公女セレスティーナと道化の知恵 - 3
フィンの地獄の教練は、市場の喧騒が見渡せる、汚い建物の屋根裏部屋から始まった。壊れた窓枠から、焼いた肉の匂い、香辛料の匂い、そして人々の汗の匂いが混じり合った、生々しい空気が流れ込んでくる。
「いいか、お姫様。今日の課題だ。一日中、ここからあの広場を眺めてろ」
フィンは窓枠にだらしなく肘をつきながら言った。
「眺める……とは、具体的に何をすればよろしいのですか?」
セレスティーナが尋ねると、フィンは「はっ」と鼻で笑った。
「学校じゃあるまいし、いちいちご丁寧なこった。人間を見ろ、と言ってるんだ。誰がカモで、誰が狼か。誰が腹を空かせてて、誰が満ち足りてるか。誰が嘘をついてて、誰が真実を話してるか。それを、お前さんのその綺麗な眼で、片っ端から見抜いてみろ」
それは、フィンが詐欺師として、生きるためにずっとやってきたことだった。
セレスティーナには最初、何が何だか分からなかった。誰もが同じ、ただの群衆にしか見えない。
「……分かりません。皆、同じように見えます」
「だろうな。じゃあ、練習問題だ。ほら、あそこのパン屋から出てきた女。なぜ、パンを二つしか買わなかった?」
セレスティーナは、目を凝らした。女は痩せており、その服には繕いの跡がある。
「それは……お金がなくて、二つしか買えなかったから、でしょうか?」
「不正解。金ならもっと持ってる。腰の袋を見ろ。まだ銅貨が数枚は入ってるはずだ」
「では……節約のため?」
「ほう、半分正解だ。だが、もっと本質を見極めるんだ。よく見ろ、女の腹は鳴ってる。だが、その顔は満足気だ。なぜだか分かるか?」
セレスティーナは、もう一度、女の表情を見た。確かに、痩せこけたその口元は、微かに綻んでいる。
「……自分の分を我慢してでも、誰かに食べさせたいから……? ……家族、でしょうか」
「よく出来ました。つまり、そういうことだ。ありゃ、子供が二人いる母親の顔だ。母親ってのは、そういう生き物なのさ。覚えとけ。人の行動には必ず理由がある。それも、大概は単純な理由だ」
フィンは次々と人を指さしては、セレスティーナに問いを投げかけた。
「じゃあ、あそこの羽振りの良さそうな商人。何に一番気を付けてる?」
「……商品、でしょうか。盗まれないように」
「甘いな。奴が気にしているのは、自分の懐じゃねえ。周囲からの『目』だ。見ろ、あの無駄に偉そうな歩き方。すれ違う奴らが自分をどう見てるか、そればっかり気にしてやがる。ああいう手合いは、虚栄心をくすぐってやれば、面白いように金を出す」
「しかし、おべっかを使ってお金を頂くようなことはちょっと……」
「甘ったれんな。明日食っていく力もないやつが、物事の良し悪しを語る資格はねえ。それに、ああいう手合いは、どうせ世間様に顔向けできねえ商売をしていやがるんだ。気にすることはねえ」
フィンはそう言った後、気まずそうに頭をポリポリとかいた。
「……ただ、まあ、お前のそういう考え方は、悪くはない。その気持ちは捨てるな。よし、次だ」
一日中、人間の生々しい営みを見せつけられ、セレスティーナの頭は混乱していた。宮殿での生活がいかに上辺だけを取り繕った、偽りの世界であったかを思い知らされる。
その日の終わり、フィンは言った。
「よし、第一の教えはここまでだ。どうだ、少しは物が見えるようになったか?」
「……まだ、よくは。ですが、皆、何かを背負って生きているのだということは、分かりました」
「上等だ。じゃあ、第二の教えだ。……いいかお姫様。今夜、俺が眠っている間に、俺の財布を盗んでみろ」
セレスティーナは、息をのんだ。
「盗む、ですって……? そ、そんなこと、私にできるはずが……!」
「できなきゃ、明日の朝飯は抜きだ。それだけのことさ」
フィンはそう言うと、汚い毛布にくるまり、すぐに寝息を立て始めた。
セレスティーナは葛藤した。教えられたばかりの観察眼で、フィンの無防備な寝姿をじっと見る。財布は彼の腰のベルトに無造作に結び付けられている。
だが彼女の手は動かなかった。人を騙し人から盗む。それは彼女が最も嫌悪してきたことだ。
夜が明け始めた頃、彼女は一つの答えにたどり着いた。
彼女はフィンの財布には手をかけなかった。その代わり彼の脱ぎ捨てられていた上着の破れた袖口を、自分の髪を留めていたリボンを解いて不格好ながらも丁寧に縫い合わせたのだ。
朝日が差し込みフィンが目を覚ました。彼は黙って自分の上着を手に取ると、修繕された袖口を一瞥した。
彼は何も言わなかったがその口元に、ほんのわずかに笑みが浮かんだのをセレスティーナは見逃さなかった。
「……本当に取っていたら減点だったんだがな。まあ及第点だ。……だが、いつか盗まれる側になるかもしれねえことは忘れんな」
フィンはそう言うと立ち上がった。
「行くぞ。第二の教えだ」




