『薬師リーナと月光草』 - 2
王都の東門を後にしてから、七日が過ぎた。
リーナの旅は、決して楽なものではなかった。夜は洞穴で火を焚き、硬いパンをかじりながら薬草書を読む。昼は険しい山道を踏みしめ、ひたすらに北を目指す。
その日、彼女は森の中で、三人の男たちに囲まれた。その淀んだ目が、品定めをするように、彼女の全身を舐める。追い剥ぎだ。
「金目のものを、全部置いていけ」
リーナは、震える手で、なけなしの銅貨が入った小さな革袋を差し出した。だが、男の一人は、それを叩き落とすと、卑しい笑みを浮かべた。
「金がねえなら、それでいいさ。お前自身に、十分な価値がある」
絶望的な状況。だが、リーナの瞳の奥の光は、消えていなかった。彼女は、薬師として旅をするにあたり、師から一つの教えを受けていた。「薬は、人を救うもの。だが、時には、身を守るための牙ともなる」。
彼女は、懐に忍ばせていた小さな紙包みを、男たちが気づかぬうちに、そっと指にはさんだ。
「……やめてください」
「ああ?聞こえねえな!」
男が、彼女の腕を掴もうと手を伸ばした、その瞬間。リーナは、紙包みの中身――『鬼哭草』の粉末を、男の顔めがけて、強く吹きかけた。
「ぐ、あああああっ!目が、目がぁ!」
強烈な刺激を持つその粉末は、粘膜に付着すると、火で焼かれるような激痛を引き起こす。男たちが、顔を押さえてのたうち回っている隙に、リーナは、男達に背を向けて、森の奥へと駆け出した。一度も振り返らず、ただ、ひたすらに。
心臓が、張り裂けそうだった。どれだけ走ったか分からない。ようやく安全な岩陰に身を隠した時、彼女の身体は、恐怖で小刻みに震えていた。世界は、優しさだけで渡っていけるほど、甘くはない。彼女は、そのことを、骨身に染みて理解した。
それから数日後、旅の途中、熱病に苦しむ行商人の親子に出会った。父親は、リーナを見るなり、警戒心を露わにした。数日前の男たちと同じ、疑いの目だった。だが、高熱にうなされる子供の姿を見た時、リーナの心に迷いはなかった。
彼女は、父親の制止を振り切り、持っていた解熱効果のある薬草を煎じて飲ませ、一晩中つきっきりで看病した。翌朝、汗びっしょりになりながらも、父親は深々と頭を下げた。「あんたは命の恩人だ」。リーナは「薬師として、当然のことをしたまでです」とだけ答え、再び歩き出した。彼女の鞄から薬草が少し減り、代わりに、乾いたパンと塩漬けの肉が少しだけ増えていた。
そして、ついに彼女は目的の地の入り口にたどり着く。
『迷いの森』。
その名が示す通り、森は不気味な静けさと、方向感覚を狂わせる奇妙な気配に満ちていた。空を覆うほどに生い茂った木々は、昼なお暗い影を落とし、風の音すら聞こえない。まるで、森全体が息を潜めて、侵入者を試しているかのようだった。
リーナは一歩、また一歩と、慎重に足を進める。薬草書にあった通り、この森の植物は独自の生態系を築いている。苔の生え方、木の幹のねじれ方、それら全てが、旅人を惑わすための罠だ。彼女は、これまでに培った薬師としての知識を総動員し、僅かな目印を頼りに、森の奥へ奥へと進んでいった。
どれほどの時間が経っただろうか。太陽の位置も分からなくなった頃、不意に視界が開けた。
そこは、森の中心にある円形の広場だった。中央には、月光を溜めたように静かに輝く泉があり、そのほとりに、探していた『月光草』が青白い光を放って咲き誇っていた。
「……あった」
リーナの唇から、安堵のため息が漏れる。だが、彼女が駆け寄ろうとしたその時、泉の向こう側から、巨大な影がぬっと立ち上がった。
それは、鷲の上半身と翼、ライオンの下半身を持つ、伝説の獣『グリフォン』だった。その身体はところどころ苔むし、翼の先は欠けている。長い年月をこの森と共に生きてきた、森の主。
『何用だ、人の子よ』
古びた巨木が軋むような声が、リーナの心に直接響いた。彼女は恐怖に身をすくませながらも、妹を救いたい一心で、声を振り絞った。
「あの、月光草を……病の妹のために、どうか、少しだけ分けていただけないでしょうか」
グリフォンは、その黄金の瞳でじっとリーナを見つめた。その視線は、彼女の心の奥底まで見透かしているかのようだった。
『この草は、森の命そのもの。誰にでも渡せるものではない。……人の子よ、お前にこの草を得る資格があるか、試させてもらう』
リーナはごくりと唾をのんだ。力での戦いを挑まれれば、自分に勝ち目はない。だが、グリフォンが告げた試練は、彼女の予想とは全く異なるものだった。
『試練は一つ。この森で、最も短き命に、最も長き安らぎを与えてみせよ』
最も、短き命?
