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『老学者アルバスと忘れられた言葉』 - 2

 アルバスの旅は、彼が想像した以上に過酷なものだった。


 南西へ向かう街道を外れ、古道へと入ると、人の気配は途絶えた。道は荒れ、時には崖崩れで寸断されている。そのたびに、アルバスは重い背嚢を抱え、震える足で危険な回り道を探さねばならなかった。


 夜は、容赦なく体温を奪う。持病の咳は、冷たい空気を吸い込むたびに激しくなり、眠りを妨げた。焚火をおこし、その僅かな暖で身体を温めながら、彼は背嚢から羊皮紙の写しを取り出した。


 それは、彼が生涯をかけて集めた、忘れられた山村への道を示す、断片的な記述。ある古文書には「巨人の寝床と呼ばれる岩山の麓に、世を捨てた民が住まう」とあり、別の民話集には「太陽を背負う鳥の影が落ちる谷に、古き言葉は眠る」と記されている。


 彼は、それらの曖昧な記述を、天文学と地理学の知識を駆使して一つ一つ繋ぎ合わせ、進むべき方角を割り出していく。肉体は衰えても、彼の知性は、夜空の星々のように、まだ輝きを失ってはいなかった。

 不思議なことに、旅に出てから、古文書のインクの滲みが、ほんの少しだけ見やすくなったような気がした。歳のせいで霞んでいた目が、気のせいか、僅かに澄んだのかもしれない。アルバスはそれを、知の神の最後の加護かと、静かに感謝した。


 季節が移り、山々が雪に閉ざされる前に、彼はついに目的の谷へとたどり着いた。

 そこは、切り立った崖に三方を囲まれ、巨大な岩山がまるで空を塞ぐかのようにそびえ立つ、外界から完全に隔絶された場所だった。そして、その谷の奥に、小さな村が息づいていた。石を積み上げただけの素朴な家々。段々畑で何かを育てる人々。その光景は、何百年も前から時が止まっているかのようだった。


 だが、村人たちのアルバスに向ける視線は、暖かなものではなかった。鋭い警戒心と、部外者へのあからさまな敵意。彼らは独自の共同体を築き、外の世界との関わりを拒絶して生きてきたのだ。


「何用だ、外の者」


 村長らしき壮年の男が、石斧を手に、アルバスの前に立ちはだかった。

 アルバスは、旅の目的を正直に話した。忘れられた言語のこと、その最後の話し手を探していること。だが、男の表情は変わらない。


「……知らぬな。そんなものは、この村にはない。さっさと立ち去れ」


 アルバスは、何度も村へ通った。だが、村人たちの態度は頑なだった。ある時は、子供たちに石を投げつけられ、またある時は、一夜にして道が塞がれていることもあった。

 彼の体力も、そして時間も、尽きかけていた。諦念が、彼の心を支配しかける。やはり、全てはただの老人の妄執だったのか。


 その夜、アルバスは高熱を出して倒れた。もう、ここまでか。朦朧とする意識の中で、彼は故郷の王宮書庫を思い出していた。本の匂い、静かな時間。あそこで、静かに生涯を終えるべきだったのかもしれない。

 ふと、誰かが自分の額に、冷たい布を当ててくれていることに気づいた。

 目を開けると、そこにいたのは、村の子供だった。以前、彼に石を投げつけたうちの一人だ。


「……どうして」


 掠れた声で尋ねるアルバスに、子供は気まずそうに顔を伏せた。


「……あんた、いつも、崖の向こうを見てた。俺たちの畑を見て、何かを書いてた。……悪い奴には、見えなかったから」


 アルバスは、体調の良い日、村の畑仕事の様子を、後世のために記録として書き残していたのだ。作物の育て方、水の引き方、その全てが、外界とは異なる、独自の知恵に満ちていたから。


 その日から、村人たちの態度が、少しずつ軟化し始めた。彼らは、アルバスが自分たちの文化を尊重し、記録しようとしていることを理解し始めたのだ。

 そして、完全に体調が回復した日、あの村長が、アルバスの元を訪れた。


「……ついてこい」


 彼がアルバスを連れて行ったのは、村で一番古い、長老の家だった。


「……この者が、『歌い手』だ」


 そこにいたのは、寝たきりの老婆ではなかった。アルバスの予想に反して、それは、村長の腕に抱かれた、まだ言葉もおぼつかない、幼い少女だった。


「忘れられた言語など、とうにない。だが、この村では、代々、赤子に一つの『子守唄』だけを歌い継いできた。……その唄が、あんたの探しているものかもしれん」


 アルバスは、息をのんだ。

 少女は、父親の腕の中で、あやすように、古い旋律を口ずさみ始めた。それは、アルバスがこれまで聞いたこともない、懐かしく、そして不思議な響きを持つ言葉だった。

 彼は、震える手で羊皮紙を取り出した。

 予言の最後の一行。その謎が、今、解き明かされようとしていた。

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