『老学者アルバスと忘れられた言葉』 - 3
少女が口ずさむ、素朴で、どこか懐かしい旋律。それは、壮大な叙事詩でも、難解な呪文でもなかった。ただ、母が子をあやすための、優しい子守唄。
アルバスは、震える手で羊皮紙の写しを広げた。そこに記された、何十年も彼を惹きつけてやまなかった謎の一行。少女の歌う言葉と、羊皮紙の上の文字が、彼の頭の中で、ぴたりと一つに重なった。
『黒き陽が昇る時、祈りが理に至りて、揺り籠を越える』
それだけだった。
あまりにも簡素で、しかし、あまりにも深遠な言葉。それは、魔王の出現を予言し、その対抗策が存在することを示唆していた。
アルバスは、全てを理解した。
そして、同時に、自分の旅がここで終わりを迎えたことも悟った。彼は、この子守唄に秘められた意味と、この村の歴史、そして失われゆく言葉の全てを、後世のために書き記さねばならない。それが、神が自分に与えた、最後の天命なのだと。
彼は、この村に留まることを決めた。
村人たちも、今や彼を仲間として受け入れていた。アルバスは、子供たちに外の世界の物語を教え、村人たちからは、彼らの生活の知恵を学んだ。彼の顔から、王都にいた頃の焦燥感は消え、穏やかな笑みが浮かぶようになっていた。
春になり、谷を行商人が訪れた時、アルバスは二通の手紙を託した。一通は、王宮書庫へ。予言の解読結果を記した、彼の研究の集大成。
そして、もう一通は。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その年の夏、一人の商人が、東門に立つヨハンの元へ、一通の古びた手紙を届けた。
「南西の山奥にある、地図にも載ってない村の年寄りから、あんたにって頼まれちまってね」
ヨハンは、その手紙の差出人に、すぐに思い当たった。
彼は、門の脇で、震える手で封を切った。インクで綴られた文字は、力弱く、かすれていたが、そこには確かな喜びと、安らぎが満ちていた。
『門番殿。
私は、探しものを見つけました。それは、古文書の棚でも、王の宝物庫でもなく、名もなき村の子供の子守唄の中にありました。
私は、もう王都の門へは戻らないでしょう。この地で、私の最後の仕事をやり遂げるつもりです。
門番殿。私は、金では買えない宝物を見つけました。あなたが見送ってくれた、あの日に。
ありがとう。 アルバス』
ヨハンは手紙をゆっくりと折りたたみ、懐にしまった。寂しさはなかった。ただ、一つの偉大な旅が、そのあるべき場所で終わりを迎えたことへの、深い敬意と静かな満足感があった。
旅とは、必ずしも出発した場所へ帰ることではない。ある者は故郷へ、ある者は新たな地へ、そしてある者は時の彼方へと旅立っていく。自分の役割は、その全ての旅路の最初の門出を、ただ祈りと共に見送ること。
彼が空を見上げたその時。脳裏に、いつもの声がひときわ優しく響いた。
《ピーン! スキル【見送る者】のレベルが35に上がりました》
《新たな能力『見送った者が読む古い羊皮紙の文字が、ほんの少しだけ読みやすくなる』を【獲得】しました》
《旅人の偉大な功績を観測。獲得した能力が【強化】され、能力名が『見送った者が書き残す知識が、風化しにくくなる』へと変化しました》
「……書き残す、知識が」
ヨハンは、その言葉の意味を静かに噛みしめた。
アルバスが残した知識は、彼のインクは、決して風化することなく未来へと受け継がれていくのだろう。その手助けを、自分の祈りが、ほんの少しだけ、できたのかもしれない。
ヨハンは、門の向こうからやってくる新たな旅人の姿を認めると、すっくと背筋を伸ばし、いつものように、その場所へと戻っていった。
老学者アルバスの旅。
今、自分のために頑張ることも大事だけど、未来の誰かのために行動を起こすことって、大切だよね。