リーナは困惑した。グリフォンはそれだけを告げると、再び泉のほとりに身を横たえ、ぴくりとも動かなくなった。
リーナは広場に座り込み、必死に考えた。最も短い命とはなんだろう。怪我をした小動物か、それとも寿命の近い魔物か。しかし、彼女がいくら森を探しても、それらしき生き物は見つからない。
陽が傾き始め、焦りが募る。その時、彼女は泉のほとりの葉の上で、弱々しく羽を震わせる、小さな虫たちの姿に気づいた。
それは『陽炎蜻蛉』と呼ばれる、この森にしか生息しない儚い命。夜明けと共に生まれ、陽が沈むと共にその命を終えるという、一日だけの命。
泉の水面では、他の陽炎蜻蛉たちが、命の限りを尽くすように、懸命に繁殖の相手を探して飛び回っている。
リーナは、その中の一匹に、じっと目を凝らした。
その陽炎蜻蛉は、もう、飛ぶ力も残っていないようだった。葉の上で、ただ、微かに羽を震わせているだけ。その腹部は、他の個体と比べて、僅かに萎んでいる。
―――この子は、もう、卵を産み終えたんだ。
薬師としての観察眼が、彼女にそう告げていた。この子の、一日の役目は、もう終わったのだ。後は、静かに、生の終わりを待つだけ。
その姿に、病床で、ただ息をすることだけを懸命に続けている妹の姿が、不意に重なった。
リーナは、答えを見つけた。
安らぎとは、時間の長さではない。その質だ。
彼女は鞄から、数種類の乾燥させた薬草を取り出し、乳鉢で丁寧にすり潰し始めた。鎮静効果のあるもの、心を穏やかにする香りのもの、そして、安らかな眠りを誘うもの。彼女はそれらを調合し、小さな香炉で静かに焚いた。
ふわり、と優しく、穏やかな香りが広がる。
葉の上の陽炎蜻蛉は、その香りに誘われるように、最後の力を振り絞って、リーナの手元に舞い降りた。
陽炎蜻蛉はリーナを覗き込むように首を傾け――
そして、まるで安心して身を委ねるように、その場で静かに動きを止め、眠りについた。
一日だけの命が、苦しむことなく、その生の最期を、穏やかな眠りの中で迎えた。
いつの間にか、背後に立っていたグリフォンが、静かに言った。
『愚かな人間だ。なぜそのような矮小な存在を選ぶ?』
リーナは恐怖に身をすくませた。 しかし、意を決したように答える。
「この子が、可哀そうに震えている気がしたから」
『可哀そう? それが理由で、価値のない陽炎蜻蛉の命を救ったと?』
そうだろうか? リーナは自問自答する。陽炎蜻蛉の姿と重なった妹の姿。それはどちらも儚く、そして守るべき存在だった。
「すべての命に価値はあります。それが陽炎蜻蛉であっても。そして、私の妹であっても。大切な命なんです」
グリフォンがじっとリーナを見つめた。匂いにひかれた陽炎蜻蛉が次々と香炉の周りに舞い落ちる中、永遠に続くと思われた時間は、ふと、グリフォンの視線がやわらいだことで唐突に終わった。
『……見事だ、人の子よ。お前は命の価値を知っている。月光草を持っていくがよい』
リーナは、感謝の言葉と共に月光草を数本摘み取ると、再び長い帰路についた。彼女の心は、来た時とは比べ物にならないほど、確かな温もりと自信に満ち溢れていた。