公女セレスティーナと道化の知恵 - 4
翌日。フィンはセレスティーナの手に、一枚の銅貨を握らせた。
「今日の課題だ。その銅貨一枚で、俺とあんた、二人分の腹を満たしてみせろ」
セレスティーナは、自分の手のひらに乗る、あまりにも小さな価値を見つめて、呆然とした。
「たった、一枚で……? そんなこと、無理ですわ。昨日のパンですら、銅貨が二枚は……」
「無理かどうかは、お前さんのその綺麗な頭と、飾りじゃない足で考えな」
フィンはにべもなく言った。
「俺はここで待ってる。日没がタイムリミットだ。腹を空かせたくなけりゃ、せいぜい頑張ることだな、お姫様」
銅貨一枚。それで二人分の食事。
無茶な課題だった。セレスティーナはまず、パン屋へと向かった。
「あの、この黒パンを一つ……」
「あいよ。銅貨二枚だ」
店主は無愛想に言った。
「一枚では……だめでしょうか……。半分でも構いませんので」
「冗談だろ、嬢ちゃん。うちは慈善事業じゃねえんだ。とっとと行きな」
肉屋でも、果物屋でも、彼女は鼻で笑われるだけだった。銅貨一枚の価値。それは、誰の目にも留まらないほど、小さなものだった。
夕暮れ時、彼女は一つのパンすら買えぬまま、フィンの元へと戻った。
「……無理でした。銅貨一枚では、誰も相手にしてくれませんでした」
うなだれる彼女に、フィンは深いため息をついた。
「だろうな。頭の硬いお姫様には、ちと難しすぎたか。……ほら、貸してみな。手本を見せてやる」
フィンは彼女から銅貨を受け取ると、市場の片付けが始まった魚屋へと向かった。店主は、売れ残った魚を箱にしまい、汚れた店先を前にうんざりした顔をしている。
「よう旦那。今日も一日、ご苦労さん。疲れてるみてえだな」
「おう、お前さんか。見ての通り、くたくただ。これからこの店先を洗わなきゃならんと思うと、気が滅入るぜ」
「だろ? よし、俺が代わりにやってやる。どうせ暇でな。駄賃は、そこの銅貨一枚でどうだ?」
魚屋の主人は、いぶかしげにフィンを見たが、その申し出を断らなかった。
「なんだってんだ。……まあ、ちょうど腰が痛えところだ。いいぜ、頼む」
フィンは手際よく店先を洗い流す。しばらくすると、魚の生臭い匂いは消え、清潔な石畳が姿を現した。
「おう、助かった! 見違えたぜ。ほらよ、約束の銅貨だ」
店主は気持ちよく銅貨を渡すと、足元の木箱を指さした。
「そこのアラは、もう捨てるだけだから、良かったら持っていきな」
「そいつはありがてえ。じゃあな、旦那」
橋の下に戻ると、フィンは手慣れた様子で火をおこし、鍋で魚の粗を煮込み始めた。
「分かったか、お姫様」
できあがった潮汁をすすりながら、フィンが言った。
「あの魚屋にとって、俺の『労働力』は、面倒な掃除をせずに済むという、銅貨一枚以上の価値があった。だから、取引が成立する。そして、奴にとって価値のない『魚の粗』は、腹を空かせた俺たちにとっては、立派な『食事』になる。これが、この世界での生き方だ」
三日ぶりに温かい食事にありついたセレスティーナの身体に、その塩気と熱が、じんわりと染み渡っていく。彼女は、ただ黙って、その言葉の意味を噛みしめていた。
次の日。フィンは再びセレスティーナに銅貨を一枚渡した。
「さあ、昨日の復習だ。日没までに、戻ってこい」
セレスティーナは、今度は市場を駆け回らなかった。彼女は人々をじっと観察した。そして、重い小麦粉の袋を一人で運ぼうとして難儀している、あのパン屋の主人を見つけた。
彼女は主人に駆け寄り、声をかけた。
「あの、ご主人。そのお荷物、お一人で運ぶのは大変ではありませんか?」
「おお、嬢ちゃん。見ての通りだよ。ぎっくり腰になっちまいそうだ」
「もしよろしければ、私がお手伝いします」
セレスティーナは、か弱い身体で懸命に袋の片側を支え、主人と共に荷物を店の中へと運び込んだ。
「ありがとうよ、本当に助かった。ささやかだが、駄賃を受け取ってくれ」
主人が銅貨を数枚差し出す。だが、セレスティーナはそれを丁寧に押し返した。
「駄賃は、いただけません。ですが、一つだけお願いが……」
彼女は、フィンから渡された一枚の銅貨を、そっと差し出した。
「この銅貨で、お店の隅にある、昨日のかたくなったパンを、一つだけ売っていただけないでしょうか?」
パン屋の主人は、一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに彼女の意図を察し、人の良い笑顔を浮かべた。
「……ははっ、あんた、面白い嬢ちゃんだな。硬くなったパンならそこにあるから、好きなだけ持っていきな!」
その日の夕方。セレスティーナはフィンの元へ、自分の力で手に入れた、少し歪な形をしたパンを2つ、誇らしげに差し出した。
フィンは無言で1つのパンを受け取ると、初めて、ほんの少しだけ本物の笑みを浮かべた。
「……上出来だ。どうやら独りで野垂れ死ぬことはなさそうだな」
それは彼女がこの厳しい世界で、自分の足で立つための第一歩を踏み出した瞬間だった。




