『騎士ギデオンと守るべき誓い』 - 3
廃屋に残された骸に夜の獣が群がる前に、ギデオンは子供の手を引いて再び闇の中へと踏み出した。夜明けはまだ遠い。冷たい風が、乾いた血の匂いを運んで彼の鼻腔をかすめた。
ギデオンは進むべき方角を慎重に見定めていた。追手はただの暗殺者ではない。その連携、包囲の仕方、そして何より、ギデオンの最短経路を的確に塞いでくる手際は、戦場を知り尽くした指揮官の存在を色濃く匂わせていた。平坦な街道は、今や死への一本道だ。
残された道は、険しい山を越える獣道のみ。
数日後、彼らは人の踏み入らぬ深い森の中にいた。苔むした岩肌を伝い、ぬかるんだ斜面を滑り落ちないよう、一歩一歩、足場を確かめながら進む。ギデオンの鋼の鎧は泥に汚れ、その重量が疲労した身体に容赦なくのしかかっていた。
背後からついてくる子供の息遣いが、ひどくか細くなっていることに彼は気づいていた。
「……少し、休むか」
ギデオンが立ち止まり声をかけると、子供はこくりと頷いた。だが、その場に座り込む力も残っていないようだった。ギデオンは無言で子供を背負うと、再び歩き始めた。背中に伝わる小さな温もりと、驚くほどの軽さが、彼の胸を締め付ける。五年前、彼が守れなかった王女も、これほどに軽く、儚い存在だった。
その夜、岩陰で小さな焚火を囲んでいた時だった。
残りわずかとなった堅パンを分け合い、黙々と口に運ぶ。沈黙を破ったのは、子供の方だった。
「……おじさん、痛いの?」
子供の小さな指が、ギデオンの鎧の隙間から覗く、血の滲んだ包帯を恐る恐る指し示した。廃屋での戦いで負った傷が、行軍の無理で再び開いたのだ。
「……問題ない」
ギデオンは短く答えた。だが、子供は心配そうな瞳で彼を見つめ続けている。そして、おずおずと、自分が食べるはずだった残りのパンを、ギデオンの前に差し出した。
「これ……食べる?」
その光景に、ギデオンは息をのんだ。数日前、同じように差し出されたパン。あの時は、まだこの子供を、ただの「任務の対象」としてしか見ていなかった。だが、今は違う。この小さな手が差し出すものに、どれほどの価値があるか、彼は知っていた。それは、この過酷な旅路における、なけなしの生命線そのものだ。
ギデオンは、子供の手を押し返した。
「お前が、食え。……子供は、食うのが仕事だ」
初めて聞く、命令ではない、どこか不器用な優しさを含んだ声。子供は驚いたように目を丸くしたが、やがて、こくりと頷いて、パンを小さな口でゆっくりと食べ始めた。
「食べるのが仕事なら、おじさんは仕事してないんだね」
「……大人は食べないのが仕事だ」
「何それ、変なの」
子供がくすくすと笑いながら言った。
その屈託のないすがたに、ギデオンは己の心の壁が、また一つ、音もなく崩れていくのを感じていた。
その時だった。
遠くの山の尾根に、ゆらりと、一つの灯りが見えた。
一つ、二つ、三つ……。
それは瞬く間に数を増やし、彼らのいる谷を囲むように、巨大な円を描いていく。松明の灯りだ。
ギデオンの全身に、緊張が走った。
この距離、この高低差。ここまで正確に、そして静かに包囲網を完成させるなど、常軌を逸している。
「……来たか」
彼の口から、乾いた声が漏れる。
もはや、逃げ場はない。この包囲網を突破できる道は一つだけ。あの、松明の輪がまだ完成していない、吹きさらしの峠の頂上のみ。
ギデオンは、食べ終えた子供の口元を無言で拭うと、静かに立ち上がらせた。
「行くぞ。……少し、急ぐ」
子供は、何が起きたのか分からぬまま、しかし、ギデオンの纏う空気が一変したのを敏感に感じ取り、黙って彼の手を握った。
二人は、最後の逃げ道である、風の吹き荒れる峠の頂上を目指し、再び闇の中を駆け出す。
これが最善手であるはずだ。ギデオンはそう自分に言い聞かせるものの、直感的に感じざるを得なかった。
逃れがたい、死の気配を。




