだけだった。
(……行けない)
ミラは、後ずさりそうになる自分を必死で押しとどめた。
私には、もう、あの場所へは。
あの光の中へは、戻れない。
腕に抱えた、兄のリュート。
その冷たい木肌が、彼女の絶望を肯定しているようだった。
その時。
彼女の心の奥底で、懐かしい声が、温かく響いた気がした。
『大丈夫』
(兄さん?)
いつだって、舞台袖で震える私の背中を押してくれた、あの声。
『リュートを手に取れ、ミラ。大丈夫、だっていつだってお前は――』
『俺の、一番星なんだから』
暖かな風がミラの心に吹き抜けた気がした。
迷いの消えたミラの指が、自然と弦を弾く。
ポロロン、と。
少しだけ錆びついた、だが、どこまでも優しく、そして力強い音色が、広場に響き渡った。
それは、テオの笛の主旋律を支える、美しい和音だった。
舞台の上で、テオが驚いてミラを見た。
ミラは、影の中からただ静かに頷き返す。大丈夫、私がついている、と。
テオの目に、再び光が宿った。彼は、ミラのリュートの音色に導かれるように、再び笛を奏で始めた。
今度の演奏は、完璧だった。
少年の懸命でひたむきな笛の音と、ミラの悲しみを乗り越えた、深く温かいリュートの音色。
二つの音は一つに溶け合い、収穫祭の夜空へと、どこまでも、響き渡っていった。
演奏が終わった時、広場は一瞬の静寂の後、これまでで一番の割れんばかりの拍手に包まれた。
ミラは舞台の上のテオと、彼に満面の笑みを向けるリボンの少女の姿を、ただ静かに見つめていた。
(兄さん、私、やったよ。前に進めたよ)
彼女の指先にはまだリュートの弦の確かな感触が、懐かしい熱を持って残っていた。




