『踊り子ミラと一番星のステップ』 - 3
ミラは、咄嗟に断ろうとした。
無理だ、と。
この歌は教えられない。これは兄と私、二人だけの歌だから。兄のいない世界でこの歌に触れることは、抉られた傷口に塩を塗り込むのと同じことだ。彼女は、テオの期待に満ちた瞳から、思わず目をそらした。
だが、少年は諦めなかった。
「お願いだ! 俺、本当にこの歌が好きなんだ! どうしても、あの子にきれいな音を聴かせてやりたいんだよ!」
その言葉に嘘はなかった。ただ純粋な、誰かを想う気持ち。
ミラはその時、思い出していた。かつて兄のリオが、同じようなことを言っていたのを。
『この歌は、お前のための歌だ。お前が世界で一番きれいに踊れるように。ただそれだけを願って作ったんだ』
兄もこの少年も同じだ。ただ誰かのために、音楽を奏でたい。そのあまりにも純粋な願い。
それを今の自分が踏みにじっていいのだろうか。
ミラは腕に抱えたリュートに視線を落とした。兄の形見。三年間、ただの重荷でしかなかった、呪いの楽器。
その楽器が、今、目の前の少年にとっては、希望の光に見えている。
長い、長い沈黙の後。
彼女はようやく、掠れた、自分でも驚くほどか細い声で言った。
「……メロディだけ、なら。歌は歌えない。……踊りももう、踊れないから」
それが彼女にできる、精一杯の譲歩だった。
少年は、顔をぱあっと輝かせた。
「本当か!? ありがとう、お姉さん!」
その日から、雨の匂いが残る納屋の隅で、二人の奇妙な音楽の稽古が始まった。
ミラは、三年ぶりにリュートの弦に指を置いた。床を磨き、皿を洗うことしかしてこなかった指先は、固く、かつての滑らかさを失っている。だが、本当の戦いは、彼女の心の中で起きていた。
ポロン、と一つの音を弾く。
その瞬間、脳裏に兄の歌声が嵐のように蘇る。楽しかった舞台の記憶。喝采と熱気。
『ミラ、お前は俺の一番星だ』
かつて、舞台の袖で兄はよくそう言って笑っていた。
『どんなに暗い夜道でも、お前の踊りがあれば、俺は道に迷わずに済む』
それなのに、その一番星は、今、輝く術を失ってしまった。
「うっ……!」
ミラは息が詰まり、何度も演奏を中断した。そのたびに胸が張り裂けそうになった。
ミラは息が詰まり、何度も演奏を中断した。そのたびに胸が張り裂けそうになり、リュートを投げ出して、この場から逃げ出したくなった。
だが、テオはそんな彼女を、ただ辛抱強く、じっと待っていた。彼が吹く拙い笛の音が、何度も何度も、彼女を音楽の世界へと引き戻そうとする。彼は、ミラの深い悲しみに気づいているわけではない。ただ、この気難しくて不思議な「お姉さん」が、自分に大切な歌を教えてくれようとしている。その事実だけを、子供らしい素直さで信じていた。
一日、また一日と稽古を重ねるうちに、ミラの指は少しずつ、かつての滑らかさを取り戻していった。
そして彼女の心もまた、その音色に、少しずつ、慣れていった。悲しい記憶は消えない。だが、テオの真剣な眼差しと、彼が吹く不器用な笛の音が、悲しみの記憶の上に、新しい、穏やかな時間を上塗りしていくようだった。
祭りの前日。テオの笛は、見違えるほど上達していた。
稽古の終わり、テオは言った。
「お姉さん、やっぱりすごいよ。リュート、すごく上手だ。本当は、すごい踊り子だったんでしょ」
その悪意のない、純粋な賞賛の言葉が、ミラの心の、凍てついていた部分を、少しだけ溶かした。
彼女は、三年間、忘れていた感情を、ほんの少しだけ思い出した。それは、誰かに自分の音楽を認められる、小さな誇りだった。
そして、村の収穫祭の日が来た。
広場からは、村人たちの陽気な笑い声と、楽しげな音楽が、納屋まで聞こえてくる。
その音を聞いた瞬間、ミラの足は、再び、動かなくなった。
テオとの稽古は、この静かな納屋の中だから、できたことだ。あの光の中へ、喧騒の中へ、音楽が溢れる場所へ、今の自分が出ていっていいはずがない。
恐ろしかった。あの舞台の上の熱狂も、人々の視線も、全てが、失った過去を突きつけてくる刃のように思えた。
「お姉さん、行こう! もうすぐ、俺の番だ!」
祭りのために少しだけ良い服を着たテオが、緊張と興奮で顔を紅潮させながら、彼女の手を引こうとする。
ミラの足は、まるで地面に根を張ったかのように、その場から動かなかった。光の中へ、音の中へ踏み出すことは、彼女にとって、自ら過去の傷口を広げにいくことと同じだった。




